目覚めよ!

文明批判と心の探求と

愛の灯としてのショーペンハウアー


アルトゥール・ショーペンハウアー
 Arthur Shopenhauer ( 1788 - 1860 )



其のお勧めとやらの4の「存在と苦悩」を今読んで居るところです。


ちなみにコレは白水社 大名著リクエスト復刊と云うものでヤフオクで手に入ります。
また其の後さらに二冊を落として居ります。


連続して落としたのは勿論良い内容の本だったからです。


何せショーペンハウアーは元々性に合うと申しますか、まさにかねてより好きな哲學者の一人です。


このやうにマイナス方向から現実を捉えて居るものの方がおそらくはほんたうのものです。


否定から出発するものの方がおそらくはより真実を捉えて居りましょう。



対して肯定から出発するものの方にまずはロクなものが御座いません。


かと云って否定に傾きっ放しだと其れでは挙句に精神の病に陥りましょう。



其処で謂わば肯定としての否定、一種肯定的な否定であることこそが大事です。


逆に肯定としての肯定、肯定的な肯定そのものであることこそが現代文明を推進する上での大前提での価値観です。


つまりは其処に否定的要素が何処にも御座いません。



たとへば元々女はダメだとか、元々子供は人間じゃないから兎に角厳しく躾やうー虐待ではない、逆に何でも自由なのこそが子供にとっての虐待だーとかさういうことを言うと総スカンを食う世の中です。


だからこそ世の中は間違って居ります。


間違って居るからこそわざわざかうしてわたくしがしゃしゃり出て来て居る訳で間違って居なければわざわざ此処へ出て来る必要など御座らぬ。



さて本を一読して、ショーペンハウアーの思想はとても丁寧なものであることに気付かされました。


とても丁寧で、かつ厳しくも優しい。


曰く言い難い優しさと朗らかさに充ち溢れて居るではありませんか!



其処がわたくしにとってのまさに新鮮な驚きでした。



ショーペンハウアーの思想と云えば普通はとっつきにくい思想の筈です。


何せペシミズムとしての大御所です。


即ち悲観主義の親玉です。



でも果たしてコレの何処が厭世主義なのでしょう?


其の人生の深みを見据える透徹した眼差しと思索はまるでひとつの精緻な藝術作品のやうです。



兎に角何より美しいのです。

思考そのものが美しい。


そして真の意味で優しい。



実際其れはあらゆる虚の価値の構築の為の肯定のみの思想が皆バカバカしく思えて来る程に繊細でかつ純粋な思考であった。




そして此処に示されしかのショーペンハウアーの顔つきと来たら!


怖い筈のショーペンハウアーのお顔がまさかこんなにも優しかっただなんて!



だが本を読み進めるうちにしかと気付いたのだ。



ほんたうのショーペンハウアー気持ちとは人類にとっての優しい御爺ちゃんの心そのものだったのだと。



此処からしてもものの見方と云うものは難しいものです。


即ち其処で現実上はむしろ逆に出て居る可能性が高い訳だ、むしろ事の本質とは逆の内容が表面的には出て来やう。



だから騙されてはいけない。


うまいことばかり言う奴、そも自分を偉そうに見せて居る奴、前向きなことばかり言って居る組織や社会はほんたうはどうしやうもない低級な思考の持ち主ばかりだ。


さうした悪い奴等、虚の精神に決して踊らされること勿れ。



また常に肌を露出させ色気のみを振り撒いて居るやうな若い女共も其の実は何ら中身の無い女であるに過ぎぬ。



また現代文明を推進する科学者共にもロクな奴は居ない。


文明を進ませることだけを目的となして居るやうなマッドなサイエンティストの頭の中身など総じて狂って居やう。




ところがかのショーペンハウアーこそが、此の厭世主義の大家こそが実はまともでありしかも人類に対する優しい眼差しに充ちた優しい爺様であったと云うわけだ。




尚本日はショーペンハウアーの思想につき述べて居る訳ではない。


そうではなくまさに久し振りに読んでみたショーペンハウアーの考えこそが慈愛に充ちたものであったことをそのまま素直に述べて居るのである。






「華厳の滝に身を投じた藤村操もその死に臨んで記した『厳頭の観』を「大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを」と締め括っていた。」




