目覚めよ!

文明批判と心の探求と

宮澤 賢治の語録より考える


「一つずつの小さな現在が続いているだけである」


時間とは分解のことなので其の分解乃至は分離された「今」の集積と必然的になることだらう。

と云う事は元来其処には過去→現在→未来と云うやうな所謂時間の流れなるものが存在して居るとは言い難い。


然し其の流れを意識して居るものがありまさに其れこそが観念でつまるところは意識としての働きのことだ。

意識としての働きは自然にそのやうな流れを形作るのであるが、実は其れは天然自然に与えられし時間とは異なるだらう内在的な時間の流れである。


対する外在的時間には「今」としての集積が連なるばかりだ。


ただし人が時間を生きるとは普通其の観念的時間を生きて居ざるを得ない。

人間は其の個々の集積である天然自然な時間を生きることなど出来ない。


其処からしても人間は曲者であり宇宙の常識に照らし合わせてもおよそまともであるとは言い難い。

自然の摂理からは遠く離れた時をあえて歩む一種の奇形種なのだと申す他はない。



で、動植物は矢張りと云うべきか其の瞬間、瞬間を生きて居るのであらう。

ただ其れも所謂高等な段階になればなる程時の流れを感じていき易くなるのやもしれぬ。



尚時間につき大事なことは、人間の場合は其の瞬間、瞬間を生きて居る訳にはいかぬところでの哀れな存在であると云う事を自覚すべきだと云う事だらう。


人間は刹那を生きると逆に矛盾化して本能のみを生きて行かざるを得なくなる。


だから逆に言えば理性とは其の時間の流れを認識する作用のことなのだ。



そして真理は決まって其の流れを遮断せよと説く。


でも其れは無理だとわたくしは思う。

わたくしは出来ることのみをやりませうと云う合理派なので無理なことはあえてやらないのである。


問題は、時を流れとして生きる場合に生ずる諸の分別に於ける智があらゆる価値観として形をなし階層構造を形成せしめることにこそある。

其のやうな価値観の流れが時間の流れに沿うて文明だの進歩だの未来だの何だのと云う下らない何かを形作って仕舞ひがちだ。


ですが其れはあくまでも倒錯の価値観であり真実としての時のあり方ではないことを知るべき。

さすれば事実として時は流れて居ても、其の倒錯の意識の流れに惑わされることなくば天与の外在的な時の一くさりずつにまみえることが出来やう。


で、何故か詩人は自然にそんな時を生きて居る。

普通は其れを生きて居らざるを得ない。


だがわたくしの場合は元々社会科の教師であることもあり過去は常に大事だ。

つまり時の流れをむしろ大事にしつつ全てを論じていく。




「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに 
みんなのおのおののなかのすべてですから」



主観に捉えられる客観的多様性は主観を離れず、同時に客観としての主観に捉えられる客観的多様性に其れは等しい。


主客に分かたれし現象には自然と「違ひ」が生ずるが其の違ひ自体に違ひがあるのではなくあくまで同じものが分かたれて見えて居るだけだ。

其の同じと違ひの関係性つまり同質性と多様性の関係性は現象を規定する上での本質的な命題なのやもしれぬ。

主観に映ずる客としての世界は逆に其の各々に映ずる無数の世界としての収束であり還元そのものである。


「インドラの網」
ー須弥山(しゅみせん)の頂上に住むという帝釈天(たいしゃくてん、Indra)の宮殿の大広間に張りめぐらされている羅網(珠玉を連ねた網)をいいます。
網の結び目に珠玉(しゅぎょく)がつけられ、珠玉の表面は鏡のように反射し,それらが互いに映じ、映じた玉がまた映じて無限に反映し合う重重無尽(じゅうじゅうむじん)の様相のたとえとされていますー


其の重重無尽とは言いますが此の世界を感じて居る主体は常にひとつきりでしかない。

即ちわたくしとして感ずる世界は畢竟ひとつしかない。

此の多様と個の関係は実際良く分からないものです。

また理性は其処で外界と内面が即応しつつも全く違うものであるやうに感じて仕舞ふ。

理性とは矢張り分離された一方向のことでしかないのだらう。

と云うことは分離されないものーたとへば本能的規定ーそのものは矛盾化しない訳です。

本能それ自体は矛盾化しないが、理性により捉えられし欲望は全て矛盾化する。


個と云う現象も、個が個だけでは成立しない以上個的な絶対領域を相対化するに足る多様性ー客観性ーが主観に組み込まれて来る。

逆に多様性に対しても個の絶対性はまるで鏡のやうに写りこんで居る筈だ。


そう、鏡、此の鏡こそがカギだ。

心に映じるものとは其の鏡に映された絶対の個と相対の世界との葛藤乃至は格闘だけなのやもしれぬ。

嗚呼、鏡、鏡は映す。

何を映すかと云うに、己と己の限界を映し出す。


分かたれしものの違ひとは結局は其の鏡に写った己の両端だ。




「もしそれ人とは人のからだのことであると

そういうならば誤りであるように
さりとて人は
からだと心であるというならば
これも誤りであるように
さりとて人は心であるというならば
また誤りであるように」




人とは肉体なのか其れとも精神なのか或は其れ等の複合体なのか。

重要なことは、概念は分解されし要素としての言葉の戯れであるに過ぎず、従って其処では如何なるものも絶対的に表せないと云うことだ。

あるものを直接把握することは出来ず、其処をあへて把握しなければならないのであれば全体論的規定即ち直観の領域に於いて初めて其れは把握され得るのである。

尤も直感と云うのもありましょうが、あくまで其れは現実的肉体的に全体論的把握をなして居るのでありおそらくは観念の領域でのものではない。

観念の上での全体論的把握こそが直観の内容である。


直観的な把握により事象を攫んだにせよ其の事象そのものは言語化されるに従い陳腐化しまたは虚像化されやう。

謂わば言葉では嘘しかつけないのであり、だから必然的に全ての言葉は嘘であり腐乱であり虚偽であり加工品でしかない。


其のやうな加工の作為性、加工の腐敗臭が鼻をつきまさにどんな美辞麗句をも陳腐化させて仕舞う。

其の美辞麗句こそが肥溜めのやうな臭気を放つ低俗な言葉へと変身していくのだ。

だから言葉とは基本的に陳腐で信用ならないものだ。


其処をあへて言葉にて何かを語ると云うのであれば、其処でむしろ言葉の戯れとしての徹底した虚像を、其の虚偽と腐敗の殿堂であるところでのウソの世界を自覚しつつ描き切ると云う風でなくてはならない。


人が何かと云うことを言葉の領域で捉えることなどそも出来ないのだからむしろ大きく嘘を膨らませて述べつまるところはまるで適当なことを述べておく他はない。

たとへば、

体と心は互いを映し出す二つの鏡で、どちらかが女鏡でまたどちらかが男鏡となって御座る。

とか何とかまるで意味不明なことを述べておく他はない。