かのマハトマ・ガンディーはかって文明をして文明そのものを超えていくべきものであるとそう規定して居ります。
近代つまり最も顕著に現れし文明の要素即ち人間による人間自身の搾取の過程は到底善なる行為などではなく是非乗り越えていくべきものであるとそう考えて居たのです。
ならば文明自体が乗り越えるべく運命付けられし人間の低級な本性でありかつまた地の部分である。
其の地のままに歩むことであろう人間には最終的に破滅のみが待つ。
従って其の破局、未来の破壊の流れを止める為には自己規定のみが効力を発揮する。
宗教は其の自己規定を最大限に求めていく精神領域のことですので必然的に近代という欲望の解放の運動に関してはまさに其れこそが薬でありまた歯止めとして機能するものです。
また問題は近代の欲望は増長し易い性質のものであるということである。
しかも其れは、たとえ左派思想であってもそうなるのである。
つまるところ左派が潔癖だとは言っても其れは問題の本質面に対し潔癖なのではない。
左様に精神の潔癖さとは唯物主義によるものではなく要するに釈迦やキリストに於ける段階での精神の潔癖さこそが大事です。
そうした本質に於ける精神の制御、欲望の鎮静化を説いたのがマハトマ・ガンディーという一人の聖人様でした。
たとへばガンディーは文明即ち人間の心の求め=欲望につきほぼ完全に理解して居た人です。
「文明とは、人間が自分の義務を果たす行動様式です。義務を果たすことは道徳を守ることです。道徳を守ることは、私達の心と感覚器官を統御することです。このようにして、私達は私達自身を認識するのです。」ー「真の独立への道」よりー
つまるところ此処では文明とはむしろ道徳律だと云って居るのです。
其れはむしろ規制である、規定であるとそう述べるのです。
何故そうなるのかと言えば、自己矛盾化する人間の営為はそのままでは破滅の方向を向かざるを得ないからです。
然し人間には理性がある。
ところが其の理性は近代的自我の段階に至ると常に原始退行を引き起こし、つまりは本能化して名ばかりの理性となり果てて仕舞います。
すると近代に於ける人間=文明の営為はすべからく本能領域で行われるもの、即ち餓鬼畜生道=自然界の営為と寸分違わぬものともなり得るのです。
だから以前からわたくしは文明とは今まさに餓鬼畜生道の様を呈して居るとそう述べて来て居るのです。
なのでそういうのは真の意味での理性的抑制、統御の段階とは程遠いものである。
ここからしてもガンディーの考えはズバリわたくしの考え方に近いものです。
或はカントの考え方などにも近いものだと申せましょう。
文明というものは、或は人間というものは本来ならば自己規定を第一義に据えるべく進んでいかなければならないものだ。
またそういうのは宗教、特に印度の宗教や初期のキリスト教の目指すところでもあった訳です。
ガンディーはさらに罪の自覚に就いても述べて居る。
其れも「存在すること自体の罪」につき屡触れて居る。
罪とは何かと云えば其れは原罪ということでしょう。
謂わば実定法以前の段階の罪だということでしょう。
こういうのは文明以前の段階に遡及される精神領域なので、それこそ宗教の段階でないと自覚されないことです。
ですが文明の問題は須らく此の部分にこそ収斂されていくのです。
即ち生きることが罪だということ、我我は罪そのものである現在を成り立たせて居るということ、其のことを自覚し得る人こそが人間を初めて超越した存在となり得る。
そうした意味でまさしく宗教にはそうした罪そのものを自覚する精神への道が拓かれて居る。
ところが近代は其の罪を結果的に消滅させて仕舞いました。
罪どころか、人間は自由な存在であり其処では神無き世界を構築するに足る万能の存在なのですからこれはもうほとんど神に等しいものである。
だから人間は自分の力で何でも出来る。
事実今何でもスピード化しドンドン良くなってー莫迦人間にとってはー来て居る。
しかも男女は平等なので女にだって何だって出来る。
ゆえに仕事を持つ女性は家庭になど縛り付けられる必要はない。
だから四十を過ぎても金を稼ぎ遊び回ることで育児や旦那の世話などは放棄して仕舞え!
