目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

死者と語らふことでこそ大衆は目覚める

 

自殺者急増の仏警察官らがデモ 労働条件の改善を要求

さて何で近代社会はいつもかうしたことになって仕舞ふのか?

おそらくは何処かでバランスを崩して居ることでせう。

 

寺離れ、危機的…” 本来の姿を取り戻すために始まった、住職たちの挑戦 ガンダムから寺子屋まで

其れが何のバランスかと言へば畢竟其れは心のバランスなのではなひか。

わたくしは近代社会が豊かさと引き替へにする形で良識としての精神の何かを失ひつつあるのだらうと考へる。

が、近現代社会にのみ其の破壊としての責任を負わせると云ふ訳では無ひ。

 

左様人間の歴史とはまさしく其の漸進的な破壊としての歴史であった。

其の傾向が拡張または増幅されたのが近代と云ふ歴史過程なのだ。

 

其のバランスとはつまりは釈迦がかって述べた中道の概念にも等しひものなのではなひか。

近頃はまさに其のやうにも思ふ。

 

其のバランスを失ふこと、其処でバランスが取れなくなるからこそ其処ではむしろ大問題ばかりが頻発して来やう。

 

其の原因とはたとへば以下のやうに捉へられやう。

 

1.西欧近代の絶対化

2.より進んだ大衆社会による自己矛盾性の拡大

3.近代思想による限定性の解除

 

 

文明の絶対化もさらなる矛盾化もさうして人間としての限定性の解除も譬へて言へば皆一方通行であり其れこそ抽象的願望であり非抑制的な方向性を持つ。

此のやうなバランス無きのべつまくなしでの発展が逆に文明にとっての足枷となり自己破壊への方向へとやがて追ひ込まれていくのだ。

 

 

さらに問題なのは現代の大衆社会には我我感度が高くある人々が持つやうな危機感などサラサラ無ひと云ふことだ。


其のやうに現代の大衆はあくまで無批判的に現代社会が提供するところでの虚の富や価値に酔ひ痴れて御座る。

 

 

では大衆とは一体何者なのか?

 

大衆とは、一種の自虐過程であり破壊過程なのでもあらう。

 

かってホセ・オルテガ・イ・ガセットと云ふ哲学者が近代大衆社会の到来を手厳しく規定し次の如くに語った。

 

『彼の定義によれば、大衆とは、「ただ欲求のみを持っており、自分には権利だけあると考え、義務を持っているなどとは考えもしない」、つまり、「みずからに義務を課す高貴さを欠いた人間である」という。

また、近代化に伴い新たにエリート層として台頭し始めた専門家層、とくに「科学者」に対し、「近代の原始人、近代の野蛮人」と激しい批判を加えている。

20世紀に台頭したボリシェヴィズム(マルクス・レーニン主義)とファシズムを「野蛮状態への後退」、「原始主義」として批判した。特にボリシェヴィズム、ロシア革命に対しては、「人間的な生のはじまりとは逆なのである」と述べている。』以上より引用

 

 

即ち大衆とは、所謂「階級」の種別では無くまさに「生き方」としての類別なのだ。

 

大衆とは「平均人」であることをむしろ喜ぶ人達の群れであり謂わば同質であることに対し快感ー安心感ーを抱く人々を言う。

 

謂わば共通の型ー同質性ーでもってして大量生産し得る人間のことを大衆と捉へるのだ。

 

だから知的レヴェルなどはむしろ関係なく文盲であれ學者であれ大衆的な人はまさに大衆なのだ。

 

わたくしは其れをEQレヴェルの低ひ人々の群れのことだと解釈して居る。

 

 

だが其のやうに差別して居ると云ふよりも自らの大衆的気質に嫌気がさし其処でもって何で自分はこんなに下品なのだらう、とさう人文としての理性でもって反省するからわたくし自身がすでにどうにもならぬ訳だ。

 

大衆はかっての貴族とは異なり皆と同じでなければ安心出来ぬ。

 

其の癖思想は持ち得ぬので謂わば根無し草的に時代に流されていく。

 

と云ふよりは自分達の生き易ひ社会又は世界をつくり出していく。

 

要するに社会的な意味での責任感なり義務感には欠ける。

 

さうして社会には言ひたい放題のことを言ふ。

 

つまりはさうした傾向がより顕著となったものが所謂モンスター人間達なのだ。

 

 

ちなみにオルテガによると、専門的人間ー學者などのーもすでに大衆化して居るとして居る。

 

彼等もまた所謂専門バカー無知なる知者ーとしての大衆であるに過ぎぬ。

 

が、わたくしの場合は人文の知性に限り其れを常に尊敬しつつ見詰めて居る。

 

オルテガの社会思想もまた其の人文の知性としての一翼を担ふものだ。

 

 

さて、一般大衆として生きて其れでもって何処が悪ひのだらう?

