目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

大衆とは女であり女とはバカのことである


尚今回は軽めに大衆のことを論じます。



其の大衆が人類の何かを滅ぼすと云うことは大いに考えられることだ。

其の何かとは結局精神であり未来である。

下卑た大衆の即物的野心が精神であり未来であるところの全てを圧迫していくのだ。

其の生活至上主義または長生きしたい主義は盲目なる生への意志そのもののことだ。



大衆は長生きが大好きでかつSEXが大好きである。

さらに何でも食い、たとへゴキブリでさへ食いただただ長生きがしたい。

しかも墓に入りたい。また家に所属していたい。

いや、国家または会社に兎に角しがみついて居たい。


其のやうな従属性への顕著な指向があり、むしろ其のやうに縛られて居ないと自己実現することが出来ない。

其はまるで女のやうな承認欲求であり依存的なところだ。



対して知識人はいつ死んでも良いと願って居る。

もはや此の世の実相を認識して仕舞って居るがゆえに実は今すぐにでも此の世から消え去りたい。


あー、早うこんな腐った世から逃げ出したい。

こんなクソウルサくしかもバカバカしい世の中から一刻も早う逃げ出したい。


しかも女、此の大衆の中の大衆の要素が近代に於いて何故か肥大化の一途を辿った。

其の女のア○コの奥の欲望の力がとんでもなくデカくなり都市を形成し自然科学を推進させるに至る。

即ち文明とは其の暗闇、しかも女のア○コの奥の欲望の暗闇が齎した何やらとんでもなく汚らわしいものである。



大衆よ、今後汝らは温暖化による灼熱地獄や心なき利己主義地獄を悠々と泳いでいくことであらう。

つまりは心配など全く要らない。

何故ならコイツラは元々まともな人間ではあり得ない。


人間とは少なくとも理性を持った人のことだ。

理性の所有者つまるところ科学者か文學者のことだ。


ただし科学者は往往にしてキチ外だ。

文學者は反省ばかりして自殺するか逆に宣戦布告するかのどちらかだ。



元よりキチ外科学者共、つまりはマッドなサイエンティスト共は反省などしたくても出来ない。

要するにすでに合理主義にて全面的に精神が破壊されて居る。

左様精神が崩壊して居らう。



だから兎に角アンドロイドまたはロボットを造りたがる。

さらに新幹線のよりスーパーな奴を造りたがる。

そして最終的には神を創りたい。

神仏に代わる新たな神を創り其処で永遠に酒池肉林の生活を繰りひろげたい。



だから自然科学とは少しも理性的なものではなくむしろ生活教信者そのもののことだ。


其のやうに自然科学とはむしろ内面世界ー主観的領域ーを対象として分析される欲望のことだ。


むしろそんな下卑た欲望のことなのである。



対するほんたうの理性とはまるで理性的には見えないもののことを云う。


たとへば此のわたくしを見給へ。

どう見ても下品でかつバカだ。

おまけに未来もない。

誰が見てもさうだ。



然しそんな我に限り藝術家でありかつ思想家である。

むしろ下品な奴の方がほんたうの上品さを持ち合わせて居やう。


しかも利口なのだ、どうだザマアミロ。




大衆のバカ共はあそこから生まれあそこへ戻る。

謂わばあそこしか故郷がなくあそこしか未来がない。


我はもうあそことは縁を切る。

たった今藝術と評論にだけ生きる決意を固めた。


然し宗教ではないのか?

いや宗教はわたくしの信心ではない。


わたくしの信心とは反あそこ、即ち理性による盲目としての生きる意志との決別のことである。




だから西部先生こそがわたくしにとっての英雄なのさ。

西部先生の理性はつひにあそこを否定するに至ったのだ!



まあいい、とりあえずはこれ位にして以降はもう少し真面目に述べていかう。

でもあそこ程罪深いものはない。

近代とはあそこ至上主義で働く原理そのもののことだ。




さて姉ちゃん、この暑さは普通でないよ。

さうですね、ワタシが子供の頃は…。


馬鹿者!

