目覚めよ!

文明批判と心の探求と

悲観と楽観


たとへば「楽観主義者は悲観的で、悲観主義者は楽観的だ」とブログで述べて居られる医師の方が居られますが其れは其の通りのことなのではないだろうか。


ちなみに此の楽観だの悲観だのいう区別の仕方は何より曲者なのでして、其処には常に表面的な意味での楽観、悲観の区別と深部に於ける楽観、悲観の区別が相互に入り組みながら混在しているので余計に分かりにくくなるのです。


其の分類に従いまず考えられる点は、


表層での楽観主義者=タダの楽観者つまりは単なるおバカさんのこと。


深層での楽観主義者=此の世が地獄であることを知り抜いた上で達し創り上げた馬鹿の境地、即ち達観の類。



表層での悲観主義者=タダのナマケモノ、天邪鬼、利口振って居るだけで本当は何もしたくないバカのこと。


深層での悲観主義者=慈悲の心より発せられし人類への愛を語る者、謂わば本当に利口なのでそのまま其の達観の内容を述べて居るだけのこと。



との訳で、其の楽観と悲観の度合い、深浅に於ける違いが問題なのであり実は楽観と悲観のどちらが良いか、より有益であるかという問題ではないのであります。


何故なら此の世はそのままで二辺に分かたれて居ります。


二元的対立はあって当たり前のことであり其のどちらが良いともつかぬのが此の世の実相です。


むしろ其の二元的対立を生じせしめて仕舞うこと、否応なく二辺に分かたれて仕舞う存在としての我、そのやうな我を生じさせて仕舞う己のイノチとしての低級さのみが真の意味での問題となるのです。



だから男と女のどちらが良いか、或は莫迦と利口のどちらが良いか、または人間と宇宙人のどちらがより良い生命か、なんてことはもうまるで意味の無い論議でしかない。


根本の問題は何故、どうしてそんな二辺に分かたれて仕舞う世界に自分が今存在して居なければならないかということです。



然しまさに其の部分で、実は悲観主義者と楽観主義者の違いは如実に現れて参ります。


まず、楽観主義者は此の世が悪いところだなんて思いたくはないものです。


其れは根が莫迦なのでそう思うのです。


対して悲観主義者は此の世が最悪だとそう思いたくなるものです。


其れは根が利口なのでそう思うのです。



ただし先にも述べた如くに、浅いところでは結局そうした結果となるということであるに過ぎない。



それから、其の莫迦であれ利口であれ其れはあくまでどちらがより優れて居る性質であるといふことを指し示すものではない。


つまりはそうした性質のものだといふことであるに過ぎない。



でも深いところでは其の悲観主義と楽観主義はむしろくっついて来たりも致します。



即ち大いなる悲観は楽観に通じ、大いなる楽観は悲観に通ずる、とも云い得るので御座います。


なのでこのレヴェルではそも莫迦だの利口だのといふ区別が出来なくなり逆に楽観主義者が大いに利口に感じられたりもして参ります。



ですが根の部分で悲観といふのは概ね批判を含んで居ります。


つまるところ犬ではない猫型の思考、客観的に見詰められる批判精神を含んで居るものです。


そして此の批判こそが逆に愛なのだとも申せましょう。



だから子を育てる時に甘やかして何でも買い与えて居るとロクな人間には育たないが厳しくしつけ自分で努力して何でも得る人間にすれば結局は其の子の為にもなる。


其れと同じやうなことが言い得るのではないでせうか。



で、宗教、其れも伝統的に成立する宗教は概ね此の悲観の精神から出発して居ります。


たとへば仏教にせよ、キリスト教にせよ、此の世の中をまずは地獄だと見て居るのですね。


これらなどはもう究極の悲観論です。




ですが其処からこそ咲くお花が、其処からこそ生じる真理の内容がおそらくはあるのではないでせうか。


つまるところ、楽観論からは宗教といふ精神の内部をまさぐる領域は生まれ得ないのでありましょう。



また文學に於いても然り。


楽観論からかの太宰や三島、或は安吾漱石は決して生まれ得ないのではないか。


それに五木 寛之先生などは自分で自分は暗い人間だと述べて居られたりも致します。


暗い、此の暗さ、根暗である、嫌らしい目つきを持つ、其の嫌らしい批判精神、これこそが利口の証で否、作家の証でもってしてまさに猫の眼差しのことであります。



其の猫の眼と宗教の眼、または悲観論者のものの見方とはリンクして居ります。


どうも相通ずるものが其処にはある。




とのことでそのままでわたくしは悲観論者ですが、むしろ自分にとり一番必要なものは楽観的なものの捉え方であるとそう常に感じて居る者でもある。


もうそのままで暗く沈んで居るのでー謂わば生まれつきにーむしろ明るいもの、あっけらかんとしたバカな様に対しては何か物凄く惹かれると申しますか何やら其処に畏怖のやうなものさえ覚えるのです。



