目覚めよ!

文明批判と心の探求と

さらに哲學する


有限のなかに無限の何かを詰め込もうとする働きが生命としての本義であるのならば畢竟其の性欲及び食欲は其の無限としての有限性を成り立たせる為の手段である。


対して有限の中に有限の何かを詰め込もうとする働きは生命を生じさせないのでありつまりは死んだ働き=石または雲などの単なる物理現象と云う事となる。


有限の中に有限の何かを詰め込もうとする働きはまず何より其処で劣化し受動的であり静かである。



生命現象は逆に其処で劣化を克服し能動的でありかつまた至極ウルサい。


ウルサいと云う事は精神と肉体から成る生命現象の特質で煎じ詰めれば其れがタマシヒの作用であるとも言えさうだ。



つまるところタマシヒがあるものは有限のなかに無限の何かを詰め込もうとする作業の行程に於いて謂わば盲目的に律儀である。


たとへば此のウルサいのが好きな人と嫌ひな人があり嫌ひな人は屡哲學者とか藝術家だとか呼ばれ好きな人は一般大衆と呼ばれたりもして御座る。




其の生命現象の本質は矛盾のやうに見えて実は矛盾ではない。


有限のなかに無限の何かを詰め込もうとする働きが実は数学的には成り立つのである。




其れこそがフラクタル構造と呼ばれるものだ。


数学的にと云うよりも、自然界に於いて其れが屡存在するとされても居る。




其れこそ生命現象自体が其のフラクタル構造なのやもしれぬ。


有限のなかに無限の何かを詰め込もうとする働きは其の一方で否定的な見方を必然的に生む。


宗教的な見方がまず其れに当たる筈である。


宗教とは何かと問へば結局其れは限定である。



謂わば有限の中に有限の何かを詰め込もうとする働きそのもののことだ。


其のやうにして本能の持つ本質的拡張衝動を抑え込むか或はバランスを取る為の精神的革新のことである。



革新?


さう宗教は基本的に保守の流れではない。


本能にとっての保守の流れとは其れ即ち酒池肉林に至ることなのだ。



左様に宗教は生命にとっての左翼思想のことだ。


だから基本的に宗教はフラクタル構造ではない。


でも結果的に其れはまさにフラクタル構造なのである。



つまり物質的に有限のなかに無限の何かを詰め込もうとする働きなのではなくむしろ精神的に有限のなかに無限の何かを詰め込もうとする働きなのだ。


なので物質的にはあくまでむしろ逆をやっていくのである。


つまり合理的にフラクタルな様を其処に求めていく訳ではない。



むしろ逆方向を向いて居る訳である。


だから究極的にはむしろ物質としては其処で死んで居る。



死んで御座るがドッコイ生きても御座る。


其処こそが宗教の本質的意義だ。


むしろ一遍死ぬので真に生きて居られるのだ。




対して合理化は常に本能的である。


即ち生命は本質的に合理的なのだ。



合理的だからこそ逆に死に捉へられて仕舞ふ。



逆に言えば有限のなかに無限の何かを詰め込もうとする働きそのものは合理的である。


合理化の積み重ねが逆に非合理の代表格としての死を招いて仕舞ふのだらうか。


或いは死は生命としての合理的帰結に過ぎないのか。



いずれにせよわたくしは今此のフラクタルと云う概念に甚く興味がある。フラクタルとは

   


能動的でありかつまた至極ウルサい生の性質=人間の心理が一体何処から齎されるものであるかと云う事につき日々頭を悩ませて来て居るのだ。


また其れは心の性質の問題、即ち悲観性と楽観性に於ける心のあり方の問題にも通じて居る。


たとへば無意味な生をまた性を逆に楽しんだり喜んだりして居る人々がわたくしの周りには大勢居る。



むしろそちらの方が一般的な心性でありまさに大衆的感覚であり思考なのだ。


無意味なものを無意味だと観ずる一種の悲観性としてのより潔癖な精神の働きが一体何処から齎されるものであるのか。


まあ結局は其れも両義性の超克の問題に還元し得るのかもしれないのだが。




またひとつには、其のフラクタル現象に於ける全体と部分に於ける相似形のことが極めて面白い。


リンクの処にもあるやうに山の形、雲の形、海岸線、木の形などが其のフラクタルな図形なのだと云う。


すると性欲と食欲もひょっとすると其のフラクタル現象なのじゃないかしら。




いずれにせよわたくしの精神に於ける基本としてのスタンスが限定主義なのである。


何故限定主義に至ったかと云えば矢張り實人生に即する形で様々な破壊を見たり経験して来たからなのである。


其の破壊の数々が余りにも過酷なものに思えたので其処で何ものをも破壊しない思想と云うものを編み出すに至った。



そして無論のこと多くの宗教は限定主義である。


されど文明の奉ずる思想は限定主義には非ず。



然し生命の本義を見詰めるうちにむしろ其れは有限の中に有限の何かを詰め込もうとする働きではなく逆に有限のなかに無限の何かを詰め込もうとする働きであることに気付いたのだ。


