西部邁 ここまで属国根性が染みついたのか
(安倍首相はいわゆる保守層の支持を得ていると言われています。しかし、安倍首相は保守でもなんでもありません。「生産性革命」や「人づくり革命」など「革命」という言葉を連呼する様を見ると、むしろ左翼思想の持ち主とさえ言えます。)
(かつてオルテガは「大衆社会には絶望するしかない、そこで許される唯一の希望は絶望する者が増えることだけである」と言いました。だから希望の党が「大衆社会に絶望する者を増やします」とでも言うなら分かるが、今の政治家にそんな教養の欠片もあるはずはない。
本来ならば希望の党などと聞けば、国家の歴史に学ぼうとしない政治家たちの言葉遣いというのは、ここまで幼稚化するものかとクスクス苦笑して当然ですが、今の国民はそんな愛嬌は持ち合わせてはいない。
この100年間、民主主義なるものの堕落、腐敗、混乱、それが繰り返し繰り返し起こっているのです。民主主義などというものは、古代ギリシャの昔から金権政治あるいは人気政治を生み出した挙げ句の果てに独裁者を生み出して終わりだというのが政治の相場です。)
(伝統とは、慣習の奥底に潜んでいるはずの、危機に際していかにバランスをとるかという国民のいわば平衡感覚のことを呼ぶのです。その平衡感覚がどこにあるかと言えば、過去でも未来でもなく現在の危機的状況において、その内容と仕方でもって、「これは歴史伝統の知恵を重々くみ取っているな」と思わせる人間の言葉遣いや振舞いの中にしかない。
だから保守がいないと嘆こうが怒ろうが、今に始まったことじゃないんです。僕はもう昔から言い続けてもう疲れ果てた。たとえば日本新党という政党があった。新党とは何だ、新しければいいのか。それはまさに「新しさ」に価値を置く近代主義そのものですよ。新生党や新進党もそうです。新しく生まれるバカもいれば、新しさへ進むアホもいるだろう。そういう歴史伝統を切り離した似非看板を掲げた政党が山ほど浮かんでは消え、とうとう希望の党まで出てきたが、過去に学ばず現状を「リセット」するような政党に希望などあるはずがない。)上記より引用
かつ大衆社会と結託した民主主義が最終的には崩壊の途を辿るだらうことを予見された部分でもある。
謂わばポピュラリズムに深く蝕まれた國日本の未来の混沌と絶望振りが此処に余すことなく描き出されて居る。
おまけに其のポピュラリスト共は決まって新しいものが好きです。
おそらくは合理主義によりそのやうに洗脳されて居る訳だ。
だから保守としての地盤、其の伝統の維持の基盤としての精神のあり方自体がすでに失われて居る。
保守と言って居る人たちでさへ其の保守の意味を取り違えほんたうは何も分かって居ない。
まあ近い将来に引き起こされるであらう日本の滅亡の危機につき誰も分かっていやしない。
ゆえに論理的にはすでに絶望の度を深めていくほかはない。
其処で本質論としての日本人はすでに死んだも同然である。
或いは極めて優れた知性にだけ其れが分かるのではないでせうか。
確かに悲観の度が過ぎると言えなくもないが確かに悲観論としては正論でせう。
問題は其の大衆的価値社会が戦後民主主義と見事に組み合わさり其れ自体が日本人の宗教のやうなものになって仕舞って居る点にある。
しかも其の大衆乃至は大衆文化人である日本人は其れが善なる価値だとあくまで信じて居るので実は悪をやり続けて来たと云う自覚には全く欠ける。
皆が会社で頑張り高度に経済成長して来たのはほぼ絶対的な良ひ行いで左翼思想や宗教などの潔癖主義に比べ遥かに優れて居るとさう思ひ込んでも居る。
だから日本の若者がふしだらにならうがスマフォ人間にならうがまるで意に介さぬ。
其はかの危険なる宗教人間になるより余程にマシである。
危険な思想こそが悪であり其れはソ連型の共産革命思想と貧乏と宗教である。
其の善なる思想の最悪なのを知る由もなくサア保守だ、戦後憲法の遵守だ、会社中心、社会一丸での進歩と調和の毎日だ。
其れさへやってれば必ずや日本の未来はバラ色だー。
嗚呼、まさに婆色の未来だ。
ですが文明とは元々そんなものだ。
さうして我我は精神を蝕まれつつ未来を泳いでいくほかない。
ニーチェの大衆批判を改めて見るまでもなく大衆が切り拓く道とは常に不安定でもって常にドス黒いものだ。
其のドス黒い生の営みをわたくしは善なる悪魔の営為であると結論付けた。
悪魔の営みに対して不感症である盲目的な生への意志に刺し貫かれて居ることこそが大衆の寄って立つ精神としてのあり方そのものだ。
大衆社会は結局内的安住と原始退行を齎すものだとわたくしは捉える。
其れは精神の幼稚化の問題であり制御不可能な欲望の蔓延の別名のことでもある。
つまるところ大衆社会に於ける大衆ーエリートも含まれるーは考えることを放棄して居るにも関わらず自己完結としての矜持を保ち尚且つ利己的に孤立していかざるを得ない。
