目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

大衆社會への批判及び政治思想の上での眞理に就いてーオルテガの思想から読み解く大衆社會の問題点ー

大衆社會への批判及び政治思想の上での眞理に就いてーオルテガの思想から読み解く大衆社會の問題点ー

 

 

ー現代人は自主的に判断・行動する主体性を喪失し、極論から極論へと根無し草のように浮遊し続ける集団と化すことが多くなりました。

自分たちを縛る箍がはずれた時、群衆はその盲目的な力を発動させました。人は、群衆の中にいるとき「暗示を受けやすく物事を軽々しく信じる性質」を与えられます。論理ではなく「イメージ」によってのみ物事を考える群衆は、「イメージ」を喚起する力強い「標語」や「スローガン」によって「暗示」を受け、その「暗示」が群衆の中で「感染」し、その結果、群衆は「衝動」の奴隷になっていきます。これが「群衆心理のメカニズム」です。

18世紀後半から19世紀、圧倒的な多数を占め始めた彼らが社会の中心へと躍り出て支配権をふるうようになったとル・ボンは分析し、彼らを動かす「群衆心理」が猛威を振るい続ければ、私たちの文明の衰退は避けられないと警鐘を鳴らすのです。

 

現代の視点から「群衆心理」を読み直し、「単純化」「極論」に覆われた社会にあって「思考し問い続ける力」をどう保っていけばよいかを考えます。ー名著113「群衆心理」:100分 de 名著 (nhk.or.jp)より

 

 

1.主體性の喪失

2.感情論

3.衝動的意思決定及び行動

 

其の群集心理、つまりは大衆に於ける考えや行動が社會を破壊するに至る元凶であるとの危惧が廿世紀以降は時に考えられて来ました。

また民主制の機能不全や独裁的な體制の発生に於いても其の「主體性」を欠くところでの大衆的意思決定が深く関与して居る可能性が高くあらう。

 

故に其の「特に現代に於ける社會がむしろ悪くなるつまりは劣化している」と云う事實には其の大衆的意思決定が其の原因ー主犯ーとして考えられやう。

などと申しますとまたイキナリの悲観論となるが其処はまあ壱つ聴いてみて下され。

 

事實として大衆の意志決定はさうして衝動的でありまた感情的であり「思考」以前での言わば動物的反応によるものです。

 

わたくしは其の精神的過程もまた「原始退行」の壱側面なのだと考えて来て居る。

但し「原始退行」はむしろ知的エリートの側で引き起こされるもので其れは自己矛盾する理性の本能化と云うプロセスでのことでした。

 

されど大衆的意思決定の場合は實はそんなに高等な話なのでは無い。

要するにみんなでもってみんなの頭の中身が本能的に破壊されて行くと云うことなのだ。

 

また其のことはまさに「動物化」の過程なのです。

 

 

4.モンスターな親、モンスター消費者、モンスターなお子さん

5.女子学生の淫売化

6.兎に角力のあるものに群れたがる性質

 

此れ等の全てが「動物化」の過程の特徴です。

 

さらに此処日本では、

 

7.無宗教

 

などと云うこともまた其の大衆的意思決定に関連されることなのではないか。

 

何故なら、

 

8.大衆は難しいものが嫌い

9.大衆は見栄えばかりを気にかける

 

からなのです。

 

従って其処ではそも思考の幅が極めて狭くいやほとんど思考などして居ないのでまさにアノコイズミ総理やアベ総理などのバカ総理を偉い人だと勘違いして認識して仕舞う訳だ。

また大衆は、

 

10.👪主義で且つヒエラルキー主義でありさらにむしろエログロなものを好む

 

のです。

 

 

なんですが、わたくしには其の大衆的資質がそも欠けて居り要するにオルテガの云う「精神の貴族」的な傾向が可成に強くある人間です。

 

オルテガ「大衆の反逆」を分かりやすく解説 | マインドセットサロン (mindsetsalon.net)

オルテガ「大衆の反逆」を分かりやすく解説 -精神的な貴族-| マインドセットサロン (mindsetsalon.net)

 

