「神の存在証明」・・・のまとめ
「カントによれば、道徳法則に従うことが善である。道徳法則に従った行為をなしうる有徳な人間は最上の善をもつ。しかし、有徳であるだけでは善は完全でなく、善がより完全であるには有徳さに比例して幸福が配分されねばならない。徳とそれに伴う幸福との両立が完全な善としての最高善である。しかし、まずもって不完全である人間が最高善を実現するためには無限な時間が必要である。永遠に道徳性を開発せねばならないことから、魂の不死が要請される。また、この徳と幸福の比例関係は神によって保証されねばならない。そのため神の存在は道徳的実践的見地から要請されねばならない」
ところで果たして神仏は存在するのかまたは存在しないのか?
無論のことわたくしは其れが存在すると考えるのである。
あくまでそう考えるのである。
物理的に存在するということでは無論のことない。
其れはまた論理的に突き詰めて証明し得るやうなことでもない。
そう捉える限りは、其れは所謂形而上學上のテーゼであるに過ぎない。
そうではなく、人間が明らかに限定されし存在だから、其の限定性の対極としての神仏が存在する以外の結論を下し得ないのである。
実在するということは、まさにさうした必要不可欠な需要に応じたところでの空疎な非実在性即ち現象といふ本質として空疎かつ虚である認識に対する二元的テーゼの極そのものである。
だからそんな現象が一方に在る限りは、無いといふ実在性が其処に否応なく成立して居なければならない。
我々が理性を振りかざし認識する此の現象世界は謂わば虚としての存在である。
存在とは、そのやうに本質として虚である何ものかのことだ。
いや、本質として虚である主観のことだ。
ただし自然は、見せかけの理性、名ばかりの理性を持ち合わせて居ない分だけまだしも少しは利口である。
其れで自然は、其処でほとんど何も考えない。
考える必要がそも無い。
だが幸か不幸か、我我人間は考える葦なので神仏が居るかどうかといふことをつひ考えて仕舞う。
でも其れは考えることではないのである。
アナタ方にとり女がどうしても必要であるやうに、或は水と食料がどうしても必要であるやうに、或は夜空の星々と昼間を照らすお日様がどうしてもどうしても必要であるやうにそうした類での必要不可欠なものとして神仏は是非其の辺に転がって居る必要があるのである。
其れで、神仏は、まず其れが時間ではないから経験が生じない。
それから大きさが無い。
さらにバカでもなく利口でもない。
即ち我我現象にとってはそう捉えざるを得ない存在である。
其れに実は普遍でもなく特殊でもない。
男であり女でありかつまた男ではなく女でもなくかつオカマなのでもない。
論理であり理性でありかつまた論理そのものではなくしかも理性そのものなのでもなくしかしながら論理そのものであり理性そのものなのである。
要するに何とでも言い得る。
其れは論理や理性を超えた存在である。
ゆえに実在である。
実在は不可視ー不可知ーであるところでの無瑕疵である。
無瑕疵といふことは、言ってみればまあ、まるでアスペルガーのやうに清い心を持ち或はもの言わぬ小鳥達、または静けさに充ちた植物の方々のやうに罪無きものである。
また女になど触る必要もない為、其の手は常に清浄であり従って其の手をあえて洗う必要などはない。
要するに完全かつ十全であり、全てが其処に完結して居る。
たとへば闇と光、清と不浄、聖と俗、莫迦と利口、金持ちと貧乏、筆記具マニアと非筆記具マニアなどに分かれる必要がないので至極楽である。
所謂至福な様。
対して我我はもうゴチャゴチャに、又は滅茶苦茶に分かたれて居り、其れも男と女の違いばかりか、大食いと小食、詩と小説、愛と破壊、誠実と不実、東洋の御飯と西洋のパン食、といふやうに余りにも分かたれ錯綜し其の様や実に不純である。
不純、其の大いなる瑕疵、バカでアホでマヌケな様、其のドロドロの、泥の中を這いずり回るかの如きドロドロの、其の臭さ、いや汚さ。
其れが其れこそが我我のほんたうの姿なのである。
第一お日様がこんなに照って居るといふのに、其れでもなを私共の目は盲目で、そればかりか腐ったやうな欲ばかりに憑りつかれて、嗚呼、こんな欲何故こんな欲にかしづき今を生きるのだろう。
なので其れはまさに不完全な、ましてや清浄も何もなくスッカリ汚れ切り悪の権化と化した永久の罪人である。
或は煩悩人間である。
其の哀れな煩悩人間達。
実在とはそのやうな穢れを離れし無の存在である。
いや存在ではないのである。
存在して居てはいけないのだ。
本質的に存在しないから、むしろ極めて堅固に存在するのである。
尚存在とは通常現象のことを指す。
現象は仮の姿にしかならず其れをのみ我我人間は認識して居るばかりだ。
即ち存在とは現象である。
だが現象し得ない何らかのものがある。
かのカントが物自体と述べたもののやうに其れは在る。
たとへば無と有。
是等でさえ二辺に分かたれて居る。
無いことと有ること、即ち存在することと存在しないこと、此の区別でさえもが二元的対立の内側での出来事だ。
然し物自体は分かたれない。
従って物自体を理性的認識で規定することは出来ない。
「あるものが可能であることは、そのものの概念に自己矛盾が含まれていないことだけでは証明できず、そのものの概念に対応する直感によって、(存在が)裏付けられる」
「叡智的存在(ヌーメノン)という概念は、感覚の対象として考えてはならず、純粋な知性によって考えられるだけの物自体についての概念であり、この概念には自己矛盾は含まれていない・・・さらにこの概念は、感性的な直感を物自体にまで拡張しないようにするために、そして感性的な認識の客観的な妥当性に制約を加えるために、必要なものである。わたしたちの感性的な直感が到達しえないもの、すなわち物自体を叡智的存在と名付けたのは、感性的な直感は、知性の思考するすべてのものを超えたところまでその領域を拡張することはできないことを示すためだったからである」
「知性は感性によって制約されるのではなく、物自体を(現象とみなすのではなく)、<叡智的な存在>と名付けることによって、むしろ感性を制約するのである」
つまるところ叡智的存在とは感覚的には捉えられず、尚且つ理性的認識で規定すること自体も可能ではない。
超越論的な意識若しくは批判でもって初めて其の輪郭が顕わにされるものなのである。