目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

あくまでわたくしにとっての學匠詩人の魅力ー西脇順三郎と他の學匠詩人に就いてー

あくまでわたくしにとっての學匠詩人の魅力ー西脇順三郎と他の學匠詩人に就いてー

 

 

 

 

イエス・キリストが白人として描かれた理由は、現代でも対立の根底に 民族と文明で読み解く「ユダヤ人」・下 (msn.com)

 

確かにイエス・キリストはまさか白人ではなかったことだらう。

でも宗教とはまた結局はそんなものだ。

 

つまりは「鰯の頭も信心から」なのである。

だが宗教は嘘の世界では無く眞實の世界を現存在が生きんが為のものだ。

 

では宗教が無いと結局現存在はどうなるのか?

つまりは其処でもって功利主義ー現世利益性ーだの唯物的な世界観だのに浸り切って行って仕舞う。

 

要するに其れは数の論理にて「最大多数の最大幸福」としての現ナマ主義に陥って行くからなのだ。

現ナマ主義即ち「今だけ、金だけ、自分だけ」の状態である。

 

なので其の現ナマ主義は眞實としての「今」を生きずにむしろ虚的な精神領域へと現存在の心を引き摺り込んで行く訳だ。

また厄介なことに其の現ナマ主義は現存在の社會性によりむしろ支えられて居る。

 

 

だから基本的には其の精神の頽落を個として止めることはまず難しい。

其れこそ宗教でもやって無いと難しい。

 

其れか御勉強の方をしこたまやり強靭なる個としての理性領域を築くかである。

其れも学校の御勉強に限らず例えば文系で言えば文學書や哲學書と接し努めて自分の頭にて考えられるやうにすることこそが自立的、自律的な意味での理性の構築である。

 

でもって例え東大生であれ其の自立的、自律的な意味での理性の構築の仕方が疎かになってる奴は単なるバカである。

逆に持ってる偏差値が低くても自立的、自律的な意味での思考が出来る奴こそがお利口さんなのだ。

 

但しだからと言って御勉強から逃げ続けると思考もクソも無くまず間違いなく動物化する。

其の動物が悪いのでは無く人間がほぼ動物化することこそが絶対にしてはイケナイことなのだ。

 

なので半分の動物ならばむしろ是非必要なものだ。

でも理性を使わないとむしろカンタンに人間は動物化して仕舞う。

 

でもって多くの人人が自分はむしろ理性的な人間だとさう信じて御座る。

でも其れはほんたうにさうなのだらうか?

 

むしろ其れは理性どころか反理性的な動物的本能ー盲目的自我ーに浸り込み生きて居る可能性の方がより高くある。

では人間としてより望ましい自立的、自律的な意味での理性領域を生きるには果たしてどうすべきなのだらう?

 

 

1.情に生きない

2.自分を持つ

3.疑う

 

つまりは其処で世間の論理ー社會の論理ーとは逆向きの分野をあえて向き其れを指向して行く他は無い。

ところが其れを長くやると世間との精神的軋轢、齟齬のやうなものが次第に酷くなるから其の逆の面の良さもまた實は見えて来やう。

 

4.情の温かさ

5.無私の美しさ

6.信じる

 

だから最終的には其れ等の両面を見据え生きることとなる。

ところが其れをやらずに現存在が生きると、

 

7.流される

8.落ちる

9.にこやかな破壊者となる

 

こと位が関の山だ。

 

 

なのでまずは「流されてはならず」また「落ちー堕ちーてはならず」さらに「笑いながら全てを壊し」てはならない。

だとすれば此れはもう其の反對主義を履行して行くより他は無くなる。

 

ですのであくまで其れは社會が個に對し求めるべき精神の向きのことなのでは無い。

社會とはむしろ其のやうに、

 

7.流される

8.落ちる

9.にこやかな破壊者となる

 

が為の自我形成を我我個に對し強いて来ることだらう。

だってさうでないと「近代的」価値など成就させられはしないのですから。

 

なのでみんなはさうして今まさに「流され落ち破壊する」為の赤信号の道をみんなでもって渡って居る。

 

…でもそんなもんはイヤだ。

 

其れは君がイヤだと云うだけのことでそんな君も確かに其の赤信号の道を渡って居るのだぞ。

 

では華厳の滝の上から飛び降ります。

待て待て、其の飛び降り、待った!!

 

では那智の滝の上から飛び降ります。

ようし、やってみろ!

 

エエッ、其れオカシクないか、塾の社會の先生!!!

はあ、何ぞおかしかったでせうか?

 

つまるところ僕は君のことなんざにはまるで興味が無い。

だからどうしやうとまさに勝手だよ。

 

なんて冷たい奴なんだ…。

くわばら、くわばら、さうだ、こんな冷血教師のやうにだけはならないやうにしやう。

 

 

そーら、見ろ。

かうしてたった今君は其の自決を止めたではないか。

 

其れをな、「反面教師」と云うのだぞ其の「反面教師」。

 

しかし恐ろしい奴だな、コイツは。

いや實際に其の種の手にて我は小学生と中学生の弐名を学校に復帰させて居る。

 

当時はわたくしもまだ若く19歳と21歳位でのことだった。

つまりは若い時分からそんな有能な家庭教師だったのである。

 

 

だが他にも何か変なことを教えて居ないか?