君が子供の頃のことなど今はどうだっていい。

君が子供の頃にわたくしはプロパーをやって居た位のことだ。


さうではなく我が子供の頃、即ち半世紀前はこんなに地球が暑くはなかった。
せいぜいセッシ34度までであったが、其の頃と比べるともはや五度は気温が上がって仕舞って居る。


ところで熱中症で此の薬局に駆け込む人は居るのか?

ハイ、結構居ます。重症ではない人が時折来るのです。


姉ちゃん、これからはもうエライことになるぞよ。

矢張りそのうちに生存の条件につき金持ちが其れを買い占めることとなるだらう。

水や空気、其れから超強力エアコンでの快適性などを金持ちだけが手に入れるのだ。



然し貧乏人つまり庶民が風水害や暑さでもって皆死ぬと社会が崩壊し金持ちもまた搾取すること自体が不可能となる。

そして結局は金持ちも皆死滅する。

つまりは金があってももはや何ともならない。

さうして合理主義つまり利己主義は結局自己崩壊する。




先生、我は夏に限れば元気ですよー。

アア、ほんたうに元気さうですね。


ゴルフの究極のコツとはコレだ。

勿論コレを理論化することも出来ますし、そればかりではなく文武両道で作家の方も依然として頑張ってますよ。



ほんたうに元気だなあ。

もう最近は暑くて外へは出られないので練習場へも行けない。


さうですね、実はわたくしも最近は行けてないです。

気温38度でもってして何せ三百球も打つと体温が40度以上に上がりほんたうに熱中症どころか死んで仕舞ふ。



それにつけても温暖化はヤバい。

温暖化などして居ないと云う意見の人は此の事実をどう説明すると云うのだらう。



さてそれでは練習場で三百球を打って来よう。

うわー、ヤッパリ元気だなー。


ですから、実は少しも元気ではないのです。


不元気だからゆえの夏のエネルギーを借りての活性化なのです。



夏に強いのは、汗かきでしかも血圧が高くはないからです。

つまり普段から余り燃えて居ない、此の体が。

つまりは陰気、でせうか。


陰湿でもってしかも陰性。

でも陰湿でしかも陰性だからこその文學です。

其の陰気こそが常に太陽を欲して居やう。

まさにメラメラと燃え盛る其の生の爆発の有様だけを。



でも女のあそここそが其の陰気の爆発そのものです。

女とは月です、ああもうまるでアルテミスだ。

其はアポローンの如き向日の爆発ではなく陰の欲望の爆発でありもうまるで淫のSEXそのもののことです。


うわーもう、そこいら中が蛇だらけで悪魔だらけでしかもディオニソス的な陶酔に満ち満ちて御座る。

太陽が、其のメラメラと燃える陽光が全てを焼き尽くし陰と陽を、其の二元的対立の最後のたたかひを、其のハルマゲドンとしての最終戦争を、西欧近代と日本近代の自滅に至る姿をデカい鏡に映し出す!



ところで姉ちゃん、薬などはまだしも良い方での科学だ。

だが再生医療はダメだ。

人間としての分を弁えぬ科学は全部ダメだ。


ゆえにマッドなサイエンティスト共は皆温暖化の灼熱でもって焼き尽くされるべきである。

即ちこれぞ灼熱地獄の有様じゃ。






「大衆は匿名性を帯びた無責任な集団としての意味合いを持ち、顕名性をもつ市民との対比で用いられる。」


「大衆に属すると考えられる人々は、しばしば没個性的で、同種の他人と混同されやすい存在であるとみなされる。全体として「突出した能力」や「傑出した容姿」または「類稀なる才能」場合によっては「不快極まりない悪癖」や「言語道断なる害意」を持ち合わせていない存在などとされる。」

