目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

愛でもって切り開く我我の未来 -Tに捧げる-

 
この度は浅野ゆう子氏の御結婚お目出度う御座います。
 
このやうに五十を過ぎての結婚は打算ではない。
 
 
何かと云うと、保身である。
 
でも打算=保身とはならない。
 
 
何故なら打算はタダの欲であるが保身は愛である。
 
其の愛とは死するまでの十年、二十年を穏やかにそして労わりつつ生きる為の愛だ。
 
要するに爺婆の為の愛だ。
 
 
 
 
さて団塊の世代とは違い、特に我我五十代の精神的疲労こそが実は甚だしい。
 
エッ、違うのでは?
 
むしろ団塊の世代の方が疲労を重ねて来て居るのでは?
 
 
いいや、違う。
 
我我五十代の精神的疲労はすでに限界に達して来て居る。
 
我我は核家族の中で育ちさらに高度な経済成長や高度な科学的合理化及び高度な情報化の社会に常に晒されて来て居る。
 
 
要するに御坊ちゃま、お嬢ちゃまとして育って居るにも関わらず高度な進歩主義に晒されて来ても居る。
 
 
 
だからすでに可成に疲弊して来て居る。
 
 
つまりはもうそれだけで大変だった。
 
なのでもう結婚などは面倒臭い。
 
 
 
いや、確かに、私の同級生でもまともに家庭を築きまともに子を大學へ行かせて居る人も居る。
 
然し変な奴もまた多い。
 
何せマニアも多いのだし会社を潰して夜逃げする奴や離婚でボロボロになる奴、はたまたもうまるで女に興味の無い奴などが存外に多い。
 
 
 
そう問題は其の比率である。
 
言うまでもなくかっては、結婚や家庭の維持、育児や爺婆の世話をしていくのが当たり前のことで其れをイチイチ疑ってみたりはしなかった。
 
 
されど我我合理化されし五十代は、それこそ五十パーセント位の確率で其の事の価値乃至は意味を合理的に判断するやうになった。
 
 
すると、どう考えても自分の趣味や主義主張、つまりは生き方なるものを優先したいから結婚などで縛られたくはないのだしましてや子供などこんな腐った世の中に産み落としたにせよまさに生まれ落ちてから死ぬまで苦労させるばかりである。
 
 
との合理的判断から我我五十代はいや五十代以降の人間は家庭など持ちたくはないのである。
 
 
でも還暦近くになれば誰しも病気や老化との闘いに備えていかねばならない。
 
 
となれば其処に必然としてパートナーと共に老後を生きると云う極めて現実的な合理的判断が下されるのだ。
 
 
 
なので実は少しも情などはない、実は愛そのものでもない。
 
愛ではないが愛だ、だから其れが愛だ。
 
 
何度も言って居るが愛とは虚のそして嘘からの構築の作業のことを云う。
 
其の作業自体が愛なのであり作業を行わないことは愛とは呼べないであろう放棄であり不信そのものなのだ。
 
 
 
そして、我我五十代から此の放棄と不信の度が加速しつつ増していったのである。
 
ですのでもはや我我は愛など信じては居ない。
 
 
 
愛が信じられない実に情けない、いや情けないどころかヤバい、ヤバ過ぎる、丁度地球が壊されるが如くに、人間の精神が壊されていく、其の現実の過程が我我を取り巻く世界である。
 
 
 
であるからこそ我我は其の原理を知らねばならぬ。
 
然しほとんどの人間に其の道理など分かろう筈も無い。
 
 
 
すでに我我は利己主義であり、其の利己主義は豊かさと過保護がつまりは科学技術文明と近代主義が齎したものだがまさに其のことにより我我は軟弱になりそればかりか愛さえ失いつつある。
 
 
 
謂わば一番大事な精神の領域を反古にして其の代わりに要らぬスマフォだの、要らぬアンドロイド妻だの、要らぬ核兵器だの、要らぬ股の締まりの緩さだの、さうしたむしろどうでも良いやうなことばかりに血道を上げ大事な大事な愛を失いつつある。
 
 
そのやうな訳で文明のアホはどうあがいてみても変わりようがないが、個としての我我の精神の整列、整理整頓拭き掃除を確りと行う為にはかような老後に於ける合理的選択が是非必要である。
 
 
 
ゆえに浅野 ゆう子氏もまたそのやうな合理的選択を行ったものと思われる。
 
そればかりか氏は、かって恋人の死ー田宮 五郎氏の死ーを看取って居り其処からも人間の死の現実としての意味を深く知って居られよう筈。
 
 
 
人間は死をみなければ或は死を感じとらなければ真の意味では生きられない。
 
 
現代社会は其の意味で死を感じ取りにくい矛盾的な営みである。
 
 
 
「お互いこの年齢で…とも思いましたが、この年齢だからこそ、互いの健康に気遣いつつ、寄り添いながら穏やかに、これからの人生を歩んでいこうと決めました」ー浅野氏の言ー
 
 
うーむ、これぞまさに正しき選択だ。離婚したり不倫ばかりして居るクソ女共に是非是非叩き込んでやりたい高等な思想である。
 
 
このやうに中には利口な女もおる。
 
昔は浅野 ゆう子がどうも嫌ひだったが今はもう物凄く好きになって仕舞った。
 
 
 
精神、コレを正常に保つ為にはパートナーもまた是非必要である。
 
然し、五十代、六十代で花嫁になるー特に初婚の場合ーまたは花婿になることは実は物凄いエネルギーを要求されることでもある。
 
だから、普通に所帯を持ち普通に社会と闘って来し団塊の世代と我我はもうまるで違うのである。
 
 
 
我我が今結婚する、と云うのはまるでかの宇宙空間で酸素が得られた時に匹敵する程の奇跡であり愛の賛歌そのものなのである。
 
 
 
されど普通に家庭を持って居る人にとっては其れは愛の賛歌でも何でもない。
 
そんなものはタダの日常のくたびれた風景であるに過ぎぬ。
 
こうも不細工な妻に、そして出来の悪い子供、しかも金ばっかりがかかる腐った毎日。
 
 
 
然し浅野 ゆう子氏にとっては、そしてかの阿川 佐和子氏にとっては其れが特別な老後の日々ともなる。
 
昭和三十年以降の生まれの者にとってはまた別の輝く未来への扉となるのだ。
 
 
我我が科学に負けず、つまりは頭の中の合理性に負けず結果的に愛の成就をなすことほど尊いことはない。
ーたとえ其れが単なる合理的選択に過ぎぬものであれー