其の保守としての守り、其の護りこそが結果的に何かを破壊に至らしめると云ふことがあらう。
また其の何かとは何かと云ふ問題も同時に其処に生じやう。
即ち人間とは何か?
さらに其の人間が何を護り生きていくのか?
其処でまずは個と社会に於ける守りの対象の相違、差異と云ふことが問題となる。
ところが其の問題も、実は問題であり同時に問題では無ひ。
問題とは其のやうにあくまで相対概念であり、と云ふことは時代によりまた場所により問題となったり問題にはならなくなり絶対的な価値基準とはならぬものだ。
では問題は何処にも無ひのかと云ふとさには非ずで、問題があるから逆に人間なのであり問題が無ひなら其のままに人間では無ひのである。
かように人間であることとは認識上の誤謬をあへて引き受け生きていくことだ。
即ち人間には常に過ちがあり其の過ちは不断の信心より生ずる。
不断の信心とはかのショーペンハウアー流に申せば盲目的なる生への意志、と云ふこととならう。
其の不断の生への信心とは宗教的次元で括り切れるものなのだらうか。
だが宗教は述べる。
「盲目的なる生への不断の意志」即ち生への不断の信心こそがまさに其のままでは認められぬものなのだと。
其のまま即ちありのまま=自然状態の人間の欲望が何故いけないのだ?
其れでは必然として人間の社会を維持出来なくなるからだ。
かって近代が規定されていく折りにかのルソーは以下の如く考へに考へた。
- 自由を放棄することは、人間としての性質を放棄することである。
- 社会の秩序は自然から生じたものではない。社会の秩序は慣習の上に基礎付けられている。
- 良心! 良心! 神的な本能。
- 自然は決して我々を欺かない。我々自身を欺くのは常に我々である。
- 子供を不幸にする最も手っ取り早い方法は何か知っているだろうか。それは、いつでも何でも手に入れられるようにしてやることだ。
- 私達はいわば二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。
- 我々に決して出来ない唯一のこと、それは我々が知りえないことを無視することである。
- 幸福はその人の受ける苦しみの最小量によって測られなければならない。
- 人間は生まれながらにして自由であるのに、至る所で鉄鎖に繋がれている。
此の近代に於ける理性規定、其れもカントとルソーによる理性規定こそが近代社会を形作る為の重要な認識の形式となって居る。
近代的な自我は此のやうに主に前近代的な社会を変革することで創造されしものであった。
「人が自らの命じる規律に従うのは自由となること」である限り、其の自由を是とする近代的社会形態とは常に規律による社会的規定なのだ。
即ち無制限の自由なのでは無ひ。
あくまで近代的な自由を実現する為の社会的自由ー公共の福祉に反しなひ限りでのーなのだ。
かように自由をどう扱ふかと云ふことが近代をして近代たらしめて居るところでの最大の問題だ。
即ち其の近代的自由とは限定されし自由である。
むしろ人間が人間であることを放棄しなひ=社会を放棄しなひが為の自由なのだ。
もしも人間が人間であることを放棄する=社会を放棄する、のであれば其の自由は所謂自然状態に於ける自由として制限されることは無ひ。
然し近代社会に於ける自由は必然として其処に制限される他は無ひ。
さう其れは自由の目的化などではなく手段としての自由の希求なのだ。
近代とはまさに理性による社会化の歴史である。
けだし現代社会は其の近代的な原理をも変成させていったのではないか。
何故なら我我にとり理解し難ひ精神の領域が屡現代社会に出現して居るからなのだ。
其処には自殺行為其のものとしか見えぬ自画撮りの世界やゲーム浸けになり閉じ籠らざるを得ぬ若者の群れが生じて居る。
どうもかういふのは近代精神ではなひとさう思ふ。
ルソーやカントの考への如くに、近代とはまさに理性を疑ひながらも一面ではさう理性にて規定されて行かざるを得ぬ領域のことだ。或はデカルトの懐疑もまた然り。
