果たして人間に取っての心の豊かさとは何か?ー『PERFECT DAYS』の筋から考える藝術論及び宗教論ー
さて『PERFECT DAYS』に関しては以下の如くに「賛否両論」があります。
ー肯定的評価の例ー
【奇跡のような映画】役所広司が神の領域に入った「PERFECT DAYS(パーフェクト・デイズ」の感想【ネタバレなしレビュー】 (youtube.com)
「PERFECT DAYS」の役所広司さんに感動した、いい歳した大人ふたりがひたすら語る (youtube.com)
ー否定的か若しくは批判的な評価の例ー
【映画レビュー】『PERFECT DAYS』は映画の豊かさに溢れているけれどモヤモヤします【役所広司主演】【パーフェクトデイズ】 - YouTube
其れでもって『PERFECT DAYS』をまだ観ても居ないわたくしが其処にあえて何を視ているのかと言えば其の反応の違いのことに就きまずは考えて居るのであります。
さうさうして人間の心理的な立場、其の今あるところでの心のあり方によりまさにかうして評価が弐分化されて仕舞うと云う事實に就き思いを巡らせて居ります。
では何故ソコにそんな差が生ずるのだらう?
まさに其れが「分かるか、分からぬか」の差であり「悩むか、悩まぬか」の差であるのだと個人的には思う。
では何が?と云うこととなればまさに其れが「藝術」であり「人生の意味」であり「人間の本質部」でありまたつまりは「人間とは何か?」との其の究極としての問いのことでせう。
また要するに其の「究極としての問い」の部分が其処に在るか否か、とのことです。
まさに其の「究極としての問い」の部分をこそ社會に對し提示するのが「藝術」でありまた「宗教」の役割なのだ。
且つ其れが人文的な作用だとのことである。
人文的な作用は数的還元し得ぬ価値をこそさう世に對し示すものとなる。
此の世はさうして「数學」的に割り切って処理され得るものには非ず。
此の世はさうして「人文的」に複雑で且つ「怪奇」なものであり故にこそ正しい心のあり方とすれば其れは「正の価値ヒエラルキー」の中に閉じ込められるやうなものでは無くむしろ「負としての価値ヒエラルキー」としての不条理や矛盾、要するに我慢のならぬ理不尽な様、其れもどう考えてもオカシイやうなゴリ押しだの腐敗だのが蔓延することだらう「地獄の世界」への直視のことだ。
故にそんな「地獄の世界」を認識することこそがおおまさに「人文的な感度」の世界なのでありまた釈迦やクリストによる認識の世界でありさらに言えば文學や他の藝術が語るところでの「創造的世界」其のものなのだ。
そんな「究極としての問い」の部分が其処に有るからこそ其れが「藝術表現」と化すのであり故に藝術とは単に「心地良い」ものであってはならず且つ「大衆受け」するやうなものであってはまさかならない。
藝術とは左様に本質的に孤独で且つみんなには理解がし難いものなのだ。
藝術表現が左様に理解がし難いものであるからこそかうして其れを理解出來ぬ人が凡そ半分位はまた出て來るのである。
儂などもまたさうだが自分がもしもストレートに「藝術」を此処でやればもはや理解不能となり眞の意味での「村八分」となって仕舞う。
さても「藝術」とは左様につくづく難しいものよ。
だが其れは常に「究極としての問い」の部分を表現するが為の人間存在に課せられし使命のやうなものだらう。
でもって『PERFECT DAYS』ではラストシーンで役所氏が演じる表情の變化のことが屡語られて居たりもする。
要するに其の「幸せ」な平山氏の内面に生じる逡巡や葛藤の部分をまさに其の表情の變化が物語って居るのである。
では其れに就いても是非書かせて頂く。
が、何せまだ観て居ない映画ですのであくまで想像しつつ其れに就いても語る訳なのです。
が、観なくても大體は分かる。
まさにさう云うのが直感であり直観なのだ。
自分はそんな直感人間であり直観人間ですので何もやらんでも大抵のことは分かる。
エッ?
では文明は西暦何年に滅亡するのか?
だから其れは預言者とか予言者にでも聞いて頂きたい。
わたくしが語るのはあくまで「藝術」の御話なのであり預言や予言の類とはまさに本質的に別物なのだから。
ではアナタは予言詩人とは違う?
