「およそ生ずる性質のものは、全て滅する性質のものである。」
事実としてそうであるとのことです。
すると、そも生ずる性質であることが不滅では無い性質を孕むということともなりましょう。
だから生じないことの方がまさに不滅なのであります。
生じるということこそが其の限定の矢を受けて仕舞って居るということとなりましょう。
其の限定は悪だともまた一面では申せましょう。
二次分解過程としての理性にとっては己こそが其の悪なのであり、対する神仏の叡知こそが善ともなりましょう。
善と悪、不滅と生と云うように、二元的対立即ち二辺の世界に分解されて仕舞うことが現象即ち此の事実としての世界の性質です。
此の性質に寄りかかって生きるとまさに無明の生を生きることとなります。
心が其の様な虚の世界であり仮象の世界である全てにつき従って動いていきますので最終的には二辺の世界に捉えられて仕舞うのです。
二辺の世界に捉えられて仕舞うと、あらゆる苦に苛まれることともなりましょうが其れが何でいけないのでしょうか。
もしもこの世が虚妄の世であるとするならば、其処には本質的によすがとするべきものが無いということともなろう。
寄る辺無き世そのものだということともなろう。
たとえば国が、会社が、親戚が、家族が、最終的によすがとして成り立って呉れる訳では決して無い。
何故なら其れ等はあくまで限定的な仮象であり自己が存続する限り付き添って呉れる訳ではないからなのだ。
自分の命が尽きるよりも先に会社が潰れ親戚が疎遠となり妻子とも別れ別れになる虞など幾らでもある。
だから其処によすがを持って居ると大きな苦にやがて遭遇しなければならなくなろう。
たとえ現世ではよすがとなったにせよ、次の生、また次の生で必ずや大きな苦に遭遇しなければならなくもなる。
残念ながら此の世には何も無い。
空っぽである。
そう見ることの方が真理にはより近い見方なのである。
然し、此の世の中によすがとしての何ものかを求めて仕舞うことの方が、其の心理的な指向こそが実は悪の根源である生即ち性と結びついて仕舞う何ものかなのである。
だから其の心理的な指向そのものを滅して仕舞えば人間は仏となりあらゆる苦の領域との縁が其処に初めて途絶えるのである。
然しそういうのは、どうも特殊な人の場合の考え方であり生き方である。
たとえば釈迦とキリスト、このお二方こそが其の特殊な人の最たる例である。
特殊な人というのは、常人とは異なりまず思考が深い。
そして世の中には何でか知らないが思考が深いタイプの方々が居られるのである。
そうした人々の場合は、所謂知識人としての精神的な苦悩というものが其処に発生する。
しかしながら其れは、まさにそうなるべく定められし運命なのである。
いざそうしたタイプに生まれついたのであればそう生きていかざるを得ないのである。
幸か不幸かわたくしもそうしたタイプの端くれとしてこれまでこうして随分と考え込んで来たのである。
されど此の自縄自縛の思考の世界というものも、また一面では実に辛いものよ。
世の中には他の面で苦しんで居る人々も多く居られることだろうが、此の精神の領域での苦しみということこそが実は最も苦しいことなのやもしれぬ。
何故なら精神の領域での苦しみは誤魔化しがきかないからなのでもまたある。
とこうしてわたくしは恨みつらみ、不満や不具性、などを全部外へ吐き出すことにして居るのである。
知を構築する者としての病をそのままに振りまいていくこととして居るのだ。
そうでなければ所謂知識人の病に捉えられわたくしは生きていかれなくなって仕舞う。
だからこそ所謂ルサンチマンを振りまくのである。
また色んな所で宗教を振りまくのである。
であるからこそ少しは気が楽になるのである。
ところであのニーチェが発狂して仕舞ったのは、生への意志が強過ぎて何処にも其のルサンチマンを振りまけなくなったからなのではなかろうか。
Wikipedia-力への意志
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%BF%97
此のニーチェの構築せし「力への意志」という概念は多分に誤解されて居るのではなかろうか。
曰く、あらゆる価値観の死に絶えたニヒリズムという辛い世界を乗り越える為に人間は「力への意志」を選択しなければならない。
然し其の意志は、自然界の持つ「力への意思」即ち理性に規定されし本能領域での意思とはまた別個のものなのだろう。
ニーチェの云う「力への意志」とは云わば存在という限定性への肯定の意志である。
存在という限定性を知恵あるー知恵に分解されて仕舞ったー人間は知覚して行かざるを得ない。
また分解による理性の劣化で必然として陥るニヒリズムの世界を人間は自然から孤立しつつ歩まざるを得ない。
一方で自然はニヒリズムに陥る必要などない。
何故なら自然は劣化しないことだろう理性の体現者なのだから。
だからニーチェは常に人間の救済をまず先に考えて居た筈なのである。
人間の救済は宗教で達成される筈なのだが、謂わば真理が劣化するニヒリズムの世界では宗教がまず劣化し本来の機能を果たさなくなって仕舞う。
自然に於ける「力への意思」の否定→観念に於ける「力への意志」の肯定即ちニヒリズムの肯定→ロゴスを超えた自由なる精神の獲得即ち超人の出現