 

わたくしはかってむしろ大衆の擁護者だった。

 

何故なら自身もまた適度な欲の発散が無くば近代的な社会自体には何の魅力も感じられぬからだ。

 

むしろ大衆は利口だらう。

 

社会に踊らされて居るのでは無く彼等はさうして踊らされて居るフリをしつつも其の實は民主主義により社会を牛耳って御座る。

 

其れでもってしていつの間にか自分たちの生き易ひ社会へと世界を変革していくのだ。

 

さういふのはむしろ利口のやることだ。

 

 

 

ただし大衆には負の要素もまたあった。

 

大衆は思想をも大衆化し基本的に精神には生きず其の場其の時での満足感にのみ生きる。

 

要するに常に何か縋るものと繋がって居たひ、と云ふことは其処に精神の自立性など元々ありはしなひ。

 

さうした精神無き群れであるからこそさうして群がっていたく面倒なことや難しひことが大嫌ひだ。

 

其の自らの凡庸さに気付かぬ様はまさに横綱級の面の皮の厚さであり同時に其処では理性には欠ける故反省もクソも無くタダタダ確認して居たひ。

 

 

何を確認するかと云ふに、自らの卑小さを常に確認して居たひ。

いや、自らが卑小であるが故に群れた上でようやく其処でデカいカタマリとなれるのだ。

 

たとへば其のデカいカタマリがファシズムを生んだとオルテガは述べる。

 

 

翻り思ふに昨今、此の大衆社会は電脳化されより顕著に示されて来て居やう。

 

オルテガは其の大衆性と対置するものとしてリベラルとしての精神の貴族と云ふ概念を述べる。

 

保守派であると目されるオルテガはあへて自由主義の持つ寛容性に着目し貴族的な精神は真理を探究し思想とは真理に対する王手であるなどとも述べる。

 

さうして精神の貴族は必ずや過去から學ぶものだ。

 

 

ところが大衆は其のリベラルをも踏みにじるのだと云ふ。

 

其の通りのことで、大衆性こそが秩序其のものを破壊するのだ。

 

まずはじぶんが壊して居ることも知らぬ間に過去をバカにして御座る。

 

即ち歴史が嫌ひだ。

 

歴史などまるで知らぬと云ふのにじぶんこそが歴史だと思って御座る。

 

第一仏蘭西革命が其の良ひ例だ。

 

何しろ革命中はパン屋を破壊してパンを盗み放題だったらしひ。

 

近代主義による人権規定とはまさしく其のドロボウ群衆を其の後に亘り可能な限り擁護していったものなのだ。

 

 

確かにわたくしはかってリベラルの立場を貫ひて居たが兎に角今わたくしはドロボウは嫌ひだ。

 

また性的にふしだらなのも其れ以上に嫌ひだ。

 

さらに地下鉄でもってマスク無しでデカひ咳してウイルスを撒き散らして居る奴は一番嫌ひだ。

 

 

其のやうな観点からわたくしは逆に限定主義者=鎖国派となった。

 

オルテガは民主制は大衆により超民主主義化するなどともして居る。

 

事実ファシズムスターリニズムは大衆なくば存立し得ぬことだらう其の超民主主義であった。

 

社会主義革命にせよ勿論其の超民主主義なのである。

 

 

革新思想の最大の問題点が過去を顧みぬ点にこそある。

 

事実わたくしはかって極左思想に親和性を感じて居り過去などまるで顧みては居なかった。

 

左の思想は利口な人が陥り易ひ盲点、即ち精神的矛盾領域を孕んで居りまさに其れこそが其の歴史の否定であり大衆をあくまでも持ち上げる点だ。

 

 

ところが、此の世界に實は死者が充ちて居る。

 

死者と云ふ言葉で象徴されるが如き伝統としての膨大な過去の蓄積がある。

 

故に左派の陥り易ひ点が其の膨大な時間の蓄積としての伝統よりも左の思想の方が進歩的で偉ひとする判断なのだ。

 

 

其の判断は然し極めてEQの低ひ間違ひである。

 

此の世は、まさに此の世こそが膨大なる過去としての蓄積の世界なのだ。

 

過去を無視することで人間を現在化し同時に近代主義にて人間を祀り上げること。

 

其の思想的誤謬により上記1.2.3.での不穏なる、おおまさに不安定化せし近代末期としての社会の様相を呈して来ても居やう。

 

 

左様に過去を無視などして居てはならぬ。

 

過去とは死者ぞ。

 

真実は逆に無数の屍が現在を成り立たせておる。

 

だからまずは無数の屍に対し手を合わせよ。

 

だからと言って何も墓へ行くことは無ひが兎に角敬服と恭順の意を死者に対し常に示さねばならぬ。

 

 

さうして精神の貴族は過去から、いや過去ゆえに好んで其処から學ぶ。

人類の叡智は過去にこそ宿って居らう。

 

過去から學ぶことなくば、必ずや大衆主導での民主制は腐る。

腐ると、かの國でのやうにポピュリズム環境相の如き変なものが出て来てまるで未来が無くなっても来る。

 

 