其処からしても矢張り確かに「大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを」なのであらう。


概ね悲観とは理性の働きによるものであらうが、其の理性そのものを捨て去り生きることの出来ない人間にとっての其は常に大事なものだ。


要するに理性的規定なくば人間は容易に地獄へと堕ちて行き易い筈である。



なんとなれば人間は常に聖と魔、善良さと邪悪な心の二面を持ち合わせて居るからだ。


しかも其れは此の世に人間が生まれ落ちてから世を去るまで一瞬たりとも間を置かずに其のやうに規定され続けるものだ。



だから悪い性根の人は概ね心そのものが汚く、善き心根の人は概ね心そのものが綺麗である。


また其のことはなかなか変わりやうのないことだ。



事実あくまで悲観は悲観なのだし、またあくまで楽観は楽観だ。




だが悲観と楽観は生じざるを得ないやうにして生じて居る二面なのでありどちらか一方で済むと云うものではない。


男性と女性が生じざるを得ないやうにして生じて居る二面なのであることと同じくしてどちらか一方で済ませられると云うものではない。




問題は近代的な主張が悲観の力をいつの間にか根こそぎ消し去っていかうとして居ることにこそあらう。



さすれば現代社会はやがて楽観論ばかりで充たされ人間の肉体的改変だの人間の脳ー精神ーへの技術的な侵犯だのありとあらゆることが好き勝手に弄られるやうになる。


最終的には人間は人間ではないものへと、とても人間とは呼べないものへと変えられて仕舞うことであらう。




其処でいざ分離されし現象世界を保持するのであれば、さうした極端な思想を、其の生の肯定としての欲望の暴発を阻止していかぬ限りやがて人間は其の場に行き倒れることだらう。



従って悲観の意義とはまさしく其処にこそ見いだされやう。



即ちかっての悲観に価値があるのではなくして、むしろこれからの悲観の意義こそが其処に問われて居やう筈。


しかしながら事実上此の悲観の心のあり方を再構築することなどもはや不可能だ。




左程に近代思想はマイナスのみを滅して+の意志ばかりを増長させて来て居る。


丁度今社会的に女ばかりを持て囃すことと其れは良く似ても居る。




だが事実として、其の二元性の極の双方が等価に大事なのである。


二元性を一元化することが近代以降は不可能となったのであるから、其処ではむしろ逆に両端を、其の分離されし要素のそれぞれを平等に尊重していかねばならない。



現代文明が滅ぶのだとすれば、其のマイナスの要素を須らく切り捨てていくこと、まさに其の行為によってこそ滅ぶのだ。





さて其のコップに水が半分もあると考えるか、其れとも半分しか入って居ないと考えるか。


此の件に関しても、実は双方の考え方が等価に尊重されて居なければならない。


第一半分も入って居ると考える所謂楽観主義が半分しか入って居ないとする悲観主義よりも優れて居ると云う根拠は何処にも御座らぬ。



だからどちらがより良いか、或いはどちらがより偉いかと云う問題なのではない。


近代社会以降楽観主義が尊重されて来たのは、其の社会の倒錯度に応じた主義主張が重宝されて来た結果であるに過ぎず、元より其のことが即悲観主義の劣等性を証明するものではない。




逆におかしいのは其のイケイケ主義の方だ。


そして生命至上の流れでの思想にせよ其の全部がおかしい、即ち完全なる片手落ちである。



だから大きくなるのは良いことだなんて、其処に偏ることこそが過ちである。


他方では小さくあっても良い訳だ、まさにかのブータンみたく小さく生きやうとする國がある。



其の過ちに気付けないやうでは早晩文明は滅びの坂を転げ落ちていくことだらう。




なので常に両方を大事にせよ。


両義性に於ける両端の価値を常に等価に認めるべきだ。




まさに其れこそがほんたうの平等主義ではないのか。


だからさうして平等、平等と云いながら+ばかり女ばかりを持ち上げて居るべきではない。



即ち「大いなる悲観は大いなる楽観に一致するを」なのじゃ。


くれぐれも一方ばかりを持ち上げることのなきやう。


また「大いなる楽観は大いなる非観に一致するを」でもまたある。



そしてとどのつまりは後者こそが現代文明に於ける現状だ。


其の大いなる楽天主義でもって大儲けし女を持ち上げまるで享楽的に生きて参りました。


ところがふと気付けば地球は壊れ気候は何やらおかしいわ、そればかりか性は乱れ放題だわ、おまけに金まみれでもってして心が腐り次第に人間としてまともではなくなって来ました。


