目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

藝術と宗教の本質的差異ー自我に於ける構築と放棄の違いー

其の矛盾的推進としての生の意味の本質を分って居るかどうかと云うことこそが聖俗の閾なのであり且つ藝術家であるか俗人であるかと云うことの区別でもまたある訳だ。

其の聖なる者であれ或は藝術家であれより深い世界への洞察を為し謂わばより鋭い感度にて此の世と対峙する訳ですので要するに其処では凡人の世界とはまた別の強い苦悩を其処に背負わされる訳だ。

 


だが私は一種さうした特殊な苦悩のスペシャリストなのでもある。

故にかさうした苦悩の世界を書き描くことなどもまた可能なのだ。

 


なのですが、決まって世人はさうした洞察の深さや鋭さにはむしろ無縁でありむしろ生に於ける楽しい物語ばかりを追い求めて居るものなのだ。

要するにまるで獣並に其の意識の方が低いと来てる。

 

 

 

其の意識の低さにあえて寄り掛かり其処に胡坐をかくことこそが所謂「大人になる」と云うことなのでせう。

 


なのだが其の大人馬鹿ばかりとなるとやがては社會崩壊を引き起こし文明其れ自体が破壊されて行くと云うのがむしろ歴史上の大前提でせう。

 


で、其の馬鹿は一体どうすれば治るのかと云うことを長々と論じて参りましたが結局其れは治らないと云う結論へと傾きつつある訳だ。

 

 

 

勿論究極的にはまさに其の馬鹿を根絶せしめることこそが宗教としての課題でもあると云うことです。

 


其の宗教的な課題としての自力救済と他力救済のことに就き此れ迄くどい程に説明させて頂いても来た。

 


其れ等を共に精神にとっての正しい道であると述べたところこそがまさに私の認識上の特徴でありオンリーワンとしての価値観の部分でせう。

 

 

 

宗教の課題として最終的に否定しておかねばならぬものが個人崇拝ー教祖様へのーであることも述べて置きましたが實際オウム教などにも其の傾向が色濃くあった訳なのだった。

 


翻りキリスト教の場合はキリスト崇拝やマリヤ崇拝などが確かに御座りますがキリストの場合には其れは神の子でもまたある訳なので個人崇拝には当たらぬものと私は考えます。

対してマリヤ崇拝に関しては多々疑問は御座りますが其れもまさに観音信仰と同じやうなもので生命を生む命の母への信仰ー地母神信仰ーと似たやうなもので其れは確かにキリスト教を不純化しては居りませうが全否定するべきものでは無いと私は捉えて居る。

 

 

 

さうして誰しも己の母を否定することが出来ぬと云う意味で人間には完全な認識など望み得ぬ筈だ。

 


佛教の場合釈迦の佛法に於いては釈尊御自身が其の個人崇拝を否定的に考えられ故に御自身への崇拝は止めるやうにと屡説かれて居たものでした。

釈迦の佛法はかやうに至極理性的なもので究極的には其れは先祖崇拝でも個人崇拝でも無く佛への帰依の一点張りでのものです。

 


其の佛とはまさに普遍化されし人間の精神の階梯の最上位に位置するものー分かり易くあえてヒエラルキーとして述べればーなので其れをこそ崇拝すべきものでもしも自分が成佛したとすればまさに其れが釈迦と同等に偉くもなれるのです。

 


其のやうに佛法とキリスト教の教義は違い、また個人崇拝の宗教と個人を崇拝しない宗教とは根本的に異なります。

 


佛法とキリスト教の教義が異なるのは其れは当たり前のことですが原則として個人崇拝をしない点に於いて謂わばどちらも正しく、でも個人崇拝の宗教と個人を崇拝しない宗教とは根本的に異なり言わば其れがまさに邪教と正教との違いなのだとさう考えられやう。

 

 

 

さて、其の人間存在にとっての苦悩を考えますれば、藝術ー文化ーにとっての苦悩と正教にとっての苦悩はまた違うものであるやうにも思う。

 


藝術ー文化ーにとっての苦悩⇔正教にとっての苦悩

 


とりあえず私はさうして其の苦悩を二元分離させてみた訳です。

 


藝術ー文化ーにとっての苦悩とはまさに創造的自我の苦悩であり正教にとっての苦悩とはむしろ自我放逐の苦悩其のものなのだらう。

 


なのでどうも其処ではベクトルが違うやうに思える訳だ。

 


即ち藝術とは創造ですのでたとえどんなに自己の心が腐って居ようが其の作品は皆作品としての態を為す。

つまりは成功する訳です、此の世での其の創造的自我の構築に於いてだけは。

 


対して其の自我放逐はキリスト教でもまた佛教でも大いなる目的とされて居ることです。

 


確かに其の自我放逐こそが其の正教としての課題です。

ですが實は其処に一つ大きな落とし穴が御座る。

 


まさに其れが教祖様に盲目的に従う為に自我を放棄することです。

ですが其れは眞の意味での自我放逐には非ず。

 

 

 

1.神に帰依する

2.佛に帰依する

 


故に此の弐種だけが正教として許されることだらう崇拝の形であらう。

 


さうして王や天皇を崇め奉り國會議員や地方の議員、また會社の社長、地元の有力者などについヘコヘコして頭を下げるのは其れは人間にとっての救いを齎すものでは元より無い。

逆に申せば教祖様や王や天皇を崇め奉り國會議員や地方の議員、また會社の社長、地元の有力者などの権威者、権力者についヘコヘコして頭を下げることを止めねば正教の齎す価値には決して気付けぬ訳だ。