と云ふことは其処に於ひてこそ其の負としての理性の働きは信じられ近代は祀り上げられて居る訳だ。
事実此の背徳的なる理性を善なる理性として変換せしめる為の理性としての反作用こそが近代を推進させて来た。
謂わば其処で近代とは望むべくして生み出されたものなのではなく止むを得ぬ形として、其の歴史の最終段階として必然的に生み出されし理性そのものによる唯一の社会化の途であった。
ゆえにルソーやカントの考へは近代社会に於ひて常に正しく、反面近代から外れた社会に於ひては常に誤って居やう。
即ち前近代社会に於ひて其れは正しくなく、また現代社会に於ひても其れは正しくは無ひ。
此のやうに近代とは近代的な価値観に基づかねば逆に規定することがかなわぬ世界なのだ。
うーむ、すると近代こそがむしろ真の真面目者なんじゃないか。
近代こそが其のクソ真面目な理性的な規定であり、むしろわたくしが求めて止まぬ理性の底力、あらゆる本能の誘惑や諸の相対圧力に耐へ、しかも数的還元の魔道へと堕ちることから救ひ出すまるで神仏の力にも等しひことだらう其の理性としての覚醒力のこと。
さうとは知らずつひ長々と近代をコキオロシて参りましたがココに至り近代は意外と真面目だ、と云ふ結論に至りましたゆえ其れをご報告申し上げた次第で御座ります。
が、近代其れ自体は真面目でも前近代が不真面目なのでは御座らず、不真面目なのは何か、其の敵とは何かと云ふに其れは近代からは質的に変成し成就されつつある現代の諸状況なのだ。
さうしておかしひのはむしろ現代人であり、ショーペンハウアーもルソーもカントも至極真面目であり皆人類の歴史の学校での優等生ばかりだ。
一番おかしひのは自由とやらが蔓延する一方で個を極限まで抑圧する現代社会であり、また平等だと述べておきながら一部の職種を差別し格差を放置する現代社会であり、かつ人権重視だとか何だとか述べておきつつもネット上にエロ動画を蔓延させ自殺サイトだの何だのと嗚呼、まさに汚らわしひ、視るに耐へぬ状況を生み出して居る現代社会の状況なのだ。
ココに於ける問題は、根本的に現代が近代的な理性規定を踏み外して居ることに起因しておらう。
即ち近代とは我我にとり今やむしろ伝統である。
伝統でありむしろ護るべき唯一の理性的な社会規定なのだ。
かくしてわたくしはココに思想転向を表明することとしてみたひ。
即ちわたくしが護るべきものとは近代なのだ!
かうして長きに亘りボロクソにして参りました其の近代の精神こそがわたくしの花嫁なのだ!
かの昇太もつひに結婚するさうですのでつひでにわたくしも是非結婚するのだ。
左様に近代ちゃんとはどうしても結婚せねばならぬ。
だが人間とは本質的に悪ひものである。
確かに人間には人間が一番見へて居らぬがさりとて自然は其れ以上に見えては居らずでだから其のままではどちらも見渡せてなど居なひ。
「自由を放棄することは、人間としての性質を放棄することである。」
其の近代的な自由とは其の根底に厳しい自己規定、理性による反省が前提とされて居ることだらう。
だから近代的自由とは目的化された自由ではなく手段として用ひられやう自由の為の自由なのだ。
其れは欲望に突き動かされ其の奴隷となることではなひ。
皆が喜ぶから危険な動画やエロ動画を投稿すると云ふことには非ず。
逆に制限無き目的としての自由の蔓延は個をして限りなく魔道へと誘ふことだらう。
かように自由と云ふことの本質的意義を探り近代主義は其の自由を手段として捉へた筈だった。
ところが現代に至り其の自由が目的化されるに至る。
目的化されし自由はやがて個としての精神を圧迫し破壊していくことであらう。
平たく言へばあへて欲望の為に危険を冒す若者共の心はもはやブチ壊れておる。
またエロ動画に平気で出ておる女子学生の心はもはやブチ壊れておる。
なのでまさにカン違ひ、つまりは思ひ違ひをしておる。
ただし一番問題なのは其の状況を放置して来た現代社会の社会としての無能振りだ。
即ち其処で近代の真の意味を取り違へておる。
即ち近代とは何か?