そんなまるで何処かの教祖のやうなことはもしやれるのだとしてもやりたくは無い。
尚「藝術」と「宗教」はまるで違うやうに見えて実は良く似た部分がある。
其の似た部分とはまさに精神的な意味での「正の価値ヒエラルキー」を構築する部分であらう。
へッ?
其の「正の価値ヒエラルキー」を構築することこそが社會を壊すことになるのでむしろ其れを脱構築せよとさう社會科詩人はかって語って居なかったか?
だから其れはあくまで社會的な意味での「正の価値ヒエラルキー」のことだらう?
でもわたくしが語るのは其の眞逆での内面的な意味での「正の価値ヒエラルキー」のことなのだ。
すると内面的な意味での「正の価値ヒエラルキー」の構築はむしろ〇であるのだと?
さうなんだ、實は「藝術」と「宗教」に於ける「正の価値ヒエラルキー」の構築は社會的な意味での「正の価値ヒエラルキー」とはむしろ逆方向なのだ。
第壱考えて見給え。
例えば「藝術」と「宗教」はむしろ非常に「自己本位」なものとなる。
さうむしろ其れは「唯我独尊」にて自分の信じた価値を此の世にやり抜くことなのだ。
確かにさうだ…。
どだい藝術家はほとんどが「唯我独尊」でありむしろ他のことは何も考えて居ない。
であるからこそ彼は藝術家として世に立つことが可能となるのだ。
また宗教をやる人は其のほとんどが「唯我独尊」でありむしろ他のことは何も考えて居ない。
であるからこそ彼等の心中に揺るぎない「信仰心」が醸成されるのだらう。
其の通りで彼等はまず「自己本位」なのである。
逆に申せば「自己本位」でないと強い「正義」や「正統性」を得ることは出來ないのである。
だが其れはあくまで「自己本位」な「信仰」なので例えば國家が主導する「全體主義」などとは違いさう「洗脳」された上で其れを行う訳には非ず。
むしろ「自立的」で且つ「自律的」な意味で其の「信仰」を選ぶのであるからむしろ其れは選択の問題であり其処にあくまで自由意志を貫く上での結果なのだ。
なる程…。
すると其の「正の価値ヒエラルキー」の構築はむしろ自主的に行うであらう「選択」のことなのですね。
さう其の「選択」こそが生を「苦悩」した挙句での選択であり行き場なのだ。
すると其れを「選択」する必要の無い人もまた居るとの御話なのか。
其の通りで「藝術」や「宗教」はより高い次元での人間の精神的な営為のことであり人間の八割位はむしろ其の次元とは関係の無い人人であるに過ぎぬ。
嗚呼だから釈迦やクリストの後の人が何年経っても世に現れないのか。
おおだから岡本太郎はさう何人も出ずさらにゴッホやゴーガンはアノ時代の彼等のみで終わって居るのですね!
うん、さうだね、人間の八割位はほぼバカだから元元其処に「藝術」も「宗教」もあるもんか、ワアーはっはっはっはーのはー。
さうだったんだ。
人間の八割位はほぼバカだったのか。
ではもしやボクもそんな馬鹿なの?
いいや君はちゃんと先生と共にかうして此処でもって御勉強して居るではないか。
なんでバカでもな、さうしてちゃんと御勉強する奴は只の救い難い馬鹿とは違い伸びしろがあるのだよ、まさに其のノビシロが。
すると内面的な意味での「正の価値ヒエラルキー」の構築はむしろ〇であるのだと?
さうなんだ、實は「藝術」と「宗教」に於ける「正の価値ヒエラルキー」の構築こそがそんな「生のあがき」となる。
「生のあがき」?
其れは何ですか?
まあ其れは社會の不条理や理不尽に對する自己防衛のことだな。
此の社會は結果ロクでもねえ世界をかうして構築して行く。
實際にたった今文明はロクでもねえ世界をやりつつあり御先がスッカリ見えて居り要するに其の先行きが眞っ暗暗だ。
其れは社會を上手く創れなかったとの人類の思想的な無能力がさうなさしめたことなのでありつまりは理性的に馬鹿だったから其れがやれなんだとのことであらう。
そんなもんほぼ絶望的ではないですか?