オルテガの云う「精神的な貴族」に当てはまる人は以下のような人

  • 自分とは異なる人を受け入れる粘り強さや克己心を持っている
  • 自分の居場所を持っている
  • 社会の中で自分の役割を果たそうとしている
  • 大衆に迎合せず、大衆と共にある

以上より

 

 

では確かめてみませう。

 

自分の場合は異なる宗教ー壱神教や多神教ーなども精神的に受け容れるのだし克己心もかうして持って居る。-つまりは御勉強が好きだ-

また自分の居場所は自分の部屋及び此処にこそしかと築いて来て居ります。

 

また此処での発言が詩人の発言として世の為人の為になるとさう思いつつも作文して居る。

尤も常に大衆をバカにして居ますが自分もまた動物的な下品な奴なので其の意味では其れと共にある。

 

なんですがわたくしは結構主張が強くあるつまりは激しい精神領域の持ち主ですので基本的には他人のことなんぞには興味がありません。

故にか文明と其れを築いた人間自身とは常に闘争状態にありよって人間に對する優しい気持ちなどはほぼありません。

 

むしろ自然に對しては何処までも優しくなったが兎に角人間自身に對し常に批判的であり且つ攻撃的ですので矢張り普通には居ないであらう人間である可能性は高い。

 

 

つまりはわたくしはさう穏やかな人では無く文明や其処に於ける現存在の認識をほぼ否定的に扱う嫌な奴です。

また尾張藩のわたくしめが壱手に其れを引き受けて所謂悪役をして行かうかと最近さうも思い始めました。

 

同じ尾張藩の出の人でもイチローや真央ちゃんや藤井君などはああして人気者ですが我は結局かうして人文理性として思い切りに屈折して居る分ならばあえてやったらうかとさうも思うのです。

ですがほんたうはなるべく🐜さんを踏みつぶさないやうに歩くおおまさに虫も殺せぬやうな至極優しい人間なのだが。

 

で、僕は其の「人気」など此の世の中には要らないとさう思います。

どだい現存在は誰もが生のステージに於ける「スタア」であり同時に「👿」共です。

 

元々生には其の弐面性がありつまりは生きることとは其の弐面を受け容れることだ。

だがかって御釈迦様やイエス様は其れを其の侭に受け容れ生きることを共に否定されて居る。

 

つまりは其の侭ではむしろダメなんです。

ダメですが、謂わば大衆的資質が逆に其れを欲する訳だ。

 

 

8.大衆は難しいものが嫌い

9.大衆は見栄えばかりを気にかける

 

兎に角まずは此処が大問題です。

 

つまるところ大衆は文學ー其れも純文學ー、哲學、宗教ー其れも正教に於ける理論的展開ーなどに就き拒否感を示すことが多い。

でも其れ等はむしろわたくしが毎日浸り切って居る部分です。

 

逆に大衆は酒飲んで宴会をしたりまたテーマパークへ行ったりさらに賑やかな街中や信長祭りなどで木村 拓哉の信長を壱目見やうとしてウジャウジャと集まります。【詳細】ぎふ信長まつり 武者行列に46万人 大きなトラブルなし | NHK | エンタメ

でもってわたくしの場合は其れ等への興味がほぼゼロです。

 

なので要するに其の心のあり方、理性のあり方としての方向性がむしろ眞逆なのでせう。

 

また僕の趣味であるピアノ・ソナタの鑑賞にせよ美術館巡りにせよさらに文學評論、哲學的論考の類など其れこそ全部が高尚其のものです。

おまけにアンティー萬年筆の深い理解者ですよ、理解者。

 

ま、但し僕の其の如何にも高尚な趣味は周りには無視されることが何故か多い訳だが…。

 

 

だが兎に角わたくしはオルテガの云う「精神的な貴族」である可能性が高い。

逆に申せば我には大衆的資質がそも欠けて居るのである。

 

でもって、でも我がみすぼらしいなりをしてフラフラと出歩きあちこちでもって「僕は精神的な貴族」ですとさう吹聴したとしてみませう。

すると周りは僕のことをどう思いますか?