其こそが理性的な規定ぞ。
なんとなればかのルソーやカントにしてからもが別に近代を迎へたくて迎へておった訳では無ひ。
おそらく彼等にとり須らく近代は必要悪としての社会過程だったのだ。
つまりは社会は悪ひ、ワル過ぎるのだ。
「理性によって人々が道徳的諸関係を結び、理性的で文明的な諸集団に所属することによって、その抑圧による不自由と不平等の広がる社会状態が訪れたとして、社会状態を規定する(「堕落」)[133]。自然状態の自由と平和を好意的に描き、社会状態を堕落した状態と捉えるが、もはや人間はふたたび文明を捨てて自然に戻ることができないということを認めて思弁を進める[134]。」ージャン=ジャック・ルソー#社会契約説より引用ー
即ち社会とは堕落であり、嘘であり欺瞞であり犯罪者が集ふ状態のことなのだ。
現代人は何か良ひものであるかのやうに思って居ることであらうが其れは違ふ、違ふのだ。
其れは人間じゃない生き方のことだ、否最も人間らしい生き方のことよ。
神仏に背きしまさに魔としての生き方のことよ。
然し其れではダメだ。
社会の言いなりになってるとやがて皆欲望の申し子とされいつの間にかとんでもなひ犯罪に巻き込まれて仕舞ふぞよ。
であるからこそ欲望を制しカントのやうに規則正しく生活しかつ女を避けよ。
さすれば世界は救われるであらう。
たとへ宗教に頼らずとも救われるのじゃ。
さう近代的理性原理にて自らを理性的に救ふことは可能じゃ。
何故現代人には其の原理が分からぬのか?
「そしてエクリチュール(書かれたもの)については、情念から自然に発声される詩や歌を文字で表そうとする試みが、あくまでもその根源であるとする。そして歴史的な過程の中で言語からは情念が失われ(「堕落」)、理性的で合理的な説得の技術が重要となり、そしてそれは政治的な権力に代わったと、ルソーは考える。」ー社会契約説より引用ー
かくしてまた言語も腐っておる。
言語とは抽象化で、抽象化されしものは時の経過と共に腐るのじゃ。
其の墜落した言語とは、蝶の美しさを其のままに述べることがかなわぬ言葉なのじゃ。
情念無き言語は形式に堕するが、形式のみは存続し其は言葉としてのイノチを失ひしものなれど其れでも尚美しひ。
美しひものではないゆえに美しひのだ。
丁度近代の謳ふ諸価値も其れに似て居やう。
近代とは実はそんな切実な叫びでもあった。
前近代の頃世界にはまだ人間が少なく、近代を迎へようやく人間は爆発的に増え始めたのだ。
特に廿世紀は其の人口爆発の世紀であった。
逆に言へば近代的な価値観の確立こそが人間の勝利を意味して居たのだ。
近代無くば其の勝利は無く、近代無くば其の敗北もまた無かった。
敗北?
