目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

宗教は人間を自己規定する


わたくしの云う自己規定とは人間存在が自らの欲望を抑えると云う其の理性的行為に必然性を与えるという意味での規定なのです。


今現代人は諸の欲の追求、成就に対し抑制即ち歯止めが効かなくなりつつある。

そして善悪の基準を自分で創り上げつつあります。


たとへば、家庭を持ちちゃんと働いて居ればつまり社会的に認められた健全な生活を営む分には其処に何の問題も無い、と考えがちである。


然し其処には大きな落とし穴がある。

第一此の文明はヤバい、謂わば根が犯罪的な文明ですので人間は其処にただ生きて居るだけでも犯罪者である。

おまけに皆が車に乗りタップリ自然破壊に加担していようが、そんなことは君等常識的現代人にはとんと分からぬことである。

おまけに家庭を持つと女の悪の部分に否がおうにも影響を受けカネ、利己主義、莫迦などの悪趣に染まり易くもなろう。



さらに欲望を正当化するやうになる。
曰く子供が大學へ行くので百万を稼がねばならない。

だから人を押しのけてでも百万を稼ぐ。

それは当たり前のことだ。

確かにそりゃあ当たり前のことだ。



だが我は違う。

むしろそうした当たり前のふしだらさには背を向けて歩んで来て居る。

だから元々詩人でもやるしかない人間なのである。

それも自称の詩人をでも。



第一君等にとってはSEXも当たり前だ。

だが、SEXは悪い。


それどころか此の世自体が悪い。

車に乗ることも悪い。

百貨店で資本主義を満喫して居ることなども悪い。


それに台所でゴキブリなど殺してはならない。

もう肉を食うな。

息もするな。


そう薬ばかり飲むな。

兎に角長生きなどしてはならない。



理想としてはなるべく早く死ね。

もう死んで仕舞え。

文明がこんな体たらくでは死んで仕舞った方がまだしもマシだ。




さうして善悪の基準を自ら築き上げし近代文明世界は限りなくふしだらになりもう自分が何をしているのか、今何をしつつ、そしてどんな未来を迎えようとしているのかということすら何も分からない。

過度の欲望といふ悪、其の悪の追求にかまけて一体何がいけないのかといふことすらまるで分からない。


だから、悪とは、畢竟さういふことである。

悪とは、本来悪ではないのである。


第一女の子宮の力、コレこそは悪の力である。

元々は悪ではないのにコレが須らく発揮されれば悪そのものとなる。


対して男の生殖力は、本来これは大した力では無い。

でも結果的には悪に加担し此の世をウザい人間共で一杯にして仕舞うのである。



其の生命の悪の力を、まず宗教は否定する。

一流の宗教と云うか本物の宗教のみが是を否定してかかる。

即ち釈迦とキリストはとりあえずそう否定した。



ただし、キリストが否定したのは神の意志に逆らう悪魔としての属性を掲げ持つ現世である。

だから此の世は一度滅び、しかるのちに選別された魂が神の王国で永遠に生きると云う訳である。


其の永遠に生きるというのはそもおかしいのではあるが、とりあえずはそういう訳で文明として普通に生きていることをキリスト教も否定して居る。


対して仏教の否定は其れ以上であり、即ち生半可なものではなく釈迦は此の世を全否定してアチラの世界へ行って仕舞ったのである。

其れも独りだけで。


ただし、正確には全否定ではなく中道による価値観の総転換乃至は価値観の放棄により結果的に存在の消滅即ち解脱を成し遂げるのである。

だが我我にはあくまで全否定であるかのやうに見える。

要するに妻も子も、マイホームも会社も何もかも、其の真理の場には価値など置かれないのであるから俗人つまりは一般人とはまるで正反対の考え方だ。



さらに文明の価値などもゼロ、シンポなどといふ価値は其れ以上にマイナス、それに自然が素晴らしい、良いと言ったって、そんなものは餓鬼畜生道の世界のことなので釈迦の頭の中では常に無価値、では何が価値かと云えば仏性といふものだけに価値がある。そういう意味では餓鬼畜生の自然界も無価値とは言えないのだが、要するに人間になりつまりはより莫迦にならないと仏の世界へは入れない。


