目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

地震の力は理性の力



さて人工知能なんてことを考えて居た矢先に突然大きな地震が我が国を襲いました。


ですが今回は遠方の九州で発生した為、こちらでは全く揺れを感じることは出来なかった。


謂わば地震の力が九州を蹂躙していったのです。



其の地震の力とは、謂わば非合理的な合理的力のことです。

非合理的なというのは、人間の理性にとってはあくまで非合理的な力であるということです。


対しての合理的力というのは、自然の範疇ではあくまで合理的な力であるということです。


つまりはそうした矛盾的領域でのみ自然災害というものは捉えられ得るということです。


其れは人間は幾ら望んでも、自然を切り離した領域での合理性の達成が不可能であるということでもまたある。


即ち非合理的な巨大な力でもってして其の合理性の達成即ち文明が破壊されて行かざるを得ないということなのである。





つまるところ合理領域の純粋な履行は此の世では不可能なことともなろう。


元より合理領域の純粋な履行は神仏に於ける次元での話ですので、此の目に見えるままでの現象世界に於いては其れは無理なことともなろう筈。





また其れが無駄なこと、無駄なあがきでもあり得る訳です。

そうした合理領域の純粋な履行を目指すこと自体が時間と労力の無駄そのものである。



だから文明は、特に日本に於ける文明は近代型のものではまずかったのであります。




だって日本国はまさに地震の国なのですから、日本型の文明世界を形作ることこそがより合理的な選択を其処に於いて行うことの筈でした。


例えば木と紙と綿や絹やらでもってして、いつ壊れても良い、乃至は壊れることを前提とした文明の形を拵えておくべきでした。



尚、わたくしの母が子供の頃に、大きな地震が此の地方にあったそうです。


丁度戦時中のことだったそうですが。


其の折に祖父の家も倒されたので母たちは住むところがなくなり大いに困った筈です。



然し実際には、祖父や祖母、それから親戚や町の人たちの力を借りてすぐに仮小屋ー掘っ建て小屋ーのようなものを建てていたので実はそんなに困って居た訳ではなかったのだそうです。


其れよりも、兎に角戦争の方が余程に怖かったのだそうです。



其の掘っ建て小屋の中にむしろを敷いて暫く寝ていたそうですが今思えば其れも案外楽しい思い出であったそうなのです。



ですが無論のこと現代ではとてもそうは参りません。


現代の文明の形は合理主義によりより細かくかつより巨大に構築されて来て居りますのでいざ壊れると全部が全部ダメになって仕舞いがちです。





きっと全てを強固にそして細かく創り上げ過ぎて来て居るのでしょう。


だからこそ自然からの不合理な力の行使の前に屈せざるを得なくなるのです。



現代の文明が自然から遠い、遠過ぎるのでいざ壊れると簡単には直せないということともなろう。





ですのでこれからの日本の家屋や会社の事務所は、間伐材で、また放置された杉林などからの材料を使い木造でもって是非造るべきである。


そんな風にカンタンで良い訳です。簡単に造っておけば良い話だ。


其れでもって今後屡発生するであろう諸の大地震から日本人自身を守るべきである。




即ち壊れてもまたすぐに建て替えられるようなものとしておけば、其処ではそも地震自体が怖く無くなるのである。


屋根なども軽く簡単に造っておけば人が潰される心配も少なくなりおまけに経済的にも安く仕上がる。



だから見た目などというどうでも良いことに拘り見栄を張る必要はないということだ。


現代人としての見栄や虚勢の部分に拘る必要など一切無いということだ。



そうした意味での合理性をむしろ学んだ方が良いのではないだろうか。



そうした意味での合理性は、むしろ戦前の日本の社会の方に顕著に見られたものだったのかもしれない。


或は戦前と云うよりは江戸時代の方がそうしたある種の柔軟な合理性でもってして家屋が造られて居たのかもしれない。


と云うのも、元々地震の多い日本だからこそ壊れることを前提にして全てを造っておく必要がかってはあった筈だ。


事実大昔は大地震が頻発して発生しおそらくは其の度に家屋やインフラを造り直すことを余儀なくされて居た筈である。



然し、実は此の日本では戦後から高度経済成長期にかけて大地震の発生がほとんど無かった訳なのである。


其れで普通に高度な経済成長が可能だったともされて居る位だ。


そしてまさに此の期間に、日本という国は自らが地震国であることをスッカリ忘れ去っていって仕舞うのである。


だからあの阪神大震災の頃までは自らが地震国であることや火山の噴火による被害が多い国であることを顧みることがなかった。


経済成長だけして居れば其れで良し、との単線思考が当時其処に成立して居たことだろう。





近代化というグローバリズムについ騙されて、此の国が特殊な自然環境であることをほとんど考慮することなく大都市を整備していったのである。


だから今後日本の都市に於ける罹災のリスクはドンドン高まり、しかも壊れてもすぐに建て直すことの出来るような家はほとんどないことから其の被害が壊滅的なものとなって仕舞うことが避けられない。




なので簡素に出来上がった壊れても良いような家に住み、地震で壊れたらまたすぐに建て直せるようなそんな住空間を都市が確保しておくべきなのである。


そういうのこそがリスクを、そして被害を小規模させていく為の、かつ日本の風土に見合いし合理的選択なのではなかろうか。



特に自然との関係に於いて、現代の文明はまるでなって居らずリスキーそのものである。


おそらくは文明の中心点に居座る経済や科学技術といった分野の専門家には自然との関係までをも含めた統合的な知が欠如しているからなのである。


そうではなくしかるべき人文系の学者やわたくしのような自称の詩人を文明に対するアドヴァイザーとして政府が選べばもっとずっと良くなっていくことが必定である。


金を呉れるならいつでもやってやるつもりではあるが、あいにくわたくしの提言は過激過ぎて多分使い物にならない筈である。

其れから無名詩人なので勿論其の様なオファーなども来ない。


せいぜい此処でこんな風に暴れて居る位が関の山なのである。




この様に自然に対する感性の欠如、自然の合理性に対する無知ということが人間の築き上げし近代以降の文明の特質である。


何故なら自然が寄って立つところでの合理性と、文明が欲して居るところでの合理性との間には甚だしい乖離がある。


其れは自然を規定するところでの理性が冥落ー顕在化して居ないーして居るからなのであり、対して人間が文明の根拠として居る理性が二次的分解を経て不完全なものであるに過ぎないからなのだ。

謂わば自然の理性は無いようで居て其れは在り、しかも其の理性の形は一次的に分解されしより大きな範疇での理性ー全き理性に近い理性ーなのである。



だから自然は暴虐な振る舞いを繰り返して居るようで居て、其の実は全体的理性的に統合されて居りあらゆる本能領域もまた其の冥落せし理性の統御の元にあるのだ。

其れを平たく言えば、自然のやって居ることに間違いなどはなく、其処に全てが統御され切って居るということともなろう。

対して此の地震国である日本に近代型の文明を築いて仕舞う日本人の理性は、其れに比せばまさに足元にも及ばぬお粗末なものであるということなのであろう。




だから本来ならば人間は利口にならなければダメなのであるが、近代以降の人間の頭の中身はテストで百点を取ることばかりを学校で教えて来たので応用が利かないのである、謂わば柔軟な理性によるところでの思考の応用が。



だから地震による被害とは最終的には其れは人災ということとなろう。