SEXはただの快楽の道具だから旦那など要らずイケメンのホストに数千万単位で貢いで仕舞え!
そうした悪い風潮が世を覆い世界は確実に腐り切って行く。
第一自然界が、お前たちはもう本当に特等の莫迦だから反省し今すぐに温暖化を止めるべく生活を改めなさい。
とそう諭して居るというのにつひバカになり切った我我はまるで聞く耳を持たない。
其れは何故かと言うと其の通りに我我が莫迦だからである。
第一アホみたいに毎日働きおまけに大酒を飲みギャンブルに狂い女遊びを繰り返すお前らはもう本当に救われないバカである。
そういう馬鹿に対して何かを言わなければならない此の詩人の心痛をば是非察して呉れ給え。
其の実定法以前の段階の罪を自覚すると、人間は常に謙虚で居られます。
また欲望を抑えられるようになって来ます。
生存欲とか自己保存欲とか、そういうのが減って来るのでむしろ死人に近くなり生きて居るのがやっとです。
そういう風の方が良いと古来様々な宗教や聖人様が述べられて来て居るのです。
生まれつきわたくしもそういう感じの人間なのですが惜しいことに物欲の方は全開です。
然しなるべく女には触らないように生きて居ります。
其れでもう18年間女に触って居りません。
尤も其の分バカ文明を馬鹿として糾弾することに血道を上げて来たのではありますが。
さらにガンディーは超越的なもの、即ち神の存在についても言及して居ます。
さて、では何故神(または佛)は存在するのでしょうか?
事実として存在するべく規定されたものであるゆえ存在して居るとわたくしは考えます。
其処を分解して言えば、我我自身が不完全であるゆえに神仏は事実として規定されざるを得ないということです。
いつも述べて居るように我々が限定であるゆえに普遍の存在が生じざるを得ないということです。
限定であるということは、即罪を生ずることである。
あらゆる分解、分離が、そのやうに罪を生ずる。
生とは其のやうな不完全を履行するべく設けられた迷いの過程である。
或は錯誤であり瑕疵であるところの迷いの境涯である。
まずはそこのところを是非皆様にご理解頂きたい。
そういう迷いに対しては、迷わないという対偶の世界が用意されざるを得ない。
限定=迷いなので対する普遍=悟りの世界があり此処から見ればあくまでそう見えますがあちらでは何も分解されて居ないので我我の存在すら知覚し得ないことだろう。
つまり知覚すら無い。
無いということがこれ即ち完全である。
なので無いということだけが良い。
それも完全に無いということでなくてはならぬ。
だから思想レヴェルでは我我がこうして創り上げて来て居るイケイケ文明は須らく莫迦文明だということにならざるを得ない。
須らくが逆をやって来て居るので、結局は地獄へ堕ちるほかない文明であり人間である。
ただしそういうのを精神の先達から、其の聖人様達の御言葉の中から真理と真理に関する行動を発見し汲み取っていくことは出来る。
さてわたくしは時間も無い中今回少しだけガンディーの思想を調べてみて正直驚きました。
其れはわたくし自身の考えと近しいものであったからです。
ですがわたくし自身はガンディーの如くに聖人などではありません。
わたくしはタダの自称詩人なのであり、でも其処で常に精神の貴族たらんと欲して居る者でもある。
ただ行動は伴いません。
ガンディーの如くに戒律を守る訳でもなく「塩の行進」をして印度の独立を後押しして来た訳でもない。
むしろあらゆる欲望の誘惑に対して弱いのだが、それでも生存欲や自己保存欲に対しては元々欠ける。
其処が弱いので、何だかいつも植物にでも生まれ直したいとさえ思って居る。
この感覚はなかなか理解されないことだろうと思われますが、要するに人間界はウザいことこの上ないのでもう最初から金輪際御免である。
そういうのがもう生得的にあるわたくしなので、聖人方向の思考もスンナリと受け容れられる、いや、そうしたものも全て分かっては居る。
