目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

マックス・ヴェーバーもまた偉い



世紀末から前世紀初頭にかけ活躍した独逸の社会学マックス・ヴェーバーもまたかって其の高潔な精神性を発揮した学者の一人でした。


特に近代の本質を合理化の過程として捉える辺りはわたくしの考えに近いと申しますかほとんど同じ考えである。

ただしわたくしはマックス・ヴェーバーの著作を読んで居ないので本当に全く同じなのかどうかはまだ分からない。

どだいわたくしは基本が文學の方の人間ですので本当は社会になど興味は無い。



もう本当は社会などどうなっても構わぬ。

本当の本当は人類など滅亡しようがどうしようが知ったことではない。

わたくしはただ今此の時空を、此の罪深い檻の中の現在ー原罪ーを生きざるを得ない者であるゆえ其の贖罪の為に勉学を重ね世に対しもの申して居るのである。



なので本当はもっともっと遊んで居たい。

なんとなれば、人として生まれた限りはまさに、

戯れせんとや生れけん

だからなのだ。



でも本当の本当は自身が遊ぶのを止め釈迦乃至はキリスト級に或はゲバラやガンディー並に高潔な精神性を獲得できるか否かにかかっておる。

されど諸の誘惑には抗し難い。

此の美しき世界の、いや腐った世界の誘惑には抗し難い。



第一花、或は新緑の緑、是等の美しさは今まさに格別である。

また女の美しさも格別である。

女は本質として腐っては居るがとりあえずは美しい。

感覚にとっては、という限定の意味のみに於いて。



マックス・ヴェーバーが合理化という現象を近代の特質、本質として規定した以上彼の思想が楽観論ではないということが必然的に導き出される。

事実ヴェーバーは晩年宗教の研究の方へ向かったようだ。

宗教は何を規定し得るかと言えば勿論其れは人間自身を規定するのである。


ということは宗教が壊れていけば必然として其の規定自体が破壊されていく。

なので今は人間が人間自身を規定し得ない時代へと突入したのである。



其のひとつの破壊は合理主義により齎されるものだが合理化が全部悪かと言えばそうではなく合理化の適用の範囲こそが過って居るのである。


というのが以前からのわたくしの考えである。

近代の持つ拡張性、普遍性があろうことか合理主義自体を最大限に膨張させて仕舞ったのだ。



合理主義による社会の構築つまりは編成、価値化、ヒエラルキー化は必然的に世界を破壊の方向へと導く。

そんなことはもう百年も前から分かって居たことなのであり、それでもそれこそ止められない、止まらないでやってきちゃったことへのツケが今噴出して来て居るということであるに過ぎない。



だが青い服の女、即ちサファイア姫ーわたくしの彼女である婆さんーがいざ我我の目の前に直に現れると其れはもう止まらない、決して抑制など効きはしない、もう其処にシケこむ以外手は無い。

こうして春になれば美しい花々が咲き乱れ、芳しい新緑の香りが漂う此の世界に自らを縛り付けるだろうことに関して其れを見るななどとは誰も言えないのである。

たった一人の人間を除いては。

其の一人とは無論のこと、かのお釈迦様のことである。






「ガンディーは、西欧式の教育を、知識偏重であり、倫理や道徳に基礎を置いていないとの理由で真向から否定した。
 後述の『ヒンドゥー・スワラージ』によれば、ガンディーは、教育を受けていないインドの普通の農民は、両親や妻や子供たちや村の仲間たちをどう遇すればよいかをかなりわきまえている等道徳の規律をよく理解しており、このような農民たちにとって知識偏重の教育など不要であるとまで主張する。
 もちろんこれは極論であり、実際は、ガンディーは教育の効用は認めている。ガンディーは次のような教育を与えるべきであるとする。(15)
 第一は、書を通じての学習に偏らず、手作業等の肉体労働も取り入れた人間の全面的な能力の開花を目指す教育である。ガンディーは以下のように述べている。
知性は読書を通じてのみ伸ばすことができるという完全に誤った考えを捨てて、職人の仕事を科学的な正しい方法で学ぶのが知性を一番迅速に伸ばす近道であるという事実を採り入れるべきである。なぜ、ある特定の手さばきや道具の操作が必要であるかを、見習い生が一つずつ教わる時、それと同時に、知性の本当の発達が始まるのである。学生の就職難も、学生が一般労働者の中に身を投ずるならば、わけなく解消できよう。(16)
 第二は、特定の宗教に基づいた教育ではなく、普遍的な倫理観を授けるような教育である。(17)人は往々にして自分の理解できないことは誤りであると認める傾向があり、同様に宗教に関しても自分の宗教が最善のものであると考えがちであるが、実は、様々な宗教は、真理への到達の道筋が異なるのみで、基本的価値は皆同じであるとガンディーは主張した。」