エロとかグロとか邪教だとかそんなことに勧誘して居たりはしないのか?

 

其処は正直若干あったがあくまで問題は学校へ行くかどうか、だけだ。

だが其の家庭教師ー廿代前半ーと塾の講師ー廿代後半ーの頃がむしろ壱番樂しかった。

 

其の後様様に社會體験を積んだが結局は「教育」の分野が我には最も向いて居たのだと思う。

だけれどもまた其れもまるで尻切れトンボのやうに其の廿代にて終わりを遂げたのだった。

 

今思い返すのはまさにバカも利口も無く只其の教え子達の其の人間としての存在感ばかりだ。

 

 

さて、釈迦牟尼の方もまた亜細亜系の容姿だった可能性の方が實は高い。【世界遺産】仏陀の生誕地ルンビニは、ネパールに位置する仏教八大聖地のひとつ! - おすすめ旅行を探すならトラベルブック(TravelBook)

釈迦牟尼はさうして今で云うネパールの人なので容姿が印度系では無く亜細亜系だったのだとしても何ら不思議なことでは無い。

 

ところで其の教師系の哲學者や藝術家はまた多いのだと言える。

 

無論のこと其のショーペンハウアーもカントもまた教師ー大學の先生ーなのだし西田 幾多郎などもまた大學の先生でありさらにベルクソン、其れにハイデガーなども皆さうである。

哲學上での大天才ウィトゲンシュタインもかっては小学校の教師をして居たとされる。

 

ウィトゲンシュタインの教育方針は、紙の上の知識よりも、子供たちが自分で好奇心をもって見聞を広めることを重視したものであった。理科の授業では、猫の骸骨を生徒と集めて骨格標本を作ったり、夜に集まって天体観測をしたり、自分の顕微鏡で道端の植物を観察させたりした。また、銅鉱山や印刷所、あるいは古い建築様式をもつ建築物のあるウィーンなどへの社会科見学もたびたび行なった[11]。その他にも、数学ではかなり早い段階から代数学を教えるなど、非常に熱心な教育者であった。

 

独自の教育方針を貫いたウィトゲンシュタインも、地元の村人や同僚の理解を得ることができず、しだいに孤立してゆくこととなる。その上、ウィトゲンシュタインは教師としてきわめて厳格であり、覚えの悪い生徒への体罰をしばしば行なっていたため[12][注 15]、保護者たちは、よそ者であるウィトゲンシュタインに対する不信感を強めてゆくこととなった。-ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン - Wikipediaより

 

詩人では宮澤 賢治がまさにさうであるのだしさらに土井晩翠 - Wikipedia日夏耿之介 - Wikipediaなども挙げられやう。

戦後の詩人では西脇順三郎 - Wikipedia加島祥造 - Wikipediaなどがまさにさうである。

 

個人的には壱年位前より日夏 耿之介象徴詩の世界に大きく興味があるのですがまるで読めては居りません。

 

 

日夏耿之介記念館 | 飯田市美術博物館 (iida-museum.org)

 

日夏耿之介 砕け散る美 - 花の絵 (hananoe.jp)

 

其の飯田市は愛知県のすぐ北側のところですので何度も通る位のことは此れ迄にもして参りました。

特に伊那谷 - Wikipedia駒ヶ根市 - Wikipediaを何故か集中的に訪れて居た頃に帰りに高速を使わず國道や県道を利用し帰る訳で其れでもって其の飯田市の方へと必然的に入って行く訳です。

ー其れも其処を訪れたのは加島 祥造先生の存在を知る前のことで大體参拾代後半のことであったー

 

だが其れが兎に角時間がかかり大変なのです。

結局文明とはまさにさうしたことなのであり文明の齎す速度つまりは便利さの方をあえて降りますと其処にはそんな不便さが大きく口を開け待って居る。

ですが道中の景色などは樂しめるので其れも悪くは無いが兎に角愛知県までがなかなかに遠い。

 

 

愛知県に入ってからもまた三河経由にて帰るので遠いのだがまあ県内でしたら土地勘の方はまたありますので其の遠さがさう苦になるやうなものでも無い。

ですので兎に角日夏 耿之介の詩には今至極興味があります。

 

尤もかうして日日家事に追われさらに體調の不調やらでまさに其れどころではありませんのです。

 

今週の詩 | 「道士月夜の旅」から  日夏耿之介 (midnightpress.co.jp)

 

かうしてまさに素晴らしい詩です。

但し詩の中に其の()にて読み仮名を付けるのは個人的には大嫌いですが。

 

尚其の参拾代後半の頃に心酔して居たのは西脇 順三郎の詩の世界でした。

また齢五拾を前にしてまさに心の師匠として仰ぎ見たのが加島 祥造先生の詩の世界だった。

 

さうなると、結局わたくしの場合には所謂「學匠詩人」による詩の作品こそが向いて居るのです。

 