 

 

 

藝術ー文化ーにとっての苦悩⇔正教にとっての苦悩

 


私にとり此の二面を両立させてやって行くことが次第に可成に辛い段階へと移って来て居る。

 


其の創造的自我と宗教的自我の並立が困難となって仕舞った訳だ。

 


其処で其れを+と-の要素に分けしてみることにこのほど決意を固めた。

 


何故+と-の要素に分けたのかと申せば、藝術とは創造的構築のことであり故に其の本質的価値は+となり、宗教とは正教に限れば其れは自我放逐のことなので其の本質的価値は-だと見て置いても良い訳だ。

 


ー但し最終的には藝術と宗教は其の価値を一致させ得る。最終的に其れは-としての現實から+の価値を生じさせる動きのことだらうー

 

 

其のやうに藝術と宗教は相剋し且つ相即するやうな価値である。ー但し教祖様が威張るやうな宗教は邪教なので宗教には非ずなのだがー

 

 

 


私が今述べて置きたいこととはかうした学校でもまた会社でもまた共同体でも教えては貰えぬ価値に就き述べることだ。

 


其の価値とはむしろマイナスから発する価値のことである。

 


宗教、其れはキリストの場合でもまた釈迦の場合でもまさにマイナスからこそ発して居るのである。

 


キリストは当時の社會を全否定しむしろ自分が子としてある神のみが正しいとほとんど妄想のやうなことばかりを述べられて居た訳だった。

また釈迦は其の奥方と其の子、また地位と名誉と國其のものをお捨てになりまるで妄想のやうな修行の世界へと入られて行った。

 


共にもう誰が見ても超マイナス思考の塊其のものであった。

なのだが結果的に正しいのは王でも無く國會議員や地方の議員、また會社の社長、地元の有力者でも無く其の御二方が成し遂げし価値観であった。

 

 

 

其のやうに聖なる者の認識は一般的に形成される価値ヒエラルキーをむしろ離れたものなのだ。

 


ところでいまひとつ一般的に形成される価値ヒエラルキーをむしろ離れた認識がありまさに其れが藝術家としての眼差しであらう。

 


此の弐種の認識が普通大衆にはまるで理解が出来ずよって大衆はむしろより分かり易い教祖崇拝への方へと走り結局はさうして邪教を信じて仕舞うこととなる訳だ。

 


なのでむしろ一番気を付けて置かねばならぬことこそが正教ー正統的な佛教の各宗派及び正統的なキリスト教各宗派ーを信じることであり邪教とは何かと云うことを知ることであらう。

 


で、個人的な選択の話に戻れば其の藝術ー文化ーにとっての苦悩と正教にとっての苦悩は共に捨てられぬものなのであえて私は同時に其の二つの苦悩を見詰めて行くこととしてみた。

 

 

 

其の価値判断をより具体的に申せば創造的自我と宗教的自我の両立のことである。

だが其れはなかなか難しいことでもあるが故に創造的自我の内容は別のブログへと移行させ宗教的自我ー批判精神をも含むーの内容はこちらにて続けて行くことと相成った訳だ。

 

 

 

先にも述べた如くに創造的自我と宗教的自我は相剋するー二元対立するーがまた同時に相即するー同じにならうとするー訳である。

 


己が生の目的とは其の創造的自我と宗教的自我を共に突き詰めてやって行くことにこそある。

己が生の目的とはさうして周囲にヘコヘコ頭を下げることでは無くまた大金を稼ぐことでは無い。

 


己が生の目的とは己にのみ可能な世界を形作ると云うことでなくてはならぬ筈だ。

 

 

 

でもコロナ苦が…。

 


いやコロナ苦云々と云った話では無い。

 


今や誰でもがコロナに罹り死ぬる可能性が無いでは無い。

 


つまるところコロナ禍は社會の問題であり個としての内面的問題なのでは無い訳だ。

 

 

 

でもイザコロナに罹れば…。

 


いや私にはコロナ其れ自体よりも人間社會が齎す諸の破壊の方がずっと怖い。

 


コロナ禍は其の破壊の端緒であるに過ぎずよって今後社會的な自我に対し破壊の波が次々と押し寄せて来ることだらう。

 


また問題が複合化しより具体的に資本主義社會や民主制と云った社會的価値に影響が及ぶ可能性が今後は高くあらう。

 


故に我はむしろ其れとは無関係に己の道をこそ歩みたい。

 


是非其れをやって置かねば後悔することだらう。

 


其れもたった一度の人生で後悔などしたくは無いのであるから。

 

 

 

尤も其の後悔の仕方は大衆の価値観などとはむしろまるで異なる。

 


1.もっとデカい企業でもって高給を得つつ65歳まで是非働きたい。

2.美人妻と所帯を持ち優秀な子を授かることが夢だ。

3.周りにヘコヘコしよりデカい家に住みデカい仏壇を置きおまけにデカい墓をつくり其処で死後はみんなで安心して暮らすのだ。

 


対する私の正直な気持ちとは、

1.教祖様にはヘコヘコせず此処まで来られ眞に幸せであった。

2.兎に角自然と親しむことが多く出来最高の人生だった。

3.後は持って生まれし此の文才と心中するばかりである。

 


即ちそも持って居る其の価値観其れ自体が違う訳だ。

 


かくして自我を放逐する為の其の正教としての価値観と逆に自我執着により作品を生み出す創造の価値観は時に混じり合いー相即しー且つぶつかり合ったりもするー相剋するーのである。