でも行動は伴わない。
其の聖人思考を万年筆やら銘木ペンやらでノートなどに書き込んで居る時だけが人間としてのわたくしの最高の時間としての費やし方だ。
然し同時にガンディーの思想にも限界があるのではないかとそう感じました。
左派思想に限界があるということと同じくしてより根本的で近代を超克し得るとも見えるガンディーの宗教思想にも矢張り限界がある。
ですがほぼ理想に近いものなのではないだろうか。
カントの思想も現代社会にとっては理想たり得るものだと思われますが、東洋起源の思想としては矢張りガンディーの宗教思想こそが嚆矢である。
またガンディーは徹底して近代主義を批判して居りました。
左派思想の限界とは其の近代主義に縛られて身動きが出来ない、つまりは矛盾回避の為の矛盾に苛まれ結局諸の破壊を此の世に齎して仕舞うことである。
ですがガンディーの思想が反近代かと云えばそうではなくまさしく近代の超克としての印度を未来に見据えて居たことでしょう。
ガンディーの宗教思想の限界は人間への慈悲、即ち慈愛に充ちる余りに印度の近代化自体を抑制し切れなかった部分にこそある。
ただ印度は結果として近代化されていきつつありますが、自立した思想としての古来より連綿として続く宗教観や哲學を失なって居る訳ではない。
そういうのは印度から万年筆など買いますとまさに実感として察知出来る部分でもあります。
むしろ危ないのは日本の方で、近代化により日本人の精神性が甚だしく歪んだものとなりつつあることはもはや明白です。
確かに近代化により植民地化されて居た印度に於ける精神の重しー負担ーは大きなものであった筈です。
そうした不条理な負荷に対し暴力で抗せず精神の力で解決を図ったガンディーの思想は今後もずっと輝き続けていくことでしょう。
言うまでも無く暴力に対しては非暴力でもってして、或は右の頬を叩かれたら左の頬をさしだすのが真の宗教家であり聖人の行いといふものです。
またガンディーは近代の拡張主義やスピード化に対し異を唱えて居ます。
拡大、拡張ではなく持続こそが大事だということを述べて居ます。
近代の速い展開はむしろ否定的に捉えられて居るのです。
其処ではむしろよいものほどカタツムリのやうにゆっくり進む、との仰せです。
この点でもわたくしは全く同感です。
大きくなることは良い事ではなく愚かなことです。
何でもスピード化することも同様に愚かなことです。
然し「分かった」人が何を言っても結局近代は妥協することが出来ない。
何故なら近代とは理性による思考を放棄して進む自滅行為にほかならないからです。
尚其の構造は如何に潔癖な左派思想であれ逃れられないということです。
つまりは左派思想も自滅に向かう方向性自体は変えられないということなのです。
だから其処が左派思想の限界であるということです。
だからこそ「新しい世界」を創ろうとする左派理論は初めから破綻して居るのです。
真の意味での「新しい世界」とは、つまりは近代を超克する世界の構造は、宗教的自我の確立に基づく欲望制止型の社会、または理性に基づく自己規定型の世界でなくてはならない。
自己規定というのは、人間が自らを規定し得る心的領域を確保することなくば其れは成らない。
つまり人間は自分で自分の欲にそのままでは歯止めがかけられない。
なので其処に必然としての宗教、哲學の世界が成立するのです。
またそういうのが真の意味での精神の世界なのです。
精神の世界とは、進歩に必要な技術を獲得する為に考えたり結果を出す為にあるのではない。
真の意味での精神の世界とは人間が自らの為に自らを規定すべく努力を重ねることの為だけに存在するのである。
「新しい世界」とはそうした自己規定、自己抑制が成った世界のことを指しそう呼ばれてしかるべきものでしょう。
其の種の自己規定を示した先達としてのガンディーの思想は近代化の未来にも常に輝き続けていくことでしょう。