現代社会では、文化や芸術面において、商業芸術や大衆文化の最大の担い手(パトロン)となっている。」


「対比させる対象としては、知識階級や権力階級、または生産者に対する消費者と言った意味合いで同語が用いられる。オルテガによれば『大衆というものは、その本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもなく、ましてや社会を支配統治するなど及びもつかないことである』[4]とされる。しかしけっして愚鈍ではなく、上層階層にも下層階層にも大衆はおり、その全体として「無名」であることを特徴とする。大衆の特権は自分を棚にあげて言動に参加できることであり、いつでもその言動を暗示してくれた相手をほめ尽くし、またその相手を捨ててしまう特権を持つ。大衆とは「心理的事実」であり、大衆にはどこまでいっても罪はない。ゆえに大衆の動きや考えが何かに反映され、それが社会の「信念」だと判断すると重大な問題が生じる、とする。以下はオルテガの観点からの要約であるが、大衆の定義はかならずしもこれに限定されるものではない。」


「知識人(もしくはインテリゲンチャ)の対義語として扱われる場合には、知識の過程に参加せず、つまり日常生活の範囲でしか思考しない(と少なくとも知識人側が見なす)圧倒的多数派を指す。
大衆は、もともと政治哲学文学には関心がない、とする。しかし生活に不満を持ったときのみ爆発的なエネルギーを示す。そうして、生活に不満がなくなれば、政治の場を去り、生活の場に戻って行く。日本では60年安保闘争のあと、主役になった大衆は街頭から消え、知識を振りかざす活動家だけが残る。活動家は、ときとして「大衆は愚かだ」と述べる(大衆蔑視)。」以上より引用




ちなみに大衆にとっての敵とは、自らの生存の安定を脅かす全てのものと云う事になる。

だから社会構造自体が或は権力自体が屡大衆にとっての敵となり得る訳だ。

さらに知識や藝術もかつ宗教でさえ大衆にとっての敵となり得る。


かように大衆とはバカそのもののことである。

要するに自己にとっての快適な生以外のことには興味を示さず元々精神的な領域などには興味が無い。



そして決まってSEXが大好きだ。

つまりは女が好きだ。

さらに自分自身が女だ。



さう大衆とは女そのもののことなのだ。

ショーペンハウアーはあんなに女そのもののことを批判したが、当時はまだ大衆社会が成立して居らずまさか社会自体が女性化するとは彼もまるで考えていなかったことだらう。


然し時代は女そのものへと化けていった。



そこいら中がまるでもうあそこだらけの、生活至上主義、近代教主義の時代が到来するに至った。

其処では前提として生活=生が美化され至上の価値ともなっていく。

生に於ける否定的な側面が須らく忘却されー故意にー生は善きもの、望まれるべきものとの価値が形作られる。



だから其れが全部あそことしての価値だ。

あそこの価値が近代価値ヒエラルキーそのものとなり現代文明の価値観そのものとなる。

あそこ、そんな変なものの価値観を、何故此の世界は奉じて来て仕舞ったのか。


畢竟其れも所謂大衆の反逆としての非知性的側面、つまりは本能的な側面即ち盲目的な生への意志への信仰振りこそが其れを齎したことであらう。



左様に大衆とは批判精神に欠ける馬鹿のことである。

そして其の本質はズバリ女のことだ。

女=バカ=生への信心、とのことだ。



無論のこと其の生への信心またはあがきは人類の歴史上ずっと続いて来たことであった。

だが其の信心またはあがきには常にある種の抑制がかかりつまるところ反省されて居たのでもあった。


ところが近代は其の限度を撤廃していくのだった。

撤廃するとどうなるかと云うに、まずミニスカートと云うものが出来女共が自らの性的魅力をアピールするやうになった。

次に男性も出産に立ち会うこととなる。

さらに男性が裁縫を家庭科で教わるやうになる。


嗚呼、情けなや。



つまり、女=生活至上主義と云うのは昔からのことで女=欲望の権化と云う構図も古来より何ら変わるところはない。

ところがかってはミニスカートなど何処にもなく逆に屡悪魔として火炙りの刑に処せられて居たのが女であった。

さらに出産などそんな不浄のものは金輪際男性が近寄るべきものではなかった。

また裁縫などそんな女々しいものは大の男がやることではなく男性は男性らしく力仕事、または狩猟や大工仕事などに精を出しまた教育としてきかんぼうの息子を殴りつけたりして大人にしていくことが求められて居た。