 

決まって其れは、

「コイツ頭がオカシイぞー、はあっはっはっはっはー。」

です。

 

要するに僕の其の眞實の姿を信じては貰えません。

 

だから僕はまさに其のことを証明せんが為にかうして毎日作文をして居るのです。

ほんたうのほんたうはさうしたことであり文明批判とかさうしたことでも實は無いのです。

 

其れもまあ僕が「大學教授」であるとか「作家」であるとかそんな肩書きでも持ってればまた話は変わるのでせうがさうして「持ってるのに持って無い」ので周囲の疑惑を払拭するだけの説得力に欠けて居る訳だ。

であるからこそ万年自称詩人なのだ。

 

でもどうだ、偉いだらう?

其のやうに苦難にもめげずに世の風潮と闘う「精神的な貴族」ほど偉い者もまた無い。

 

 

ですので本質として僕は大衆じゃ無いです。

ですがまた何処かで大衆と寄り添い何とか其れを変えて行けぬものかとは常に思っても居る。

 

尚自分は木村 拓哉はほぼ好きでは無く稲垣 吾郎の方が優しさうで好きです。

また草彅 剛なども嫌いではありません。

 

要するに地味目の弐枚目が好きで例えば三浦 友和などは元元タイプです。

ただしオカマでは無く女優にも普通に興味はある。

 

例えば、

永作 博美などが實は可成に好きです。

 

ですが本命は矢張りと言うべきかアノおばちゃん、うーん、誰だったか?

ああさうだ、アノ宮崎 美子だ。

 

アノ宮崎 美子とコノワシの血を受け継ぐ子ならばもう世界壱の學者又は作家になれやうぞ。

 

宮崎 美子にはもう子は出来ませんよ。

いや出来る、其れもやってみねば分からんではないか!

 

さうだ、ひょっとすればゲノム編集か何かでやれるのではないか。

ー宮崎 美子+我=大天才の誕生ー

 

 

其の「精神的な貴族」なるものは勿論我ばかりでは無く多くの文人さん方や藝術家さらに學者の方方にも当て嵌るであらう心の性質のあり方でせう。

なのですが大衆的意思決定の問題点とはまた其のインテリゲンチャの方方迄もが其の大衆の壱人と化し其の場其の場にて「流されて行く」点にこそあるのです。

 

従って我が意見などは可成に過激な社會関係の否定を含むものながら其の「流され得ぬ自分」をあえて其処に築かんが為にあえてさうして置きませうと云うことなのだ。

でもって兎に角大衆的認識を離れる為には矢張りどうしても其れとは逆の精神の方向性、逆の心理の流れを形作って行くより他には方法がありません。

 

よって、

 

10.みんなで遊ぶのが好き→むしろ孤独に徹する

11.くだけた内容のものが好き→むしろ難解なものに限り好き

12.👪主義でもって感情重視→むしろ孤高を貫き理路整然としたものを指向す

 

との心的内容を是非成就させて行かねばなりません。

でないと次第に此の世は至極個に取り生きにくいものへと移り変わって行くやうな気がしてならない。

 

 

  • 大量にいる
  • 自分が意味ある存在として位置づけられる場所(帰る場所)がない
  • 個性がない
  • 孤独
  • 皆と同じであることに快感を覚える
  • 皆と同じでないものを排除する

 

オルテガ「大衆の反逆」を分かりやすく解説 -大衆とは何か-| マインドセットサロン (mindsetsalon.net)より

 

さて此処で其の大衆の定義に就きあえて考えてみませう。

でもって、また此のことも自分の心のあり方と対比させ論じてみます。

 

まず、

 

どだいこんな尾張の個性の強いーアクの強いー自称詩人は世界に壱人だけしか居ません。

さらに僕はかうして此処に出て来るのだしまたもしも此処が無くなっても何処までも自分と云う帰る場所があります。

さらに個性はむしろあり過ぎだらう。

 

さて其の「孤独」に関しては以前にも述べましたが孤独を怖れぬ者は例え壱人であれ孤独ではありません。

逆にみんなと居ないと孤独なのが大衆的な心性でありつまるところ其れは「自分」ーの理性や心ーが確立出来て居ないのです。

 

また其の逆に「自分」ーの理性や心ーが確立出来て居るとどうあらうが「孤独」ではあり得ない訳だ。

要するに山奥にて独居したりするにせよ其処ではお化けー妖異変化の類ーが怖いだけで「孤独」感に苛まれて居る訳ではありません。

 

