目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

『パーフェクト・デイズ』への藝術的な意味での理解ー『パーフェクト・デイズ』に對する反論に對する反論ー

『パーフェクト・デイズ』への藝術的な意味での理解ー『パーフェクト・デイズ』に對する反論に對する反論ー

 

 

 

 

さて本日「YOUは何しに日本へ?」と云う番組をたまたま視たが西班牙の廿代の靑年が🗾の友よりワゴン車を借り其れにて壱年間🗾の各所を旅するとの可成に面白い内容のものであった。

でもって何故彼が其れをするのかと言えば小さい頃より🗾のアニメに影響を受けて居りさうして彼の人生に大きく影響を与えた🗾と云う國を直に知りたかったさうなのだ。

 

所謂「グローバル資本主義」はかうして世界の文化的な垣根をむしろ外しつつある訳だがしかしながら其の事もまた良く考えてみれば🗾のアニメの何処にそんな魅力があるものなのかわたくし個人はさうした傾向に對し可成に懐疑的である。

其れとそもスマフォだの國際電信通話だのそんなものは必要が無いと考える我に限り彼等はむしろ自分の國にこそ興味を深く持ちまた其の國を少しでもまともにするべく「地元の社會と何処までも闘う」必要があるとさう正直思う。

 

が、彼の其の「やりたいことをやる」精神其のものを否定する訳では無くむしろ其れを応援したい気持ちではある。

何故なら其の「やりたいことをやる」精神こそが國や性別や階級などと云う社會的な意味での「制限」を「實存と云う価値」に転換するつまりは粉砕して仕舞う力を秘めるものなのだから。

 

人間とは左様に「限定」されざるを得ぬ現象である。

其れは其の根本に於いて動物達、また植物達ともまるで變わりの無い事實である。

 

 

だが人間は其れには我慢がならず故に常に「自由」を求める。

「自由」を求めるのは畢竟人生に於いて「實存的な価値を成就せんが為」のことであらう。

 

故に人間は常に其の「自由なる實存」の虜囚なのでもまたあり得る。

「自由なる實存」にはけだし常に「限度」が設けられねばなるまい。

 

なんとなれば「自由なる實存」は常に「暴走」し易いからなのだ。

さう「観念的価値」は概してさう「暴走」し易い。

 

よって「やりたいことをやる」をやる為にはまず「限定」しなければならない。

「限定」とは理性による作用であり所謂本能による「非限定的な欲求」を抑える働きでのものとなる。

 

「非限定的な欲求」を抑えた上で「やりたいことをやる」をやるからこそ欲望が無制限化しないのだ。

まさに其のことが古來より佛かまたはクリストにより伝えられし教えでの枢要な部分となることだらう。

 

逆に「やりたいことをやる」のが衝動化されれば其れは犯罪か又は酒池肉林の放埓へと手を染めることとならう。

 

だが「やりたいことをやる」のが少しは衝動化される位でないと彼のやうに他國を旅行出來ずまた恋愛も出來ずさらに自分の思い通りのことは成らないと見るべき。

自分の思い通りのことをやるのは其のやうに「眞理」に對する「反逆」なのでありまた「否定」であり「革命」なのだ。

 

故に生きんと欲するであらう「衝動」の中にもまたしかとそんな「反逆へのエネルギー」が仕込まれて居る。

さうむしろ生きんと欲する其のこと自體がむしろ「反逆」でありしかも「破壊」なのだ。

 

我我人類はさうして「破壊」することでしか「生を駆動」することが叶わぬ。

故に其処には「放棄」がどうしても必要となる。

 

 

さて「放棄」とは「限定」であり限定とは「理性」のことである。

 

「理性」とは「求める」衝動を抑えあえて「求めない」精神の働きを持つことだ。

或は其れが「求める」ものと「求めない」ものとの区別を付ける心の根となるものだ。

 

ではあれ「求めるもの」と「求めない」ものの区別を社會の側に委ねるべきでは無くあくまで其れは内観と内省とに基づく「己としての意思決定」に委ねるものでなくてはならない。

故に聊かやり過ぎではあれ「自分のやりたいことを求めんが為」の自由の追求の部分が否定されるに及んではまたならない。

 

求める⇔求めない

やりたい⇔やらない

 

現存在ー人間ーは常に此の弐項對立での心理的世界を住する旅人なのだ。

まさに哲學的に申せば其の弐項對立其のものが人間の認識の癖であり其れ即ち本質的には「虚偽」なる認識其のものとなる。

 

だが其れを事實上相互に否定することは適わぬ。

何故なら「求める」自分が居てすると必ずや「求めぬ」自分が其処には居り、

 

さらに「やりたい」自分が居てすると必ずや「やらぬ」自分が其処には居るのだから。

左様に所謂「不即不離」での両極に於ける概念関係ー認識関係ーを構築しているとのことこそが人間による認識世界の癖のことなのだ。

 