要するにくだけたものでは無く少し「學」の方が入りつつ其れも狂的な世界の矛盾などを忘れては居ないやうなそんなお利口さんの詩人さんの作品こそがズバリ好きな訳だ。

 

 

嗚呼、其れとまたヘルマン・ヘッセ - Wikipediaね。

其のヘッセは教師では無いにせよまた凄く先生っぽい作家であり詩人だらう。

 

即ち青春時代に読んだ車輪の下 - Wikipediaデミアン - Wikipediaなどの内容が何やら重苦しく思い出されます。

其の後も時に読んでは居たが兎に角読む本ばかりで時間が無く…。

 

だから自分にはギャンブルをやりに行ったりピンサロへ行く時間などは其の青春時代の頃より無かった訳だ。

但し行ったことが無いでは無い。

 

其れも若い頃は何度も行きましたが。

また当時は酒が好きでブランデーとかバーボンとか角瓶とか老酒を良く飲んでは居ましたが。

 

ズバリヘッセで読みたいのは、ガラス玉演戯 - Wikipediaであるが確か拾年位前に本を探してみたが何処からも出ては来なかった。

 

 

さて以前其の西脇 順三郎を論じたことは何度かありました。

2003年位から書き始めた万年筆の掲示板の方でも取り上げて論じて居たりもまたした。

 

其れも今思えば西脇 順三郎の詩は何処か絵画的です。

其のやうにどちらかと言えば「パッ」と分かる詩です。

 

だから好きなのやもしれません。

 

ですが、西脇 順三郎の詩の多くには西洋コンプレックスのやうなものが何処かにある。

でも明治時代以降の日本の學問其れ自體に其れが色濃く漂ってもまた居たことだらう。

 

 

   眼

白い波が頭へとびかゝつてくる七月に
南方の奇麗な町をすぎる。
静かな庭が旅人のために眠つてゐる。
薔薇に砂に水
薔薇に霞む心
石に刻まれた髪
石に刻まれた音
石に刻まれた眼は永遠に開く。

 

西脇順三郎の「眼」 (kyoto-inet.or.jp)より

 

どうのかうのと云う理窟では無くかうして詩人の作品は何より絵画的です。

 

僕の好きな詩について。第四十四回 西脇順三郎|ハル|note

 

また此処にも西脇 順三郎が絵の学校に通おうとしたなどとも書かれて居る。

 

 

 やっぱり脳髄は淋しい
  実に進歩しない物品である
       (「体裁のいゝ景色 人間時代の遺留品」)

 

文人たち 西脇順三郎 (mitabungaku.jp)より

 

其の「脳髄」だとか「永遠」だとか云う言葉が西脇の詩には屡語られ其処では絵画が最終的には言語からこぼれ落ちて「寂しく」なるのでせう。

尚詩とはあくまで主観的な解釈ですので人の言うとることを眞に受けるのでは無くあくまで自己流に解釈すればまさに其れが「詩」其のものなんです。

 

 

「茄子」:

「私の道は九月の正午
紫の畑につきた
人間の生涯は
茄子のふくらみに写つている
すべての変化は
茄子から茄子へ移るだけだ
空間も時間もすべて
茄子の上に白く写るだけだ
アポロン
ネムノキよ
人糞よ
われわれの神話は
茄子の皮の上を
横切る神々の
笑いだ」

 

ひとでなしの猫 西脇順三郎 『宝石の眠り』 (fc2.com)より

 

此の詩は良い。

またしかとウンコの方も入ってる。

其れも其のウンコ入りの詩は詩人に力量が無いと書けません。

 

 

「宝石の眠り」:

「永遠の
果てしない野に
夢みる
睡蓮よ
現在に
めざめるな
宝石の限りない
眠りのように」

 

まさに此の詩に参拾年前の我はやられましたのです。

だけれども「永遠の果てしない野」と云うのは明らかに言葉の重複でせう。

 

「巨人軍は永遠に不滅です」

またコレなどもオカシイ言い方ですね。

 

其れもまあエエか。

 

まさに其の💎の眠りなるものはほんたうに限りない眠りです。

また其の睡蓮と云う言葉が如何にも効いて居る。

 

其れも睡蓮と云うと何故か永遠の眠りを感じさせて呉れる訳だ。

もしや其れってアノ釈迦牟尼佛の涅槃のことですか?

 

ー「現在」に目覚めるなー

さうです、「現在」に目覚めると所詮は「今だけ」「金だけ」「自分だけ」となるので其れを避けて其の💎の永遠としての眠りへと壱目散に逃げ去るのです。

 

いずれにせよ素晴らしい詩です。

また日本的に言葉が少なく詩として短いー簡潔であるーのが良い。

 

 

尚自分にも詩が書けますがなかなかこんな絵画的なものは書けぬものです。

と申しますか現實モードが其れも毎日邪魔をして詩の場にまでなかなか連れて行って呉れずたまに其処へ行けばまたかうして作文の日日です。

 

其れも結局は此の作文の方でこそ皆様に何かを御伝えしたいのだらうが。