「ガンディーは、西欧式の教育を、知識偏重であり、倫理や道徳に基礎を置いていないとの理由で真向から否定した。
後述の『ヒンドゥー・スワラージ』によれば、ガンディーは、教育を受けていないインドの普通の農民は、両親や妻や子供たちや村の仲間たちをどう遇すればよいかをかなりわきまえている等道徳の規律をよく理解しており、このような農民たちにとって知識偏重の教育など不要であるとまで主張する。
もちろんこれは極論であり、実際は、ガンディーは教育の効用は認めている。ガンディーは次のような教育を与えるべきであるとする。(15)
第一は、書を通じての学習に偏らず、手作業等の肉体労働も取り入れた人間の全面的な能力の開花を目指す教育である。ガンディーは以下のように述べている。
知性は読書を通じてのみ伸ばすことができるという完全に誤った考えを捨てて、職人の仕事を科学的な正しい方法で学ぶのが知性を一番迅速に伸ばす近道であるという事実を採り入れるべきである。なぜ、ある特定の手さばきや道具の操作が必要であるかを、見習い生が一つずつ教わる時、それと同時に、知性の本当の発達が始まるのである。学生の就職難も、学生が一般労働者の中に身を投ずるならば、わけなく解消できよう。(16)
第二は、特定の宗教に基づいた教育ではなく、普遍的な倫理観を授けるような教育である。(17)人は往々にして自分の理解できないことは誤りであると認める傾向があり、同様に宗教に関しても自分の宗教が最善のものであると考えがちであるが、実は、様々な宗教は、真理への到達の道筋が異なるのみで、基本的価値は皆同じであるとガンディーは主張した。」
読者:あなたが(近代)文明について思うところを教えてほしい。
編集者:「(近代)文明」という言葉で表現されている状態がどのようなものであるのかを考えてみよう。(近代)文明の中に生きている人は、肉体的な幸福を、人生の目的にしている。幾つかの例を挙げてみよう。ヨーロッパの人々は、今日、百年前より、はるかに立派に建てられた家に住んでいる。このことは、文明の象徴であるとみなされており、また、肉体的な幸福を増進させることでもある。昔は、彼らは、獣の皮を着て、槍を武器として使っていたが、今日では、長いズボンをはき、体を飾るために、様々な服を着て、連発ピストルを持ち歩いている。もし、それまでたくさんの服や靴を着用する習慣がなかったある国の人々が、ヨーロッパ風の服を着る習慣を身に付けるようになると、彼らは、未開状態から脱して文明化したということになっている。……昔は、戦いたい時には、肉体と肉体をぶつけたものであるが、今日では、丘の上で銃を扱う一人の人間が、何千という命を奪うことが可能である。これが(近代)文明である。……この(近代)文明は道徳や宗教のことは気にも留めない。(近代)文明の信奉者たちは、自分たちの仕事は宗教を説くことではないと平然と言う。(21)
そして、イギリスのもたらした近代文明をインドが受け入れたために、インドはイギリスに支配されることになったのであるとしている。次の文章には、インド人が自らの欲望のためにイギリス人をインドに招いてしまったことが記されている。
読者:なぜ、イギリスは、インドを奪うことができたのか、そして今なお、保持することができているのか?