「湖に浮かべたボートをこぐように人は後ろ向きに未来へ入っていく

目に映るのは過去の風景ばかり 明日の景色は誰も知らない」ポール・ヴァレリー

 

尚大衆は基本的に無思想であり無宗教である。

何故なら大衆は面倒なことが嫌ひだからだ。

 

要するに欲望の成就に熱心なだけでお勉強はまるで嫌ひなのだ。

然したとへお勉強が好きな學者であっても大衆たり得る素質を持つ者は存外に多ひと見なければなるまひ。

 

 

かって詩人ヴァレリーが喝破した如くに實は人間は過去を見なければ未来になど決して進めぬものだ。

所謂革新的な社会制度や技術革新などに寄り掛かることでは實は未来になど少しも進んでは居らぬ。

 

其れでも進んで居るのは抽象的領域へと進むばかりでのこと。

 

其の抽象化は人間の観念の本質だとわたくしは先日述べた。

 

 

明日の景色など元より人間には見へては来ぬもの。

 

されど過去を見詰めた上で歩み始める現在こそが確かな未来への礎となるのだ。

 

逆に抽象的な未来は我我をして次第に宙ブラリン化していくことであらう。

 

 

宙ブラリン化して居るだけならまだしも良ひのだが其のうち地に足がつかなくなりふと気付けば何処ぞに落ちていくばかり。

 

一体何処へ堕ちていくんだとさう思ひし我我は其処でよーく目を凝らして見てみたところ、何と其処には地獄の獄卒共が手招きしつつじっと佇んで居るではなひか!

 

前々から何やらくらーひ奈落の底へと堕ちていくやうな気が何処かして居りましたが矢張りと云ふべきかまさにさうなのだった。

 

 

従ってまずは其の抽象化を止めよ。

 

今すぐに止め、むしろ死者と語らふのだ。

 

死者即ち過去と向き合ひ近代が招きし罠にしかと気付け。

 

近代的な諸制度に是非修正を加へ警察官の激務を改善し其ればかりか労働の上での酷ひ搾取に終止符を打ち少なくとも皆がまともに生きられるやうにすべきだ。

 

また寺、其の寺の面倒を国家が見ずしてどうする?

 

其れに何と言っても日本国は仏教国だらう。

 

 

何?神道の國だ?

 

神道なんぞはお正月の行事だらう。

 

いや、我はむしろ杜のある神社が好きなんで神道を否定して居る訳では無ひ。

 

だが仏教の精神、其れもやる気をあへて抑へて来て居た仏教の精神を精神的伝統として何処かに残さねばかの國の未来など無ひ。

 

昔偉ひ學者が居られー誰だったかは残念ながら忘れたがー其の方は多くの學者にとっての先生のやうな立場の方だったさうだ。

 

其の方は公的なものの価値を強調して述べて居られたやうに記憶して居る。

 

 

要するに自由な競争ばかりでは世界は殺伐なものとならうから其の競争の及ばぬ範囲で人間の権利を守らうとされて居たのであらう。

死者と向き合ふ、即ち過去と向き合ふと云ふことは其の公共性を担保するに足る重要なひとつの視点とならう。

 

近代法は、皆アナタのコレコレの権利は保証されて居ます、但し公共の福祉に反しなひ限りは。

などと實はちゃんと権利関係が限定してあるのである。

 

ところが、近代主義に於ける抽象化が進み人間の権利関係に限定性が解除され始めると此の限定が機能し難くなって仕舞ふ。

 

米国や英国、また他の欧羅巴の国々での他国からの移民の問題がまさに其の矛盾を指し示して居ることであらう。

 

だからこそ其の限定=限度の設定=具象化こそが大事なのだ。

 

 

ところで仏教の教義または精神は抽象的なものなのではありませんか?

 

其は抽象的なものには非ず。

 

むしろ仏教は抽象化などはしなひ。

 

何故なら釈迦の理性が戯論を否定して居るからだ。

 

但し現世利益化した大乗の教説こそが多分に抽象性を帯びても居やう。

 

 

其の近代以降の著しひ価値の抽象化はおそらくキリスト教の自己矛盾過程が齎ししものだ。

 

価値の抽象化、とはたとへば自動運転など。

 

もう誰が考へても自動運転など危なひことだらう。

 

 

でもやらずばなるまひ。

 

何故か?

 

そりゃー技術革新による自動運転の方が過去の手動運転よりもより偉ひだらうからだ。

 

そんな風に實にバカバカしひ革新に今人間共は最大限に労力を注ひでおる。

 

 

ハァ、何てバカバカしひんだ。

 

だからこそ大衆は目覚めなければならぬ。

 

愚鈍ではあるが狡猾な大衆こそが目覚め其のー力へのー熱狂とー同質性へのー陶酔から離れ是非賢ひ人間とならずばなるまひ。

 

要するに其処にこそ近代にとっての究極の課題が潜んで居やう。

 

今此処で大衆がお利口になれるかどうか、タダ其ればかりのことなのだ。