確かに「普遍的な倫理観を授けるような教育」こそが大事ですね。

教育の意義とは其の心の教育にこそあるのでしょう。


第一アノ東大や慶応など一流の大學へ入っても女を手籠めにして居るやうな昨今の風潮からしても此の心の教育の大切さがひしひしと実感される部分です。


ですが日教組は謂わば左翼的に官僚組織化されて居るゆえ「心の教育」とは言っても其れは基本的にもう無理ですね。

どだい左翼は所詮唯物思想ですので一種の理想主義ではありますが其処での宗教教育は無理というものです。

然し近代以降の社会の、そして人間の抱える根本の問題とは此の「心の教育」の可否にこそ存する。

ですので教師というのは、其れは「心の教育」の出来る人のことを云うのです。

特に近代以降はそうでなくてはならない。



ただし「心の教育」とは、所謂右の教育つまりナショナリズムを鼓舞するようなものであってはならない。

また同時に近代主義ー体制ーに忠実なロボット人間をつくることであってもならない。



または特定の宗教や団体の考え、教義に凝り固まったようなものであってもならない。

そうかと言って所謂コスモポリタン的な、まさにあの宮澤 賢治が描き出したやうな世界とも少し違うようにも思う。

ではニーチェ的な超人の世界なのだろうか?

いや、そうでもなく要するに規定です、規定、理性的な規定、自己規定の行える人間こそが時代に求められて居る。



たとへば、

小欲知足でもってして常に女には興味が無い。

またかの野の師父の如くに病人や弱者を助けたりはしない。

すると物凄い個人主義かつ利己主義のようで居て、実は全体を見据え考えかつ行動して居る。

ギャンブルはやらず、酒も飲まず、タバコだけを吸う。-精神の安定化の為にー


車は持って居ない。

山へ行く時だけレンタカーを借りよ。



仕舞った、其れはわたくしのことであった。

まさに此の我のこと。

そうではなく、其のやうな世の中の役に立ちそうもない、まるでデクノボーで盆暗の人こそが最も聖人に近いということ。



よろしいでしょうか?

今まさに世界は矛盾としての巣窟です。

いや世界は元々そうした地獄なのである。

謂わば餓鬼畜生のみが住するところ。

此の世界はそうした地獄である。



地獄なので、左翼も安倍君も常に矛盾化して仕舞う。

それに右翼は今最も矛盾化しておる。

第一もうすぐ隣の国の方から化学兵器を搭載したミサイルが飛んで来そうな気配である。



それなのに右は右でもうキャンキャン吠えるばかりで天皇制国家を護る為には戦闘も辞さないとそう考えて居るばかりである。

それは頭が悪いからそうなる。

左は左で、一見頭が良さそうには見えるが実は可成に頭の出来が悪い。



こういう時本当に頭の良い人はまず自己規定ということを考える。

それもガンディーのように、或はカントのように、またはマックス・ヴェーバーのように考えるのだ。



「ガンディーにとっては、イギリスがインドを植民地支配していることより、イギリスの近代文明にインドが侵食されていることの方が問題であった。その近代文明であるが、本書でガンディーは、道徳や宗教を無視し、個人的な欲望、肉体的な幸福を追求してきた結果、今日の近代文明が生まれたとしている。