次に皆と同じであることを軽蔑する傾向がまた我の場合には強くある。

要するに其の種の類の無個性さや同質性をむしろ蔑んでさえ居る。

 

また皆と同じで無いものをむしろ僕は尊敬する。

 

さうしたことは此れ迄の此処でのわたくしの言説からも明らかに証明され得ることでせう。

であるとすれば、まさにわたくしは其の大衆的な心理の性質とは眞逆のものをしかと持ち合わせて居る訳です。

 

其れも幸か不幸か何時の間にかさう出来上がって仕舞って居る訳だ。

 

 

  • 正しさを所有できていると勘違いしている
  • 自分の能力や理性を疑わない(自分や社会を完璧だと思い込んでいる)
  • 自分を超えるモノへの畏敬の念がない

 

オルテガ「大衆の反逆」を分かりやすく解説 -生き方の問題-| マインドセットサロン (mindsetsalon.net)より

 

我もまた最近繰り返し述べて来ましたがまずは「大衆」には事の正邪の区別が付かないのです。

ところがまさに自分の考え、自分の思い、自分の行動などが「正しい」とさう信じ込んで居ます。

 

ハッキリ言ってまさに其れが「洗脳」状態であり且つ自己催眠状態です。

でもってわたくしの論説が壱種過激なのは其の「洗脳」状態を現代文明其れ自體によるものだとさうデカくー其れも最大限にー捉えて居ることでせう。

 

ですが我にもまた其の大衆的気質が入って居ないでも無い。

 

だからなのか「正しさを所有出来て居る」とさうもまた思います。

但し其れは人文學の分野にて長年に亘り築いて来たところでの「自信」のやうなものでもまたある。

 

故に根拠の無い思い上がりの部分とはまた異なるがそんな自分にもまた眞理レヴェルでの思い上がりはあるものとさう考えます。

要するに神佛レヴェルでの認識からすれば我が認識はほぼ「声聞・縁覚」レヴェルでのものに過ぎぬことだらう。

 

従って我の場合はとりあえず其処までは到達しましたのでむしろ「自分」も「社會」も不完全極まりないものだとさう認識する。

が、両者ともむしろ目壱杯なのだと云うことなどもまた其処に感じ取って居たりもする。

 

要するに共にダメなのだがむしろ目壱杯なのだ。

まさにそんな哀しい意味での闘争の場こそが此の世の實相である訳で、であるからこそ其の全てを「慈悲・慈愛」の眼差しでもって見詰めて行かざるを得ない。

 

よって最後の其の超越的な存在への畏敬の念を逆に我は強く持ち合わせて居ます。

其れは言わば「自分の能力や理性」があくまで限定的にしか発現し得ぬものであることをすでに自分で見切って居るからです。

 

 

また其の超越的な存在を象徴するものこそが「自然」です。

其れも神や佛以前での完璧な営為であることが其の「自然」の本質的意義です。

 

だけれどもまた其のことは「自然としての自然の営為」こそが完璧なのです。

でも宗教的見地からすれば必ずしも「自然としての自然の営為」こそが完璧なのでは無く全能の神の営為か又は此の世から完全に消え去ったところでの佛の認識こそが完璧なのです。

 

自然と神佛との関係性とはまさにさうしたものでありよってあくまで創唱宗教の範囲では「自然」は「神佛」以上のものとはなり得ません。

其の自然と神とが壱致するのが自然宗教の側ですが其れはあくまで人間を救済せんが為の教えなのでは無い。

 

いずれにせよ此の大衆社會に於ける認識上の眞理との乖離の問題こそが近代的な意味での矛盾点其のものなのだと考えられませう。

よってさらに続けて論じて行かねばならぬところですがまた大掃除の方で是非時間が必要となりました。

故にまた壱、弐週間程此処を御休みし掃除に勤しむことと致します。

 

即ち我が蔵書を居間の横の本棚ケースーブリタニカ百科事典法律書が詰まった書棚ーへと半分位は移動させます。

我が蔵書は文明批判の書の類が結構多いが其ればかりでは無く勿論文學系のものなどもまた多くある。

 