即ち其処では自己にこそ絶対性があり反社会的な欲望でさえも其の自己の範囲を脅かすものではない。
理性的な近代的自我を有して居ると各個人は思ひ込んでいやうが其の実は利己的な欲望の内側を堂々巡りするのみで其処では人間の精神が根本から貶められていくのである。
かってニーチェが述べた如くに高邁な精神に培われた貴族的なものの見方が失われ興味本位でしかも本能的な自己利益の追求以外には興味の無いまさに飼育されし家畜の群れの如き精神のあり方が蔓延する。
事実戦後世界はさうした大衆による大衆の為の下劣なる内的欲望の追求がまさに非社会的に追及され挙句に利己的な人間の群れを生み出して来たのであらう。
其の傾向は二十世紀末にピークを迎えて居たのかもしれない。
そして今世紀に入ると破壊が加速され齎されて居るかの如きだ。
其の破壊とは精神の破壊のことである。
第一欲望を抑えきれない人間が今は多過ぎる。
其の理由のひとつに近代主義の無制限の履行による人間自身への限定の解除と云うことがある。
そして畢竟其れも合理化の結末なのである。
合理化された人間の立場がむしろ甘やかされ、我慢することの出来ない未熟な心性を生み出すに至ったのだ。
ゆえに人間自身を合理化することなど許されるべきではない。
何度も申して来て居るやうに、限度があるからこその人間である。
其の内的安住こそはむしろ社会にとっての個としての無関心であり無視なのでもある。
原始退行は其の内的安住ー内側化ーにより引き起こされる理性による限定の撤廃のことである。
左様に限度の撤廃は人間にとってのあらゆる不安定と破壊とを齎す。
結局自己利益に繋がると見れば其れに飛びつくのが大衆の意志でありまた其の決定は多くが盲目的な次元でさう行われていくのだ。
ただしわたくしは大衆社会を批判的に捉えつつも其の価値を認めて居ない訳ではないのだ。
むしろ戦後世界の価値は大衆的価値こそが先導する形でつくり上げたものだ。
しかも其れが藝術やライフスタイルにも連なっていくことで所謂大衆文化をつくり上げても居る。
ただし其れを手放しで評価することは出来ない。
何故なら大衆的な他への無関心と欲望の追求は即自己及び他に対する破壊の動きそのものともならう。
だから皆、やがては精神の領域で様々な問題が必然として齎されることだらう。
そしてつひには其れが重大なニヒリズムに連なっていくことだらう。
尚わたくしは現代の宗教が抱える問題をニヒリズムだとは捉えて居ないのである。
むしろ宗教を選んでやって居るのであれば其れは正常な心のあり方だ。
とは言え余りに反社会性を帯びられても困るのだけれど、とりあえず其れは悩める心を持つ人間としての正常な心の姿であり行動だらう。
逆に宗教に関心がない、さうしてゲームばかりを端末でやって居る、或いはエロ漫画にしか発情しない、などの異常性は真に放ってはおけない心の病を引き起こす領域のものだ。
しかも其れが増えて居るだらうことが最も危惧されることだ。
一言で言えば其れもまた合理主義の病なのである。
ところが大衆には其の自覚が無いかまたは薄いのである。
大衆とはさうした鈍感さを備えた人々のことだ。
だからたとえインテリでも鈍感ならば大衆の一人に数えられる。
たとえインテリではなくとも精神の領域で敏感な人は大衆ではない。
ちなみにわたくしは気質が極めて神経質で非大衆的な部分もあるゆえそんな鈍感さと云うか無神経振りに大きく反応して仕舞う事が往々にしてある。
たとへば地下鉄でもって対面席側の全員がスマフォをやって居れば其れはもはや気持ち悪い限りでのことだ。
大衆社会の抱える問題とは結局近代としての人間の精神のあり方と密接に絡んで居り社会問題として本質的な命題なのかもしれない。
特により大きく捉えた場合には其れはまさに盲目的な意志の発現の問題と絡んで来るであらう。
近代の思想は此の盲目的な意志を絶対的な善として規定するに至った。
然しおそらくは其の絶対肯定の生こそが何か大きな誤りを含んで居るのであらう。
また考えてみれば其の盲目的な意志とは極めて大衆的な、其の大衆的な心性とは元々親和性の高い概念なのである。
近代に於けるかうしたバランス感覚の無さによる諸の破壊と喪失に対して真の意味での処方箋を打ち出されて居るのが西部先生の御意見なのではないか。
尚釈迦は成道の折に此のバランスのことを何より大事にされて居た筈である。
其れは「弾琴の悟り」とも云われる。
即ち、
弦は強く張りすぎれば切れる。
張り方が弱ければ鳴らない。
伝統または慣習とは、此の平衡感覚のことだと先生は述べられた。
其れも危機に対しての平衡感覚のことだと仰った。
だから何でも新しくすれば良いというものではない。
其の新しさそのものが破壊の引き金となることが往々にしてあらう。
其の破壊の危機に際してこその伝統であり慣習の保持の重みなのだ。
其の知恵としての平衡を取り戻すべく常に保守はかくあらねばなるまい。