其のやうな神仏が或は自然の摂理が定められし理を、其の人間としての当然の役割を合理主義思想がブチ壊しまるで腐ったやうなまるで女々しく陰気な世界を、其のミニスカートと出産の立ち合いと男の裁縫とが蔓延するまさに現世に於ける地獄の有様を生み出すに至る。



尚、かの芥川 龍之介はさうした近代生活教の有様をかって『河童』と云う作品の中でシニカルに描いて居る。

其の大衆的な極めて即物的な様は、やがて強力な利己的展開を生みモンスターなるクレーマー共を生み出すことともなる。



重要なことはモンスターな大衆的価値観には権利意識ばかりが高く掲げられるにも関わらず義務を果たす為のあらゆる努力は其処に放棄されて居ると云う事だ。

そして其のやうなモンスターな大衆的価値観は自尊心のカタマリでもある。

が、其の自尊心のカタマリは知識層に於ける自尊心とはまるで異なり反省力にまるで欠けて居る。



藝術家乃至は知識人は確かに高いプライドを持つが其のプライドには常に確かな根拠がある。

然し大衆の行動や言説には其の根拠が元々欠けて居る。

何故なら彼等は学ぶことが嫌ひでまた自制心を持ったり自省することもないのである。



要するに其処に理性などない。

其処はまるで女と一緒で、利口そうに見せては居ても実は生への盲目的な意志に突き動かされて居り藝術や学問ならびに宗教的な関心、或いは哲學的な思考など苦手でありいや苦手どころかそも出来ないのである、そんな高尚なこと自体が。



が、大衆の定義は少々複雑なところがある。

確かに女でも大衆ではない女は居る。

また學者でもモロ大衆である場合などもある。

また下品モロダシの藝術家=我なども居るからさうカンタンに大衆だ知識人だと決めつけてはならない。



大衆には元々理性が欠けて居るので自らを規制するものに対して猛反発する。



「近代では漫画が、現代ではテレビゲームがその「大衆の消費するメディア」の槍玉に挙げられている。」以上より引用
   

ただし文學に匹敵するやうな質の高い漫画と云う分野もまたあるが、他方でゲームは本質的に其れとは違う虚の領域のものでやがて其れは人類の知性を限りなく麻痺させていくことであらう。



大衆文化の領域では本能的興味が知的好奇心よりも先んじて表出されると云う事に必然としてなる。

つまりは精神の錬磨よりも本能の満足=欲望の成就であり過去に学び未来に備えるのではなくして現在と云う此の瞬間の快不快にあくまで固執するのである。

其の意味で文明は今大衆世界の極としての領域を歩んで居ることだらう。



さて大衆文化が極限まで進むとどうなるのか?

まず自制心が次第に弱っていくことだらう。

要するに我慢が出来ない人々が増える。

そして根拠のない自尊心=自信を持つ者が増えて来る。



事実わたくしの周りにもさうした根拠のない自尊心に毒された人間が如何に多いことか。

無論のこと自尊心と云うのは、或いは自信と云うのは根拠がある上で持つことこそが大事なことだ。

尚わたくしの場合には実に嫌らしいことにさうした周りの自尊心のやうなもの、自信のやうなものをひとつひとつ粉砕して回ることにむしろ喜びを感じて居るのである。



僕は知って居る、などと思って居る思い上がった輩にはわたくしが読んで来た様々な難しい本を貸し与えコレを二週間後までに読んで来い、だの、文學や宗教や思想の面ではわたくしに太刀打ち出来ないことを知らしめる為に其処であへて議論を行い徹底的に打ち負かす。


