言うまでもなく自然とデカダンスな方向を向き易い放蕩詩人や無頼の作家の類には宗教の教えこそが必要です。
第一世の中を斜に眺めていつも文句ばかり垂れているやうなそんな嫌らしい猫共には宗教のレヴェルでのまさに清廉潔白な、所謂無菌状態での精神の処女性、潔白性のやうなものこそが大事である。
どだいすわ世は滅ぶだとか、さうした悲観のばらまきばかりして居る輩には是非思想改造が必要です。
即ち世が悪いのではない。
お前自身がいけないのだ。
もうお前の頭の中が兎に角グチャグチャなので書いて居ること自体が滅茶苦茶である。
それでかえって世を惑わして居る。
怒りと怨念でもってして此の社会をぶち壊そうとさえして居る。
それではひとつ心を入れ替え真面目に教えに耳を傾けてみましょう。
仏教であろうがキリスト教であろうが教えの本質は常に同じことでしょう。
近代といふ欲望の世紀を生み出したキリスト教自体には多分に問題があろうが、キリストの教え乃至は聖職者の教え其れ自体に問題があるのではない筈。
尚この方は前々から存じ上げて居りましたがまさに人間として素晴らしい方です。
確かNHKの心の時代などにも出演されて居た筈です。
ところがすでに亡くなられて居ました。
宗教界から素晴らしい方がまたお一人他界されたのです。
それではカトリックの勧善懲悪から是非学んでみることと致しませう。
ちなみに彼女をつくるなら修道女か尼僧が一番です。
何せ貞淑でしかも利口ですから真面目なことばかりを毎日教えて頂けます。
もう毎日が説法で毎日が所謂気付きと回心の日々です。
でも間違っても触ったりしてはいけない。
何せ宗教と結婚した女達ですからもはやアナタの思い通りにはならない。
彼女等はもうスッカリ神または仏のものなのである。
「暗いと不平を言うよりも進んで灯りを点けませう」
…確かにそうだ。社会が暗いといふ其の事を批判して居るだけではダメだ。むしろもっと真っ暗にした上で灯りを点けていくべきだ。自らが其のマッチの一本になるべきだ。是非ともそんなマッチ売りのオジサンになるべきなのだ。
「いつも喜び感謝しつつ生きる。」
…つまりは報恩感謝のことか?でもとても感謝など出来ない。何せ理不尽なことが多過ぎて。其れに人間もほとんどが馬鹿ばかりだし。其れに自分もこんなに救われないバカなのだし。第一百年以内に近代文明が滅ぶといふのにそんな日々喜んで生きすべてに感謝感謝だ、などとはとても言って居られない。だが仏教でもキリスト教でも其の感謝こそが基本だと云う。諸の悪に感謝して何故生きなければならないのか、そこのところがいまひとつ分からないのだが。感謝する力に欠けるのか、それとも真に神仏を敬っては居ないのか。
「人間の弱さから生じる苦、辛さ、悔しいこと、また理不尽なこと」
…神は何故か二極化ー二元ーがお好きなようだ。理不尽なことの対極には矢張り完璧な意味での叡智があるのだろう。要するに仏の智慧のようなものか。重要なことはカトリックに於いてもましてや仏教に於いても苦が生じるのは人間の弱さ即ち人間の迷い、不完全さに原因があるとして居る部分である。つまりは神や佛が悪いのではなく分解され限定された迷える生命としての人間そのものに苦の原因があるのだ。
「神様は力に余る試練をお与えにならない」
…さもありなん。持って生まれた自身の障りー運命や貧乏や他の様々な苦ーは多分自分に見合ったものが其処に与えられて居るのであろう。畢竟其れは試練であろうが、己にとってはあくまで必要不可欠な試練であるのやもしれぬ。
「イエス様のやうに死んで生きる。大きな死のリハーサルを喜んで受け入れる。」
…ああ、なる程、こうした喜び方なら何となく分かる。それにしても小さな死の積み重ねがやがて実を結ぶー心の王国に於いて?-なんてのは凄い言葉である。かの救世主は確かに死んで生きた人だったのだろう。ただ生きて死んだ、のではなく、まさに死んで生き死した後にも生き続けたのである。
愛は与えるものであり与えられるものではない。
慰めも与えるものであり与えられるものではない。
与えることで世界がそして自身が清められ得る。
世界が暗いのは悪魔と番った世がまさに此の世だからだ。
救世主が死んで生きたのはそう生きざるを得ない世が此の世であるからなのだろう。