といった形でこそニーチェは人間を救済したかったのだろう。
此処での此の「力への意志」とは力そのものを意志するのではなく意志することで結果的に力を持つ即ち強く成るということなのである。
何を意志するのかというと、ニヒリズムという虚無に対する主体性または自由を意志するのである。
だから能動的であり積極的でもある生への関与の仕方をまずニーチェは考えたのだ。
然し此の部分が、まさに此の部分こそが東洋の思想との明らかな違いなのである。
生に対して消極的とでも云うか、或は其処までそも考えない、抑えて行く部分が多分にある東洋の思想はニーチェの考えとは質的に異なる。
そも東洋の思想はニヒリズムに陥ることを招かず、従って宗教を死に至らしめるような無理はせずかつロゴス即ち観念の齎すところでの真理領域を壊すこともなくよって其れを超えて行くような努力や其の必要も無いのである。
兎に角ニーチェの云う「力への意志」とは力そのものへの意志では無くましてや権力への意志でもないのである。
謂わば受動的な意味での、生きる上での強い力を指向せざるを得ないところでの意志、なのである。
其れが結果的には能動的であり積極的でもある生への関与の仕方となるということである。
だからニーチェは決して本能領域での「力への意思」を、そして観念領域での所謂「力そのものへの意志」を志向して居たのではないのである。
強く生きる力が何故必要なのかと言えば、近代以降世界は本質的な価値が解体される歴史的な過程に入っていったからなのである。
事実、近代以降共同体は破壊され宗教は弱体化し家庭としての価値、社会としての価値観、国家としての価値観といったものでさえ揺らぎ始めて居る。
対して個の権利や自由、主体性といった面は確かに確保されたかのように見えるが其れも本質的にそうなった訳ではない。
何故なら元々此の世はそうした諸の価値を強固に確立するだけの地盤には欠けたところなのであろうから。
其れはまるで砂の上に楼閣を築くようなもの、または絵に描いた餅を食って居るかの如き虚としての行為であるに過ぎない。
そして西洋の思想はそうした虚の循環、嘘の上塗りの段階、悪循環の世界に陥っていったのである。
従って近代化の末に人類の未来などは無い。
近代をして革命せずば、其処に人類の未来などは無い。
さて「力への意思」はメスの子宮力のことであると先にわたくしは述べて居る。
力によってエゴを強化したいという欲望こそが其の子宮の奥には拡がって居る。
其れが即ち悪の力である。
ゆえに生は悪でありエゴの実践である。
だから其の本能の力こそがあらゆる対立を生みあらゆる戦争、紛争を生む。
其れを抑えることを学ぶことこそが宗教に於ける本義である。
「およそ生ずる性質のものは、全て滅する性質のものである。」
生ずる性質のものを此の世に生み出すことは、本質的には其れは滅するという苦である性質を此の世に生み出すということである。
宗教はまず此の部分をこそ反省する。
まさに特殊な、「考える人」であった釈迦とキリストは此の部分をこそしかと反省した。
考えなくても良いようなものをあえて考えていったのである。
そして其の教義として、つまり結論として、人間には出来ないことばかりをあえて世に示した。
汝の敵を愛せよ、だの、煩悩を滅せよ、だの、そんなことは普通の人間には決して出来ぬことばかりなのである。
だが何故そうなのだろうか。
其処をしかと考える必要があろう。
ただし考えてばかり居ると、現実が進まなくなるきらいはあろう。
其れが考える人にとっての病なのである。
其の病が昂ずれば発狂、乃至は爆発、自殺、などが往往にして引き起こされる。
そうならない為には精神のケアーをしてあげることこそが必要である。
だからたまには女にも触ってみる、口説いてみる、ゴルフ三昧をしてみる。
また競馬に凝る、楽器を弾きならす、絵画を観に行く。
或は大酒を飲む、宗教を否定する、モノマニアになる。
こんな風にあらゆる道楽が考える自分をケアーして呉れるのである。
然し、其の力への意思、意志こそは不毛の意思であり意志である。
ニーチェは其の不毛こそを転換させ建設的に生きようとしただけだ。
まさに超人として其の事を為そうとしたのだ。
其れは意志による建設であり力自体の建設ではない。
だが此の世は建設の場所ではないのである。
元より其れはそうなのだ。
近代の建設は限定の建設で、其れは長続きせず百年後には其の存続さえもが難しいものだ。
限定された存在にさらなる限定ー資本主義と科学技術でもってしてーを組み込んだのが近代という時代の持つ本質的危うさなのだ。
「およそ生じない性質のものは、全て滅することなき性質のものである。」
よって生じるということは、罪であり負債である。
罪であり負債である世を生きるということは、これはもう何といっても宗教的な世界なのである。
だから事実として宗教は成立する。
宗教の代わりを超人は務めることが出来なかった。
宗教の代わりを資本主義と科学技術が務めることは猶更出来ない。
我々は今宗教の中に埋没して生きること位しか出来ない。
もっともわたくしはあくまで理論的に宗教を擁護する者なので、迷信や狂信、邪教や宗教テロなどの領域は一切お断りなのである。
むしろわたくし教なるものを樹立した方が話が早くなるのではなかろうかと其の様にも思う近頃のわたくしなのだ。