其のやうな陰湿かつ陰気な性格であるからこそ夏場の陽光溢れる様が大好きで嗚呼、早く夏休みが来ないかなあ、夏休みになったら早く山へ逃げたいなあ、今山はいいだろうなあ、何せ女の気配が何処にも無くて。


などと思ひつつ一切の色気を遮断し精神の錬磨と物質欲と食欲に生きる我であった。


ちなみにもううな重は食ひ終わりました。

予定とは違う有名店のうな重でしたが何と一人前で4100円もするものでした。


尤もしら河の方が安くて旨いと正直思わされました。







尚所謂キッチュな文化に関して一言述べておきます。


大衆文化の本質は不真面目なもの、チープなものを真面目に扱うことであり其れが謂わば新しい価値観に連なっていくがあくまで其れは所謂後衛であり模倣としての紛い物である可能性が高い。

あくまで其れは「低俗で廉価、あるいは大衆文化、消費文化の感傷的な形相を表現する」ものであり「教養の低い、大量生産された、大衆的な文化の象徴」ものであると云う意味に於いてはキッチュな文化こそが適任でありむしろ其れ以外では表現し得ないことだらう価値を有して居る。


ちなみにわたくしはチープなものをむしろ好む傾向があり、其れと同時に高価な本物の方にも目配せを怠らず無理をしない範囲で其れ等を入手したりもして来て居る。

また美術館などへもふらりと屡立ち寄る。



ではありますが、私自身の精神の傾向としてはむしろ本物志向へ戻るべきであり近代に至り嫌われて来し教条主義権威主義に立ち戻るべきであると云う反近代型の思想がむしろ堅固に形作られつつあります。


其れを一言で言うとジジイ化、其れも昭和初期生まれ位のジジイ、即ち今九十歳前後の爺様達の精神のお仲間入りを目指して居り其のやうな精神に於ける実にマニアックな追求の過程に於いてまさにふしだらな戦後生まれの女共との交流を断つといふ決心をしたところである。


尚チープなものには実は毒もあります。

でも根が大衆の人々には其の毒は決して全身に回らないものである。

何故なら彼等は元々鈍感かつ不真面目なのでしょうから。

むしろ真面目で敏感なインテリほど気をつけなければなりません、其の毒の作用に。



左様に近代は生真面目さと不真面目さがゴッタ煮でもって共存する世界です。

まさに其れは聖と悪魔が混在する世界でもあり男が女であり女が男でもある世界なのです。

或いは文學が低俗化し漫画が文學化する世界でもある。



其の大衆文化に於ける不真面目さは要領の良さ=低俗な容量の大きさを必然として要求して来ます。

しかしながら其の不真面目さ=紛い物を持ち上げる力に生真面目さが浸食されるやうなことがあってはならない。

其れは丁度フリーセックスがかっての堅い性解釈を壊したりしてはいけないと云う事でもある。



あくまで思想的にわたくし自身は大衆的価値観をむしろ破壊として見る方向性にある。

近代科学+大衆的価値観=女の欲望であり、其れが文明を自滅へと至らせる宿命的な精神的元凶そのもののことだ。

と云った結論に傾きつつある。



要するに近代的な欲望の解放=破壊だと云う捉え方である。

ですのでこんな猛暑やモンスター人間の発生も須らく其の近代的な欲望の解放=破壊としての一側面でしかない。

それで最終的には自滅に追い込まれていくのが近代的な欲望の解放=破壊の目的である。



其れを其の様を一文學人間として真面目に見続けて来て居るだけなのでしてね。

少なくとも温暖化はしていないだの、男女は平等である、だの人間は自由な存在でなければならない、だの云われてもわたくし自身は全くそうは思わない。

つまりは人間の生がそも善きものだとは思って居ない。

人間共がまさに犯罪者として此処にかうして出て来て居る限りなるべく早うあの世とやらへ逃げていくべきだとさう考えて居るばかりだ。