そんな訳で精神の領域に限れば悲観論乃至は内向性或は客観視し得る心的領域の価値がむしろ大前提となって参ります。


だが生きる為には前向きの力、悩みには捉われない楽観性の演ずる役割はむしろ大きい。



ただ、わたくしが案ずるのは近代の文明が此の前向きの力のみにて邁進して来て居るだろうことです。


本来ならば、悲観と楽観といふ二辺の性質が適度に混じり合うことにより或る意味バランスの取れた社会乃至は文明が形作られるべきなのでしょう。


事実近世辺りまでは此の均衡がある意味では取れた文明または社会が成立して居たことだったろう。



なのに近代以降の文明は此の悲観の力を自ら葬り去っていく。


わたくしはまず其の点に大きな違和感を感じて仕舞うのです。



勿論個人レヴェルでは、今でも楽観主義者が居れば悲観主義者も居り、尚且つ作家の如くに嫌らしい猫の眼差しを持つ人も居れば全然そういうのと関係の無い人も居る訳で其れは其れで全然良いのであり元より非難する謂れなどない訳であります。


第一男が女になる必要などはまるで無く女が男になる必要など無いのですから楽観主義者が悲観主義者となる必要など無くまたあえて悲観主義者が楽観主義者となる必要などは無い。


其れは元々そうした性質の違いがある訳なのでどちらがより優れて居るかとかどちらがより役に立つか即ち有用であるかといふ問題ではない。



されど近代の思想に於ける悲観論の否定と其の逆に人間の全能性の肯定、ある種悲観的な宗教的概念に対する無関心と其の逆に人間の自由や権利の主張の徹底振りを見るにつけ本当の本当に此の悲観の力が意味の無いことなのだろうか、逆に常に前向きであっけらかんとしつつ文明が進歩し続けていくことがつまりは其の楽観主義の塊が何かもうまるでキチ○×思想の如くに思えてならないのですが如何でせうか。


言うまでもなく悲観主義の良いところは抑制の効くところにあります。



即ち自己規定することが出来る、反省をし易い性格であるといった部分です。


なのでイケイケ文明、もうまるでAI文明、何が何やら分からないやうなカード社会、要するにフリーセックス文明、そんなふしだらな社会を見通し批判することが出来るのが何より悲観論者としての長所なのです。



それでは最後にわたくしの尊敬する悲観主義の哲学者である中島先生の語録を貼り付けておきませう。



戦うヘンクツ哲学者・中島義道の生き方と名言がすごい


まずは「とまれ!」との仰せである。




講演があまりにも反社会的かつ悲観的だったために聴講者が精神に変調をきたした。


…さもありなん。



ご卒業おめでとうございます、どうせ死んでしまうのですが。みなさんはこの人生の新しい展開に、やや不安を抱きつつも、大きな希望に胸膨らませていることでしょう、どうせ死んでしまうのですが。(中略)みずからの個性を見失うことなく、困難を糧として、大きく成長する機会にしてほしいのです、どうせ死んでしまうのですが。何年かの後に、逞しく成長した皆さんの笑顔に会えれば、これほど喜ばしいことはありません。今後の健闘を切に祈ります、どうせ死んでしまうのですが。


…おおまさにまさに其の通りだ、畢竟人間とはどうせ死んでしまうものであるに過ぎない。左様にニンゲンは希望に胸を膨らませ今日と明日を生き結局はほとんど何も成し遂げられずに死ぬる運命にある。何より其れを自覚した言葉である。兎に角目覚めて居る。




尚中島先生はかのイマヌエル・カントがご専門である。

といふことは矢張り何かのご縁がある。

とは云え読むべき本が多過ぎてなかなか先生の著作まで辿り着けない。

でも兎に角なるべく早く読んでみたい。

先生が主宰されるカントの塾へも是非行ってみたい。

出来れば生きているうちに。