しからば後は、

 

理性⇔本能

没衝動⇔衝動

 

まさに此処でのバランスをどう築くかの御話と全てはならう。

 

だがまさに其の「衝動的本能」はむしろ誰にも抑え切れぬ。

何故なら人間はそも神でも無ければましてや佛なのでも無いが故に。

 

故に其の弐項對立関係を収束させ「實存としての価値」を生き「幸福」を勝ち取らんが為にはまずは自立的で且つ自律的な個としての認識の成就こそが必須での要件となる。

またそんな意味での「實存としての価値」を生き「幸福」を勝ち取らんが為の闘いとは我我庶民が日頃目指すところでのものともならう。

 

例えば、

 

あんな美味いラーメンを作る中華料理屋としての實存

好きな🗾を旅するが為にカネを貯め壱年間🗾を巡る實存

 

そんなホストの魅力に嵌まり彼に貢ぐだけ貢ぐ實存

なんか知らんが運が惡く結果👩のヒモとなるしか無いやうな實存

 

毎日生きるか死ぬかでもって只ひたすらにエサと♀とを奪い合う自然界及びペット界に於ける實存

こんなゲージツ家となり何でも分かるが其れがなかなか世に認められずビンボーに甘んじるとの實存

 

ですからまさに其れぞ「實存の闘争」としての様でなくて何であらう?

嗚呼何処から見ても尊いアナタ方の其のけなげなる闘いの様のことよ。

 

 

『PERFECT DAYS』ご紹介|2023年ベストの映画【ネタバレあり】 - YouTube

 

さて私は此の映画を是非観たい。

其の「パーフェクトな日日」とは芸能人だの大金持ちだの超有名選手だのそんな世間の耳目が集まる生活の様を描くものには非ず。

 

「パーフェクトな日日」の實現者とはそんな東京の壱清掃員のことなのだ。

しかも初老でもって要するにすでに高齢者での範疇の人なのだ。

 

そんな彼が「やりたいこと」をし己が人生を構築して行く様は見事ですらある。

しかも彼はさう「限定」した上で彼の仕事や生活自體と常に向き合い続けて居る。

 

謂わば「實存」をこそ其処にやり切るのである。

「實存」とはさうした意味での「唯壱の価値」のことだらう。

 

其れは「金」や「名誉」や「地位」などではまるではかれぬ価値のことなのだ。

さう其れは「世界で壱つだけの🌸」の価値のことよ。

 

まずはそんな「世界で壱つだけの🌸」としての實存的価値に就き語るのが此の映画の要諦部である筈だ。

尤も自分は此の映画を観て居らず主にネット上で検索し其の内容を何となく想像して居ること位しか出來はしない。

 

だがすでに其のことが分かる。

其れもビンビンと心に響きつつ分かる。

 

まあそんなんであるのでずっと不眠症でもあるのですが。

 

 

PERFECT DAYS 公式サイト (perfectdays-movie.jp)

PERFECT DAYS - Wikipedia

 

パーフェクト・デイズ|考察・キャスト・あらすじ(ネタバレ)・映画予告編動画 (abelcane.com)

映画【パーフェクト・デイズ】あらすじ・キャスト情報!役所広司がカンヌで最優秀男優賞を受賞し快挙!|dolly9

『PERFECT DAYS』感想文〜弱者男性の生態を描いた令和最新版のルーティン映画|ケン・モーチ (note.com)

 

此処での最後の感想文の方が壱種鋭い、まさに的を射た部分のあることだらう感想だった。

 

但しあえて反論すれば「社會的弱者」を「弱者」とさう決め付けるのは「社會的強者」のみだらう。

「社會的弱者」は弱者なのではなく例えば救済宗教の側から言えば彼等こそが紛れも無く「救われ得る機縁の持ち主」となる。

 

逆に「救われ得る機縁の持ち主」では無い謂わば恵まれ過ぎた連中は其の「救い」からは遠い位置に心がある「可哀想な輩」其のものと云うこととならう。

さう人間はむしろ価値ヒエラルキーの上部に居れば心が穢れるものとさう相場は決まって居るのだ。

 

「社會的弱者」⇔「社會的強者」

 

そんな横暴な心の段階を生きる「社會的強者」が實は所謂「社會的弱者」による勞働=エッセンシャル・ワークにて支えられて居る。

だけれども心の目がすでに曇り要するに心が穢れ濁るが故に逆に其の貴き勞働の眞の意味が分からずつまりは逆に彼等を蔑んだりもするのだ。

 

尚此の文明世界は五拾年、さらに百年後に崩壊して行くことであらうが其の崩壊の因としてまず筆頭に考えられるのは其の「社會的強者」による「社會的弱者」への搾取過程が度を越すことによるものと考えられる。