読者:あなたが(近代)文明について思うところを教えてほしい。
編集者:「(近代)文明」という言葉で表現されている状態がどのようなものであるのかを考えてみよう。(近代)文明の中に生きている人は、肉体的な幸福を、人生の目的にしている。幾つかの例を挙げてみよう。ヨーロッパの人々は、今日、百年前より、はるかに立派に建てられた家に住んでいる。このことは、文明の象徴であるとみなされており、また、肉体的な幸福を増進させることでもある。昔は、彼らは、獣の皮を着て、槍を武器として使っていたが、今日では、長いズボンをはき、体を飾るために、様々な服を着て、連発ピストルを持ち歩いている。もし、それまでたくさんの服や靴を着用する習慣がなかったある国の人々が、ヨーロッパ風の服を着る習慣を身に付けるようになると、彼らは、未開状態から脱して文明化したということになっている。……昔は、戦いたい時には、肉体と肉体をぶつけたものであるが、今日では、丘の上で銃を扱う一人の人間が、何千という命を奪うことが可能である。これが(近代)文明である。……この(近代)文明は道徳や宗教のことは気にも留めない。(近代)文明の信奉者たちは、自分たちの仕事は宗教を説くことではないと平然と言う。(21)
 そして、イギリスのもたらした近代文明をインドが受け入れたために、インドはイギリスに支配されることになったのであるとしている。次の文章には、インド人が自らの欲望のためにイギリス人をインドに招いてしまったことが記されている。
読者:なぜ、イギリスは、インドを奪うことができたのか、そして今なお、保持することができているのか?
編集者:……イギリス人がインドを奪ったのではない、私たちが、イギリス人にインドを与えたのである。……誰が東インド会社の役人たちを手助けしたのか?誰がイギリス人のもたらす銀に誘惑されたのか?歴史を見れば、私たちがそうしたことすべてをしてきたことは明らかである。……すぐにでもお金持ちになろうとして、私たちは、東インド会社の役人たちを諸手を挙げて歓迎したのである。……お金がイギリス人の神様である。そうすると、私たちが、私たちの卑しい私欲のために、イギリス人をインドに引き留めているということになる。(22)
 そして、次のように、近代文明はよしとしたままで、イギリス人による統治がインド人による統治に変わるだけの独立であるならば、独立にはあまり意味がないとしている。
読者:私たちは、イギリス人と同じ武力を持つ時に自治を獲得できるのである。そうして初めて私たち自身の旗を掲げることができるのである。(筆者注:日露戦争で勝利した)日本のように、インドもならなければならない。私たちは、私たちの海軍・陸軍を持ち、栄光につつまれなければならない。
編集者:あなたの考えは、詰まる所、インドにイギリス人抜きのイギリス的な支配をもたらしたいということになる。あなたは、虎は欲しないが、虎の性格を欲している。つまり、インドをイギリス風にしたいということである。インドがイギリスのようになるならば、インドは、「ヒンドゥースターン(筆者注:インド人の国)」ではなく、「イングリッスターン(筆者注:イギリス人の国)」と呼ばれるであろう。これは、私が望むスワラージではない。(23)
 さて、本書でガンディーは、近代文明の産物としての議会、弁護士、鉄道、(近代的医療に携わる)医者、(近代的)教育、機械製の織物等を具体的に批判する。例えば、議会では、議員は国民のために奉仕することを忘れて、自分たちの利益追求のために動いているし、首相は自党の勝利を確保することに集中し、議会が正常に機能することに関心を払わない。一方、議員を選ぶ選挙民は教育を受けているものと考えられており、従って彼らの選択には誤りがないということになっているが、実際はそうではないとしている。(24)弁護士は、紛争を鎮めるどころか、紛争をややこしくするものであり、またそうすることにより利益を上げている。人々が自分たちの間で問題を解決できれば、第三者である弁護士の出番はなかったし、裁判所が設けられることもなかったのであるとしている。(25)鉄道は、飢饉の頻度を増やした。なぜなら、運搬の手段があるために、農民は一番高い値がつく市場に穀物を売り払ってしまい、いざという時のための備えをおろそかにするからであるとしている。(26)(近代的医療に携わる)医者は、悪徳をはびこらせた。人々は、医者がいなければ、強い意志の力で自分の体が変調をきたさないように予防に努めるのに、医者がいると、病気になっても、医者にかかればよいとの安易な考えに陥りがちになり、自分の精神に対するコントロールを失ってしまうとしている。(27)(近代的)教育は、文字の習得を第一義にしている点が問題である。文字の習得自体が悪いわけではないが、道徳や倫理に基づかない単なる文字の習得は、あることをするための手段としてしばしば悪用されてきたとしている。(28)機械製の織物は、その生産のために、ボンベイの紡績工場の労働者たちが、奴隷になりさがっている状況や、工場で働く女性の劣悪な状況が産み出されたとしている。
 では、そのように述べた上で、ガンディーは、「近代文明」に対して、「真の文明」をどのように考えているのであろうか。(29)
 ガンディーは、真の文明とは、人間に義務の道を指し示す行動様式であるとする。そして、義務の遂行とは道徳の遵守と同じことであり、道徳の遵守とは、我々の精神と情欲の上に支配力を確保することであるとする。ガンディーによれば、幸福とは、主として精神の状態である。人間は金持ちだからといって必ずしも幸福ではなく、貧乏だからといって必ずしも不幸ではない。物は得れば得る程ますます欲しくなり、情欲には耽れば耽る程ますますのめり込むようになる。従って、我々が自分自身を支配することが肝要であり、それを学ぶ時、スワラージが訪れるとしたのである。(30)
 ガンディーの近代文明批判の特徴は、人間が精神と情欲を支配できなくなったために近代文明が生まれたものであるとしていることに表れているように、人間の内面を問題にしていることである。逆に、人間が精神と情欲を支配できるように自分自身の内面を変革することによって、真の文明が訪れるとし、そのような内面変革とそれに密接に結び付いた社会の改革をガンディーは目指した。そして、そのような真の文明をもたらすことによって、イギリスのインド支配は自然と終わるものであると、またそのような形での独立こそが我々の望むものであるとした。」