まさに此の世は楽園ではなく失楽の園である。
然し神の叡智は其の失楽の園をも遍く照らすといふのであらうか。
神は遍在し、かつ神意のままに須らくは十全なのであらうか。
嗚呼、分からない、分からない、でも何となく分かった感じを与えて呉れるのが宗教といふものなのだろう。
つまるところ宗教がないと人間はダメになる。
そも成立たない。
人間として成立たない。
人間として成立たない非宗教的な世界は、其れは合理主義が用意する悪夢の世界だ。
いや悪魔そのものとしての世界だ。
あれ、また怒って仕舞った。
其処でつひ感謝の気持ちを忘れて仕舞う。
いふまでもなく神仏に対する感謝を常に絶やさぬやうしかと心を正しておかねばならない。
そう宗教とは此の心の正座のことなのである。
心のたたずまいを正し、神または佛と繋がる世界のことである。
「神様以外は全て不完全」
…確かに神仏以外は全て不完全です。しかもそのままでは悪に染まり易い。また特に現代文明は悪に染まり易い。神は悪からも善を引き出すそうですが、其の部分は例の悪人正機説と同じで面白い。ただ悪といふものははびこり易い。何故なら此の世自体が悪の世界そのものであるのだから。其の悪の世で正気即ち信心を保つのは至難の技です。いや悪の世だからこそ信仰は必要となるのかもしれないが。
第一全ての人間が善人ならば、もうこれは神仏など要らなくなる筈です。ということは少なくとも人間といふものは性悪なんです。性悪だからこそキリスト教や仏教が必要になるのです。ただし現代社会の問題点は、ズバリ其の宗教の自浄作用の弱体化にこそあります。宗教の機能低下が神仏の足腰を弱らせて仕舞って居る。
其の果てに待つものは人間の精神の崩壊とでも云うか何と言うか、兎に角其の人間の不完全性に対して限りなく不感症になった人間の数が増えていきます。
要するに分を弁えない人間が増え神仏以外の即物的価値に寄りかかり精神の拠り所を欠いて生きざるを得なくなる。
尚、理性というのは、人間に於いては顕著に顕在化されて居るのでむしろより大きくー自然界よりー損なわて居るー分離されて居るーのであります。
人間の理性とはそのやうに自然界の合理性に比してより不完全なものと捉えられる。
其の不完全性が近代以降の諸の破壊としての惨状を招いて仕舞って居ます。
さらに自由といふ概念にも注意深く吟味が必要です。
何故なら今人間は理性だの自由だのいふ近代主義の謳う概念に逆に圧迫されて来て仕舞って居ます。
わたくしは個人的に宗教に自由などないとそうも考えます。
宗教とは必要悪としての精神の縛りなのでしょうから逆に自由などであってはならないのです。
このやうに理性であるとか、自由であるとか、其のやうな近代主義の謳う術語は常に危険なものを孕んで居ます。
要するに人間には真の意味での理性は顕現せずかつまた本質としての自由を保つ存在でもない。
だからこそ宗教こそは祈りです。
まさにマザーテレサが仰ったやうに祈りそのものです。
また其れはキリスト教に於いては自己の小さな死を捧げつつ祈る神への祈りなのでしょう。
ですがわたくしの祈りは其の理性を欠く人間、若しくは自由なき存在としての哀れな人間への祈り、自らの佛性に対して余りに不実な素の人間に対する慈悲としての祈りです。
「すべては恵みの呼吸ですから」
実際此処まで言えればもう何も恐いことはないのでしょうが実際に病気や事故や愛する人々の死を前にして其れが恵みだなどとはどう考えてもそうは思えないのが人間としての性といふものです。
でも宗教的次元に於いては其れが成り立ち得る、宗教は矛盾や不条理をものともせず正の概念ー善の段階ーへと精神を導きます。
ですので宗教とは究極的な前向き思考です。
より良くー善くー生きるのが其の目的なのですから、人間の表面的な不運や不幸、苦しみや不毛は其の目的に対する妨げとはならない。
個人的には、此の宗教の価値観でもって現代人は今後を生き抜いていくべきだとそう考えるのです。
何故なら合理主義による定量的価値観、つまりは唯物主義で人間が文明の以降を生き抜いていくことは容易ではないからです。
今世紀末に待ち受けることだろう生態系の破壊や食糧危機に対処するだけの精神的支柱を唯物論は持たないといふことなのです。