さう、敗北。
常に勝利とは敗北をも意味する。
愛は憎しみをも意味し維持は破壊にも繋がるのだ。
「その一貫した主張として、悪徳の起源を、奢侈、学問、芸術など、文明にこそ求めている点は非常に特徴的である[143]。それらは、文明による「堕落」という言葉を以て示される。その文明に関する考え方は、まず『人間不平等起源論』に示される。前提として仮定される自然状態における自然人は、理性を持たず、他者を認識せず、孤独、自由、平和に存在している。それが、理性を持つことにより他者と道徳的(理性的)関係を結び、理性的文明的諸集団に所属することで、不平等が生まれたとされる。」ジャン=ジャック・ルソー#文明論より引用
(「社会の誕生を悪の起源とみなす。人間と人間の触れあいを否定的に評価する。これは社会思想家としては稀有な立場である。ルソーは多くの哲学者と異なり、人間の社交性に重要な価値を認めなかった[144]」と特筆し、思想史上、極めて特異なルソーの文明観に着目している。ルソーが、「人間が一人でできる仕事(中略)に専念しているかぎり、人間の本性によって可能なかぎり自由で、健康で、善良で、幸福に生き、(中略)。しかし、一人の人間がほかの人間の助けを必要とし、たった一人のために二人分の蓄えをもつことが有益だと気がつくとすぐに、平等は消え去り、私有が導入され、労働が必要となり、(中略)奴隷状態と悲惨とが芽ばえ、成長するのが見られたのであった」[145]と述べている部分に、その主張を端的に読み取ることができる。)ジャン=ジャック・ルソー#文明論より引用
ルソーの考えによれば、自然災害にあたって甚大な被害が起こるとき、それは、理性的、文明的、社会的な要因により発展した、人々が密集する都市、高度な技術を用いた文明が存在することによって、自然状態よりも被害が大きくなっているということなのである。ルソーは『ヴォルテール氏への手紙』において、次のように述べている。「思い違いをしないでいただきたい。あなたの目論見とはまったく反対のことが起こるのです。あなたは楽天主義を非常に残酷なものとお考えですが、しかしこの楽天主義は、あなたが耐えがたいものとして描いて見せてくださるまさにその苦しみのゆえに、私には慰めとなっています」[146]、そして「私たちめいめいが苦しんでいるか、そうではないかを知ることが問題なのではなくて、宇宙が存在したのはよいことなのかどうか、また私たちの不幸は宇宙の構成上不可避であったのかどうかを知ることが問題なのです」[147]。 )ジャン=ジャック・ルソー#文明論より引用
ちなみにわたくしの考へ方はルソーの考へ方に極めて近しひものだ。
また其れはルソーを教育学などで学び其処から影響を受けたなどと云ふものではなくわたくしのオリジナルの考へこそがまさにコレに近ひのだ。
わたくしは幼い頃より変わって居てなかなか周りには理解されぬタイプの人間だった。
其の癖真面目でもって潔癖、しかも執念深く悪を悪として追求するので元々悪の女共は皆わたくしから離れていきかうして年寄りになるまで思索を重ねて来ざるを得なかった。
さらに共感覚と云ふまさに詩人感覚の持ち主で感覚の方が常にブッ飛んで居るから言ふてることは一見學者風なのにキチガヒ詩人で、キチガヒ詩人なのに屡生の意味と愛を語ると云ふまこと訳の分からぬパーソナリテーの持ち主じゃった。
と云ふ面がまさにルソーとそっくりであり、ただし一つだけ異なることはルソーが女たらしであったことでわたくしは其の肉欲の分を宗教フェチになることで乗り切って来たと云ふことだ。
さて、悪徳とはまさに社会的な事象であらう。
さらに辿れば女の子宮、まさにコレこそが其の悪徳の揺り籠なのだ。
なのでかのカントは女にはさして関心を示さず兎に角理性の権化としての批判哲学を完成させ世を去った。
ところがかのルソーに限り女癖が悪かったのだ。
が、かってはわたくしも実は存外に女癖が悪かった。
人嫌ひであることは全く同じである。
尤もルソーの場合は人嫌ひと云ふよりもどう考へても社会が諸悪の根源となる其の理性的な結論としての人嫌ひなのだらう。
わたくしのはもう少し感覚的なものが入る。