確かに近代文明とは肉の幸福を追求したものだと申せましょう。

ところで、かのエホバの証人の機関紙など読んで居りますと此の肉と霊性の問題がしつこく出て来たり致します。


それでわたくしは此の問題こそが近代に於ける最大の問題であろうとそう捉えるのです。

キリスト教に限らず、仏教でもヒンドゥー教でも何教でも一級の宗教であればある程此の肉体的快楽の追求を戒めて居ります。

そも其れは宗教が精神即ちスピリチュアルな次元に於いて成立するものである筈だからでしょう。



然し理性に基づき歩んだ筈の近代以降の文明は矛盾化しむしろ肉の満足の為の低俗な世界観を形作って行く。

大衆化された肉体、其れも妙に嫌らしく肉付きの良い、或は肥満体の精神無き家畜の群れ、即ち畜群が闊歩する世界を結果として創り上げる。

其の畜群には元より精神など存して居ない。



何故なら霊性の問題などハナから気にして居ないからなのであります。

其の受肉の範囲でだけ、或は餓鬼、畜生の範囲でだけ近現代の人間は生きて来た。

そう生きて来ざるを得なかった。



まあそれにしても以上の如くにガンディーの近代批判は手厳しいものです。

議会、弁護士、鉄道、医者、(近代的)教育、機械製の織物等を具体的に批判して居るくだりなどは全く其の通りなのではありますが普通の人は少し身を引いて仕舞うような内容です。


然し其の普通というのは、あくまで近現代という近代主義に飼い慣らされし人間のことを指して言うのです。

だから普通というのは、或は常識というのは、実は恐いこと、危ないもののことでもあるんです。

人間は誰しも自己を正当化しようとして生きて居ります。


善悪でもなく良否でもなく、ただただ自分だけは正しいとそう思い込んで居るのです。

でも其れはまさにお前などもそうではないのか?

まさに其の通りです。


ただわたくしは自己をも含め此の世のことなどもうどうでも良いようなことばかりだとそう思えて来ました。

もう全ては莫迦莫迦しいと申しますか鬱陶しいばかりなので御座います。


然し此のガンディーの徹底した近代批判やかのヴェーバーの安らかな死に顔を見るにつけ莫迦莫迦しいばかりでは済まない何かが此の世にあるのではないかとそうも思えるのです。