もはやほとんど昔で云うところでの異常者のレヴェルにあります。




なので政治は云うに及ばず教育もそして倫理観や道徳律さえもがすでにグズグズです。


仕方がないので自ら進んで悪魔化しハルマゲドンへと、嗚呼、かの恐ろしい最終戦争へと、まさに其の破滅への序章、破壊の為の破壊の未来へと須らくが流れ込んでいきまする。




ですので、是非其のやうにはならぬやうまずは確りと引き締める。


まずは頭の中身を引き締める。


すると股の間も自然と引き締まった。



次に腹のだぶつきを引き締める。


さらにPC依存を治そう。


そして巌頭之感をば具に読み解いてみよう。





   


巌頭之感
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。



彼の死は、一高で彼のクラスの英語を担当していた夏目漱石やその同級生、在学中の岩波茂雄の精神にも大きな打撃を与えた[7]漱石は自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件は漱石が後年、神経衰弱となった一因ともいわれる[8]
当時のメディアでも、『萬朝報』の主催者であった黒岩涙香が「藤村操の死に就て」と題した講演筆記[9]や叔父那珂道世の痛哭文を載せた後、新聞・雑誌が「煩悶青年」の自殺として多くこの事件を取り挙げた結果、姉崎正治ら当時の知識人の間でも藤村の死に対する評価を巡って議論が交わされるなど、「煩悶青年」とその自殺は社会問題となった[10]

言及の例[編集]

打ちゃって置くと巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない。
余の視るところにては、かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う[11]
「趣味の何物たるをも心得ぬ下司下郎の、わが卑しき心根に比較して他を賤しむに至っては許しがたい」「ただその死を促すの動機に至っては解しがたい。去れども死その物の壮烈をだに体し得ざるものが、如何にして藤村子の所業を嗤い得べき。かれらは壮烈の最後を遂ぐるの情趣を味い得ざるが故に、たとい正当の事情のもとにも、到底壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある点において藤村子よりは人格として劣等であるから、嗤う権利がないものと余は主張する。」[12]以上より引用





うーむ、かの夏目 漱石が云うには、「美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるもの」なのですか。


また「去れども死その物の壮烈をだに体し得ざるものが、如何にして藤村子の所業を嗤い得べき。かれらは壮烈の最後を遂ぐるの情趣を味い得ざるが故に、たとい正当の事情のもとにも、到底壮烈の最後を遂げ得べからざる制限ある点において藤村子よりは人格として劣等であるから、嗤う権利がないものと余は主張する。」とのことでもある。



此処からし漱石もまた明らかに悲観主義者なのではありますが、そして癇癪持ちでもってして明らかに精神病質であったのでもあるが他方で彼は近代に対する鋭い知見と嗅覚を持った文學者でもあった。


尤も概ね近代文明に対しては否定的な見解を抱いて居られたが。



それに不可解なる人生を悩みに悩んだと云う点に於いては漱石も藤村 操も全く同じことでした。


つまりは当時のインテリにとっての精神は或は悲観の方向に傾いていたのやもしれなかった。


煩悶だの苦悩だのそんなものが当時のインテリにとってはありふれていた訳です。




が、ソコからするとどうも今は違いますな。


煩悶どころか食欲性欲金銭欲だけが無限に続いて居るばかりです。


さてそれでは今のインテリはインテリとしての役目をちゃんと果たして居るのだらうか。



逆に言えば今のインテリが利口さうで居て実はほとんど思考力なし、と云った感じなのでこんなに世の中が乱れて居ると考えてもよさそうです。



言うまでもなく普通インテリは悲観主義に傾きがちです。

ですが当時のインテリの時代の悩みはまさに時代として頭抜けたもので今のやうな過剰な欲望肯定に於ける悩みとは質的にまるで異なるものだったことでせう。


いずれにせよかのショーペンハウアーがこんなに優しい人だったと云うことを初めて知りわたくしは今ある種の喜びのやうなものに包まれて居ります。

謂わば日常的に支配されし悲観の中にも一筋の光明を見出したと云うところでせうか。

しかもあんな悲観のカタマリでもってしてかつ女の敵そのものである人にこんなに惚れ込むだなんて予想だにしませんでした。

いえ日頃のわたくしの言動からすれば或は其れも当然のことなのかもしれませんのですが。