謂わば其の限定の解除の働きこそが死を招き入れると同時に死を超えていく働きであることに気付いた。


であるとすれば文明の奉ずる思想こそが逆に秩序立った生命の働きそのものなのかもしれない。



でも其処にわたくしの論理としての矛盾は無いです。


何故なら其れは原始退行現象そのもののことだ。


むしろ其処で理性そのものが矛盾し本能的にならざるを得ないので有限のなかに無限の何かを詰め込もうとする働きとならざるを得ない。



有限のなかに無限の何かを詰め込もうとすると自然現象としては其れが可能であれ人間の精神にとってはあくまで其れは不可能だ。


だから性の合理化だとか、社会の合理化だとか、また人間の合理化だとかそんなものは破壊思想であることに変わりなど御座いません。


だから生命の働き=本能をそのまま社会化などしちゃ絶対にいけない。



そんな風に社会化などして居るのはそれこそ社会科のことなど何も知らない脳減る賞人間のやることで、ほんたうに頭の良い人はそんな脳減る賞のことなどで騒いだり酒飲んだりは金輪際しないものです。


だからそんなことよりもまず食欲や性欲のことを是非考えるべきだ。



どだい何故毎日こんなに腹が減るんだ。


何故毎日こんなに女に眼がいくのだ。



其の本能、即ちフラクタルな本能領域に於いて一体何故こうも似たやうに我慢の効かぬ部分が出て御座るものか。


何、欲のフラクタル


部分と全体の欲?


なるほど、たった今分かりました。



ズバリ言えばこうです。


食欲とはズバリ人間にとっての部分での欲です。


性欲とはズバリ人間にとっての全体での欲です。


まあ当たり前と云えば当たり前のことではありましょうが。




さう言えばかのショーペンハウアーも述べて居りました。


即ち性欲とは個の継続であると共に種族の保存の欲のことでもまたあるのだと。


つまり人間を保存する訳です。



性的結合の結果子が生まれるとして其れは人間と云うか社会を保持することでもある。


なので社会化される訳です、むしろ其処に於いて初めて社会化される。



社会化されると云う事はどちらがより限定を解除する性質なのかと云えば明らかに其れは性欲の方です。


と云う訳で性欲の方がより救われ難い限定解除の思想?であることがたった今判明致しました。



即ち其れは有限のなかに無限の何かを詰め込もうとする働きそのものなのであります。


其の無理難題をしかしながら日頃から我我はやっておったと云う事です。



其れは生命に対する罪なのでせうか?


いや、むしろ逆で生命に対する奉仕のことです。


或いはお祭りのこと。


またはお祀り。



ですがキリスト教や仏教にとっては其れはひとつの罪障である。


と言っても勿論そのままではいけないと云う意味ででの罪障です。


何故なら神仏に連ならない欲望がすでに罪障であり無明なのです。



さて其のフラクタルな欲望のあり方と云う考へ方自体が至極面白い。


或いは部分的な欲ー食欲ーが全体の欲ー性欲ーに連なり全体の欲が部分的な欲に連なり相互に影響を及ぼし合って居るのだとも言えそうだ。


然しあくまで有限のなかに無限の何かを詰め込もうとする働きは本能領域のことなのであくまで其れが理性的展開だとは言えない。



なので合理化と云うのはむしろ本能を刺激し其処で謂わば要らぬ部分まで其れを呼び覚ますだけのことなのだ。


だからヤッパリ有限の中に有限の何かを詰め込もうとする働きの方が良い、少なくとも其の方が諸の破壊に至らずに済む。



だが其れでは社会も停滞するのだし未来もないぞよ。



だから言うておるではないか。


大と小を考えよと。


第一其こそがフラクタルではなかったか。



なので大の方では有限の中に有限の何かを詰め込もうとする働きの方で良い。


然し小の方では有限のなかに無限の何かを詰め込もうとする働きで良いのだ。


さうしないと、其の逆でもしやうものなら即社会は破壊されやう。



其れも前々から言っております。


大の方を合理化しちゃいけなひのだと。


小の方だけ合理化しませう。


なので別に生命を否定して居る訳じゃ御座いません。


元々そんな危険思想ではない。


危険ではなく保持であり維持です。


其のウルサイのが、そうして煩悩まみれなのが或は罪深いのが人間と云うか生命の本質であるが其れをそのままに社会化すると欲望がフラクタル化されそのままに合理化されやう。