即ち「社會的強者」の終わらざる強欲が所謂「清貧」としての「社會的弱者」による生活を次第に圧迫し且つ崩壊させるに及ぶので社會其のものに機能的な欠陥が生じ其れでもって「社會其のもの」が崩壊するに及ぶのである。

 

また「地球温暖化」などの外的要因もまた確かに有らうが其れよりも何よりも其の社會構造の不条理性故に資本主義社會の継続は今後不可能となることが自明である。

故にどうのかうのでは無く其の「社會的強者」による強い欲望のあり方にこそまさに社會的な意味での危険が潜みさらに社會の崩壊への根本因が潜んで居る。

 

まさに其の偽善者としての「社會的強者」の止まることを知らぬ欲望こそが此の社會関係を破壊しさらには地球をもまた人類其のものをも破壊してかかることの原動力であり最大因なのだ。

 

 

【第1弾】「平山という男は、どこから来たのか」ヴィム・ヴェンダース監督ロングインタビュー_『PERFECT DAYS』 (youtube.com)

【第2弾】「フィクションか、ドキュメンタリーか」ヴィム・ヴェンダース監督ロングインタビュー_『PERFECT DAYS』 (youtube.com)

【第3弾】「物語が壊してしまうもの」ヴィム・ヴェンダース監督ロングインタビュー『PERFECT DAYS』 (youtube.com)

【第4弾】「観客自身を、平山にする」ヴィム・ヴェンダース監督ロングインタビュー『PERFECT DAYS』 (youtube.com)

【第5弾】「小津が、そこにいる」ヴィム・ヴェンダース監督ロングインタビュー『PERFECT DAYS』 - YouTube

【第6弾】「どう撮ればいいのかわからない、それが理想」ヴィム・ヴェンダース監督ロングインタビュー『PERFECT DAYS』 (youtube.com)

 

ヴィム・ヴェンダース - Wikipedia

 

個人的に彼ヴェンダース氏には知性が有り所謂「意識が高い」映画を撮られる映画監督さんなのだと思う。

尤も其の作品を観て居るのでは無いのだけれど。

 

さて知性と云うものが何を見詰めるかと云うに其れは概ね価値ヒエラルキーの上部構造には背を向けむしろ社會の下部での現象を其れも悲惨で且つ救い難き生活の様をこそ見詰めて行くものなのだ。

尚ユーチューブの方では『パーフェクト・デイズ』と云う此の壱種のカルトな映画の価値が分からぬ人人が居て其れを「危険」だとか「弱者」を持ち上げるおかしな映画に過ぎないなどと云う否定的な評価が散見されるのですが其れらの意見は当たって居ないのだと思う。

 

此の映画はそんな独逸の精神性に於ける意識の高さと所謂「禅」などの東洋の智慧、また🗾の智慧が融合するところでの壱つの宗教映画として理解すべきものなのやもしれぬ。

要するに最初からすでに価値ヒエラルキーの上部構造に對し背が向けられて居り見詰めて居るのは壱清掃員としての平山の日常であり其の日常が具現化するところでの實存的価値であり宗教性の部分である。

 

逆に価値ヒエラルキーの上部構造に對し阿るのであれば「天皇家の壱日」だとかかのトランプ氏みたいな大富豪ー社會の成功者ーの酒池肉林の様を撮れば良いのであらうがそんなものを撮ったにせよ其れでは「藝術」だとはまるで言えぬ。

藝術とはむしろ逆方向ー負の領域ーからの「眞理」への働きかけのことなのだ。

 

よって「藝術」家や「藝術」作品が「大金持ちでもってずっと安泰」などであっては決してならない。

「藝術」家や「藝術」作品とはむしろ努めて社會の低辺部分をまさぐらねばならずさらに言えばあえて汚い領域やヤバい領域にこそ首を突っ込みまさに其のことを表現の場を通じ転換して行かねばなるまい。

 

まずはさうして「藝術」とは「正のヒエラルキー」により駆動されるものでは無くあくまで「負としての価値」の部分にあえてスポットライトを当てて営まれるであらう逆向きの価値世界としての所産である。

其の意味ではヴェンダーズ監督による作品こそがまさに其の「藝術作品」として世に立つものとなるのである。

 

まずは左様に藝術とは何か?と云うことが多くの人人にはまるで分かって居ない。

だから単なる「社会的弱者の負け犬根性を描く作品」にもまた見えて仕舞う訳です。

 

だが其れは君に「藝術の何たるか」と云うことがまるで理解されぬことより生ずる曲解であり誤解である。

左様に世の中の其れも大半の人人が「藝術」のことを正しくは理解など出來ないものなのだ。

 

「藝術」とは概ね左様にまさに屈折することだらう「負としての乗り物」なのだ。

逆に「正としての乗り物」を表し描くのだとすれば其れは「藝術」では無く単なる娯楽作品でありつまりは🎡のやうなものなのだからして。