さらに宗教関係や自然に関する本などがまた多くある。

尚自分は學者の方方や読書家の作家の方方程正直本を読めては居りません。

 

其れでもまた文學全集なども持ち合わせて居り勿論其れは何せカサがあり移動させることは出来ない。

其れもかって自分で買った岩波の芥川 龍之介全集と夏目 漱石全集さらに坂口 安吾選集など、また父から引き継いだ筑摩の方の文學全集などもまたありますのでまあソコだけは作家さん並でもあることでせう。

 

さらにまた古生物學や石関連の書籍などがまた多くありよって結局は部屋が本ダラケなのでさうして此の際弐階から壱階へと移動させる訳です。

 

でもってして此れだけの本を読み思考力を磨いて来たのでわたくしは大衆の域を脱して居る可能性もまた高くあることでせう。

なんですがそんな我がスーパーのレジなどでネット作家だと威張ると知り合いの店員さんでも逆にバカにされたりもまたするのである。

 

 

結局其れは作家としての威厳が微塵も感じられない我が言葉に説得力が無いのであります。

 

だったらアノ又吉氏のやうに芥川賞の壱つでも取ったれ!

いえ僕の狙いはあくまでH氏賞 - Wikipediaなのだが其れを取る時間が無いのでむしろ自分でもって賞を創設してみたい。

 

すると其れがまさに「ウンコたれ賞」ですか?

いえ違います。

まさにソレが「ネットライター弐拾周年記念御苦労様賞」だ!!

 

いやね、来年丁度其の弐拾周年となるんです、其のネット作家の方が。

うわあー、凄いなー、だから流石に書いてることがいつも面白いんだな。

 

いえでも読者の皆様は「此の馬鹿野郎!」といつもさう思われながら此処を御読み頂いて居るのやもしれない。

 

 

尚また壱旦戻り彼オルテガの思想の大事なところをさらに述べて置きます。

 

ー過去を軽んじてはいけません。

過去を見ることは、今までの英知を知ることを意味します

決して後ろ向きな志向ではなく、むしろ前向きな未来志向なのです。

 

過去に人々が紡ぎだしてきた社会システムには、人間の理性を超えた素晴らしい可能性があります

一人ひとりがはっきりとした意見を持たない大衆が、突然現れたカリスマの扇動によって流され、多数決によってそれが社会的な正しさになることを、否定したのです。ー

 

オルテガ「大衆の反逆」を分かりやすく解説 -過去と向き合うべき- | マインドセットサロン (mindsetsalon.net)より

 

其のやうに大衆は過去から學ぶだけの學力ー理性の力ーを持って居ない。

其れはまさに進歩主義に毒された教育の最大の問題点でせう。

 

ですがー人文學上のー眞理はむしろ過去にこそ埋もれて居る。

其れを発掘し學び直すことこそが人文學としての理性の役割です。

 

 

オルテガ「大衆の反逆」を分かりやすく解説 -保守と革新の間-| マインドセットサロン (mindsetsalon.net)

 

此処にはオルテガの言う「永遠の微調整」と云う政治思想の上での眞理がまさに述べられて居る。

 

ですがわたくしは其れに従い「保守」と「革新」の間を考え続けて来たのではありません。

其れこそ佐伯 啓思先生の思想などを参考となし其の上で自分の頭でもって考えに考えた挙句に其のどちらにも偏らない政治思想を模索して参りました。

 

保守⇔革新

 

此の対立項が生ずる思考法其のものが實は不完全なものです。

でもってどちらかに与し「自分が正しい」とさう言うて居るうちは大衆的な意味での洗脳過程ー価値観としての洗脳過程ーの中にしかと組み込まれて行くのです。

 

なのでどちらをも見据えた上で微調整する即ちイデオロギーとしてのバランスを取ると云うことでしかもはやあり得ません。

即ち「相剋」し且つ「相即」する関係性を何とか其処に築き上げる努力を行って行くより他に手は無い。

 

まさに其の対立関係での関係性其れ自體をバランスさせることこそが我が人文學との半世紀に亘る苦闘の果てに見出した眞理其のものなのだ。

ではまた。