いや確かにほぼ絶望的ですよ。
ですから「絶望」した上で内面的な意味での「正の価値ヒエラルキー」の構築をあえて行うのが眞の意味での理性人であり人文者としての生き方なのさ。
また「絶望」した上で内面的な意味での「正の価値ヒエラルキー」の構築をあえて行うのが眞の意味での藝術家の生き方なのさ。
ほーう、さうだったのか。
では藝術家や宗教家の面面がああしてにこやかに前向きなのはむしろ其の「絶望」を前提として育まれることだらう内面世界の成長を何より表すことだったのですね?
さう藝術家や宗教家の人人ってある種「入っちゃってる」部分があるのです。
確かに彼等はすでにアチラへと「行って居り」此処には實は居なくて心は全て上の空、なんだ。
こわあー。
そりゃヤバい!
いや最終的に人間は其れをやらんと決して救われはせん。
社會はかうして常に間違って居り故に理想の社會が訪れることなどはまず期待薄なのだ。
ではアナタ御自身もまた此処でさうして教訓めいたことを語りつつ實はすでにアチラへと「行って居り」此処には實は居なくて心は全て上の空、なんだ。
まあさうですがちゃんとかうして事の原理だけは述べて居ますでせう?
何せ其れが儂の仕事なのであえて其れを皆様に御伝えするのであるが。
まさにそんな「生のあがき」こそが藝術であり宗教である。
だが其処迄行くには相当な「精神的な苦悩」を経験しないとならんので無論のこと誰もが其処へ到達する訳では無いのである。
でもって私見ですが役所氏が演じた彼平山の最後の逡巡であり葛藤の部分とはまさに其の内面的な意味での「正の価値ヒエラルキー」の構築に對するだらう逡巡であり葛藤の部分であらう。
即ち其の平山が構築せし究極的な意味での「正の価値ヒエラルキー」の構築ですら絶對的なものでは無いとのニヒリスティックな結末のことである。
だが其れがたとえニヒリスティックな結末ではあれ其れは「精神的な苦悩」を経験することなく即ち非自律的に「社會的な全體主義洗脳」の中を泳ぎ続けることよりは遥かに救われて居るだらうことを其処に決して見逃すべきでは無い。
すると壱番哀しいこととは疑問を持たず只流されてつまりは社會的に洗脳され此の世を生きて行くことなのか?
話はまるで變わるのだが3日の土曜に詩人は節分會にて笠寺観音を訪れて居る。
其の折に笠寺観音の横の法性寺と云う小さな寺の掲示板にかのチャーチルの言葉が引用され掲示されて居たのだった。
「凧が高く揚がるのは風に向かう時である。風に流される時では無い。」
と云うやうな言葉が其処にはあった。
例えば「社會」又は「社會通念」なるものはまさに其の「風」のことだらう。
あえて風に逆らい其れに立ち向かうからこそ自身が浮揚し高く高く揚がることが可能となる。
だがイザ風に流されて仕舞えば何より樂だしまた「苦悩」も何も無い。
ですが其の代わりに彼は自らの意思決定を奪われ決して高く高く揚がることは出來ぬ。
節分會は賑わって居り自分は本堂へ詣でた後で主に露店を眺めて居た。
其処には子等が集いサメ釣りだの的当てだのと云う遊びに興じて居た。
此の子等が将來直面することだらう文明の未來はしかしながら暗い。
あくまで暗いのだが彼等はさうして其の時時を遊ぶのみ。
では爺さんも彼等のやうに遊ぼうか?
いやでも遊べないか。
かうして何やら體のあちこちが惡いのだし…。
だが君は高く高く揚がってるぞ、其れもちゃーんと此処で。
…どうもありがたう。
さう言って呉れるのはもはや君だけだ。
要するに「絶對の幸福」と云うことは有り得ない。
此の世では常にそんな「相對の幸福」が其れも悩み切った時にだけさう訪れるものなのさ。
故に彼平山の藝術的なまた宗教的な努力は無駄では無く其れも少なくとも「苦悩しない」輩の内面世界に比せばもうウソのやうに其れが豊かな場となるのである。
其れはそんなニヒリズムが訪れる以前にさう豊かなのだ。
心の豊かさとはさうしたことでありまた其れが「絶對の幸福」のことでは常にあり得ないのである。