編集者:……イギリス人がインドを奪ったのではない、私たちが、イギリス人にインドを与えたのである。……誰が東インド会社の役人たちを手助けしたのか?誰がイギリス人のもたらす銀に誘惑されたのか?歴史を見れば、私たちがそうしたことすべてをしてきたことは明らかである。……すぐにでもお金持ちになろうとして、私たちは、東インド会社の役人たちを諸手を挙げて歓迎したのである。……お金がイギリス人の神様である。そうすると、私たちが、私たちの卑しい私欲のために、イギリス人をインドに引き留めているということになる。(22)
そして、次のように、近代文明はよしとしたままで、イギリス人による統治がインド人による統治に変わるだけの独立であるならば、独立にはあまり意味がないとしている。
読者:私たちは、イギリス人と同じ武力を持つ時に自治を獲得できるのである。そうして初めて私たち自身の旗を掲げることができるのである。(筆者注:日露戦争で勝利した)日本のように、インドもならなければならない。私たちは、私たちの海軍・陸軍を持ち、栄光につつまれなければならない。
編集者:あなたの考えは、詰まる所、インドにイギリス人抜きのイギリス的な支配をもたらしたいということになる。あなたは、虎は欲しないが、虎の性格を欲している。つまり、インドをイギリス風にしたいということである。インドがイギリスのようになるならば、インドは、「ヒンドゥースターン(筆者注:インド人の国)」ではなく、「イングリッスターン(筆者注:イギリス人の国)」と呼ばれるであろう。これは、私が望むスワラージではない。(23)
さて、本書でガンディーは、近代文明の産物としての議会、弁護士、鉄道、(近代的医療に携わる)医者、(近代的)教育、機械製の織物等を具体的に批判する。例えば、議会では、議員は国民のために奉仕することを忘れて、自分たちの利益追求のために動いているし、首相は自党の勝利を確保することに集中し、議会が正常に機能することに関心を払わない。一方、議員を選ぶ選挙民は教育を受けているものと考えられており、従って彼らの選択には誤りがないということになっているが、実際はそうではないとしている。(24)弁護士は、紛争を鎮めるどころか、紛争をややこしくするものであり、またそうすることにより利益を上げている。人々が自分たちの間で問題を解決できれば、第三者である弁護士の出番はなかったし、裁判所が設けられることもなかったのであるとしている。(25)鉄道は、飢饉の頻度を増やした。なぜなら、運搬の手段があるために、農民は一番高い値がつく市場に穀物を売り払ってしまい、いざという時のための備えをおろそかにするからであるとしている。(26)(近代的医療に携わる)医者は、悪徳をはびこらせた。人々は、医者がいなければ、強い意志の力で自分の体が変調をきたさないように予防に努めるのに、医者がいると、病気になっても、医者にかかればよいとの安易な考えに陥りがちになり、自分の精神に対するコントロールを失ってしまうとしている。(27)(近代的)教育は、文字の習得を第一義にしている点が問題である。文字の習得自体が悪いわけではないが、道徳や倫理に基づかない単なる文字の習得は、あることをするための手段としてしばしば悪用されてきたとしている。(28)機械製の織物は、その生産のために、ボンベイの紡績工場の労働者たちが、奴隷になりさがっている状況や、工場で働く女性の劣悪な状況が産み出されたとしている。
では、そのように述べた上で、ガンディーは、「近代文明」に対して、「真の文明」をどのように考えているのであろうか。(29)
ガンディーは、真の文明とは、人間に義務の道を指し示す行動様式であるとする。そして、義務の遂行とは道徳の遵守と同じことであり、道徳の遵守とは、我々の精神と情欲の上に支配力を確保することであるとする。ガンディーによれば、幸福とは、主として精神の状態である。人間は金持ちだからといって必ずしも幸福ではなく、貧乏だからといって必ずしも不幸ではない。物は得れば得る程ますます欲しくなり、情欲には耽れば耽る程ますますのめり込むようになる。従って、我々が自分自身を支配することが肝要であり、それを学ぶ時、スワラージが訪れるとしたのである。(30)
ガンディーの近代文明批判の特徴は、人間が精神と情欲を支配できなくなったために近代文明が生まれたものであるとしていることに表れているように、人間の内面を問題にしていることである。逆に、人間が精神と情欲を支配できるように自分自身の内面を変革することによって、真の文明が訪れるとし、そのような内面変革とそれに密接に結び付いた社会の改革をガンディーは目指した。そして、そのような真の文明をもたらすことによって、イギリスのインド支配は自然と終わるものであると、またそのような形での独立こそが我々の望むものであるとした。」