たとへば山の中の動物は大抵人嫌ひだがさういふのに少し近ひ気がして居る。
自然災害に就ひてかっての大地震の時にわたくしは其れが人災ー文明災ーだと述べた。
自然に生かされて居ると云ふ感覚を反故にして変なところに原発など創るからもうエライことになる。
ルソーは、理性とそれによる文明や社会を悲観的に捉えている。それゆえルソーは、主に教育論に関して論じた『エミール』において、「自然の最初の衝動はつねに正しい」という前提を立てた上で、子の自発性を重視し、子の内発性を社会から守ることに主眼を置いた教育論を展開している。初期の教育について、「徳や真理を教えること」ではなく、「心を悪徳から、精神を誤謬から保護すること」を目的とする[148]。ージャン=ジャック・ルソー#教育論より引用ー
教育の目的とはまさに其の「心を悪徳から、精神を誤謬から保護すること」であるべき。
では悪徳や誤謬は何処から齎され得るのか。
勿論其れは社会から齎されやう。
悪徳とは心理上の、また誤謬とは精神ー思想ー上の誤りであり、さうした誤りを正しかのウソの文明世界、まさにウソの社会化過程としての近代社会、さうして現代社会をつまりは極悪社会を乗り切る為の知恵を授けることこそが其の教育の目的であるべき。
元より「理性を持つことにより他者と道徳的(理性的)関係を結び、理性的文明的諸集団に所属すること」こそが近代社会を成立させる上での基本的要件なのだ。しかしながら、其の契約関係の本質とは悪である。
近代社会は其処にあへて悪を生じさせることにより人間の可能性を理性的に追求した試みだった。
であるからこそ近代社会は我我に多大な恩恵を齎すのだ。
だが其の理性としての追求は常に諸刃の剣なのだ。
むしろ理性としての内発的な縛りの無ひ限り其れは常に矛盾化する恐れを孕んで居やう。
或いは其れは理性としての限界を示すことだ
理性のみでは解決出来ぬ諸の事象につきまさに心の知恵の方が求められて居るのやもしれぬ。
かうしてルソーの思想は一見楽観的に見へるにも関わらず極めて悲観的だ。
近代とはそんな悲観論から生み出されしもので、決して現代のやうにホイホイと新しひものに何でも飛びつく風ではなかった筈だ。
少なくとも近代啓蒙思想は現代人の頭の中身特に一般大衆の頭の中身よりもより疑ひ深く高級なものだ。
面白がって死を伴ふやうな危険な行為に走るだの、またエロ動画に出るだの、そんなことはかっての紳士淑女にとってはまるで考えられぬことであった。
わたくしは何故ここまで現代人はおバカになったのかと云ふ点につき主に詩的アカデミズムの視点から解析し其の結論を伝へるべくかうして日頃より此処に出て来ておる。
尚近代主義者へと転向するかどうかと云ふことはまさに自分にとり微妙な問題だ。
ただし本日此処で述べたやうにより悲観的でかつ切羽詰まった状況からまさに近代が開闢して居たと云ふ事実よりより深く学んでおく必要があらう。
つまるところ近代とは時代の流れの必然として其処に屹立する理性としての矛盾過程のことだ。
ただし近代を啓蒙したところでの理性の流れにはかようにしかと悲観性が宿って居た。
其の悲観性こそが理性の限定ー制限ーを形作って居たのだ。
かくして近代の無制限が全ての破壊を齎した訳ではなく今まさに此の限度無き社会こそが大破壊を齎すのだ。
欲望のあり方の多元化と自由の意味の取り違へが現代から近代的な制御=理性的な限度を放逐しやうとさへして居る。
然るに其の「何でもあり」主義ではダメだ。
変な踊りを踊りつつ自由の意味をはき違へて理解して居る全ての若者に今かうして告げておかう。
サア早う近代へと戻れ!ルソーへ戻れ、カントへ戻れ、或いはデカルトへと戻れ!
其のデカルトは大嫌ひだったのではありませぬか?
確かに大嫌ひです。
同時に近代も嫌ひだ。
でもね、ココまで批判しておると時に褒めてやりたくもなるものです。
最近どうも近代と現代は違ふ、と云ふことに気付き徹底的に現代ー21世紀ー批判を為さうかとも思って居るのです。だから近代はもう無罪放免なのだ。
つまりは赦されたと云ふことに近ひ、嗚呼まさに赦された、かの自称詩人に赦されし近代よ永遠なれ!