尤もそうした意味では人間であること自体には価値がある。

ただ、其れが弱肉強食で自己矛盾に充ちた文明状態では無価値であることにしかならない。



キリスト教でも人間であること自体には価値があるし自然界はまさに神の造作、神により創造されたものなので大いに価値がある。

ただ、悪魔の誘惑に唆され欲望にまみれた状態にある自然界や人間界は基本的に無価値である。

其の悪魔からの呪縛を解き、神と繋がる信仰を持った時初めて人間の価値は認められるのである。



然し釈迦の考えはもっともっと凄いもので、其の佛性の目的とは此の世からの脱出即ち解脱なのである。

だから佛性に価値があるといふことは此の世から離れることにだけ最終的には価値があるといふことなのだ。



其れも、自殺して此の世から消えるだけではダメだ。

謂わば心的領域で死なないとダメなの。



そんな訳で仏陀もキリストも実は可成に過激、いや、究極的に彼等は過激そのものである。


対して他の諸の宗教はあくまで現世利益的な価値観でもって営まれて居るものでありそうした宗教は実は其の宗教自体が無価値である。


なので過激な宗教、つまるところは釈迦とキリストの考えはもうまるで普通ではなくほとんどキチ○×宗教である。

だから其の位の考えだからこそ共にわたくしは本物だとそう見て居るのである。



で、わたくしが何を云いたいのかと申しますと、現代人はそんな独りよがりで欲にまみれた状態で自己規定など出来る筈など無い。


とそう申したいので御座います。

要するに馬鹿の癖に進歩だ、とか、自由だ、とか、人権だ、とかそんな風に勝手に法制化してむしろ自分たちのやりたい放題をやって来て居るが本当にそんなので良いのか。


そうではなく実定法以前の段階で問われて来て居る罪、さらにシンポだの進化だの、そんな客観的真理であること以前に問われて居る限定性、さうした原罪としての意識と限定性の部分を本当はまず何よりも一番に、むしろ第一義的に規定して文明を存続させて来るべきであった。



ところが現実には其の一番大事な部分を反古にして文明は進んで来た。

なので必然的に近代以降の自己規定は身勝手かつ独りよがりのもの、即ち人間中心の文明、所謂人間中心主義に陥らざるを得なくなった。



それでもってバカなカカアがサア、はよう金を稼いで来い、ほれここにこんな腹を空かせた子等がぴいちくぱーちく鳴いて居るのだぞよ。


早う、もう一刻も早う百萬を稼いで来い。

さういふ極めて本能的なーつまりは餓鬼、畜生のー子宮力に培われし文明は、そして人様が車に乗るので我も乗り地球を汚染するといふ其の考えない文明は、至極当たり前の行為により、其の社会的に認められし人権の行使や自由、其れも近代的な自我としての自由といった、何やら抽象的でかつつひ有難く思えて仕舞うやうなそうした虚の観念により、或はマイホーム主義の価値観の普遍化により地球を破壊するに至るのである。




だが宗教は元々そんなことは考えて居ない。

もうお前等俗人が豊かになろうが貧乏で死のうがそんなことにはまるで無関心である。


でも大事なことがあり、其れが其れこそが神が在り仏が在ると云うことである。

だから其れ自体がひとつの大きな価値観なのだ。

揺るぎない価値観なのだ。



ところが大衆は逆に揺るがせられ得る価値観の方をこそ信奉し生きていくものだ。

時代の変化、より具体的には経済状況の変化、環境の変化、社会の存続の成否などによりそんなものは幾らでも大きく変わり得るというのに。



そして自己構築して居るのである。

社会は、そして文明は正しいとそう洗脳され、あまっさえ家庭といふ利己主義の温床にさも大きな価値があるやうにそう勝手に決め込んで居る。

会社は正しいのだと、今俺のして居る仕事は世界を救う仕事なんだとさう信じ込んで居るだけだ。



だからそんなものは理性的行為ではなくただ善悪の基準を自己化しているだけのことなのだ。

理性とは、与えられるものを客観視し得る能力のこと。

其れを須らく自己の枠内で行って仕舞って居る。


文明及び現代人は。

なので其れは理性的行為ではなくタダの獣の行為、所謂餓鬼畜生としての反理性的な行いなのだ。




だが理性的な行いは、宗教の中にはある。

其れも仏教とキリスト教の、即ち釈迦とイエスの頭の中にこそ其れは存して居た。



従って、其の実定法以前の段階で問われて来て居る罪或は客観的真理であること以前に問われて居る限定性などといふ人間にとっての大前提での規定の部分は仏教及びキリスト教こそがしかと担っていかねばならぬ。


なので母ちゃん、科学技術、資本主義、近代主義、などに於ける規定は人間にとっての真の意味での自己規定とはならない。

そうなるべく筈もない。


母ちゃんも科学技術も資本主義も近代主義も皆大馬鹿なので其処には本質として人間を規定するやうな立派なものは何ひとつ無い。


宗教のみ、ただひとつ宗教のみが此の規定を為し得る精神の領域である。

其の代わりに、実はどちらも可成にマニアックな思想である。



キリスト教→今の世が滅んだ後に神に選ばれし人間のみが救世主と共に永遠に生きる

仏教→女には指一本触れずさらに花の香りさえ嗅ぐことなくまたマニアになることなどは一切否定し要するに此の世の全てを嫌いになり最終的には此の世から消え去るつまりは解脱する



此の生と反生という違いは生じるが最終的に現世を徹底的に否定するといふ意味で両者は同じ立場だ。

なのでつまりは共に究極の悲観論なのである。

其れも究極の悲観にして、究極の楽観。

まさにこれぞ究極の悲観は究極の楽観に通ずるといふことの意味だろう。