『私は世界を滅亡させる強大なカーラ(時間)である。諸世界を回収する(帰滅させる)ために、ここに活動を開始した。たといあなたがいないでも、 敵軍にいるすべての戦士たちは生存しないであろう。』(『バガヴァッド・ギーター』11-32、上村勝彦訳)
即ち時間とは滅亡である。
時間こそは生でかつ時間とは死である
時間ある処にこそ生と死が展開される
故に時間とは限定である
だから時間とは無限ではない
無限である時間というものはない
時間とは区切りであり、限度である
また其れは存在を自由に泳がせる為の刹那の連続である
其れは流れて居るのではなく
ただ瞬間だけが積み重ねられていくのだ
形あるもの、思いを生じるもの、有情のものは時から生まれ時に死し
時の中のあらゆる悪とまたあらゆる善と
とめどない対話を続けている
時間こそは悪の母である
時間そのものが悪である
分かたれしものは皆其の母の胸に抱かれる
母が鬼子母神だとも知らずに
そうして抱かれて喜んでいることだろう
わたくしたちの愚かさと強さ
こうして滅亡へ誘う其の時間とは悪そのものことともなりましょうが、同時に其れは善そのもののことともなるのであります。
本質的には悪であろうが、世界の推進を果たし結果的に善の役割を演じて仕舞って居るのが時間ということにもなりましょう。
ところが本質的に暗愚である筈の我々には其の悪の様がまるで見えて居ないということでもまたある。
世の姿をありのままに見ることと、五蘊の範囲でストレートにものを見ることとは違うのでそうなって仕舞うのです。
其の様に感覚、乃至は観念的なものの見方に全的に寄りかかると世の実相は見えて参りませぬ。
そうかと言って感覚、乃至は観念的なものの見方を全的に否定したとしても世の実相は見えて参りませぬ。
然し感覚で全てを捉えるよりはまず観念的に見て行くことを学んでおく必要がある。
何故なら最終的に観念を滅する為にはまず観念を突き詰めておく必要があろうからだ。
時間は存在とセットになって動いて居ります。
まさに蠢いて居る、波の様にゆらゆらとして蠢いて居る。
流れて居るのではなく、バラバラになり瞬間だけが連なって居る。
存在は限定ですので、時間もまた限定となるのです。
存在とは限定されし複製ですが、時間とは限定されし劣化です。
即ち其処で複製がきかないということです。
複製が出来ないので、過去にも戻れず、かつ未来へ飛んでいくことも出来ない。
つまるところ時間とは劣化です。
劣化なので未来はむしろ今よりも悪くなりましょう。
勿論良いのですよ。
存在することが瑕疵であり負債であることのように、時間もまた瑕疵であり負債でありおまけに劣化なのです。
本質的には其れは死へ向かう劣化だということとなる。
ところが生は時間が育むものでもある。
元より生は子宮が産むものですが、其れを育むのはあくまで時間なのである。
ですので子宮も時間も本質的には悪であり虚であり誤りなのです。
何かの間違いであるとしか言えないということである。
現象化し、存在として時間即ち時の流れを知覚すること自体が何かの間違いであるとしか言えないことである。
其の結果両義性が生じ、かつ劣化が生ずる世界を我々は生きて行かねばならないからなのだ。
是が逆に一元化され、向上が保障されし世を生きて行くのだとしたら無論のこと其処には何ら問題が無いのであるが。
尚、わたくしは此の新緑の季節こそが何より大好きなのであります。
此の時期には美しい花々が咲き乱れ、かつ木々が一斉に緑の衣を纏いますのでまさにさわやかなことこの上ない。
そうした真に美しいものに囲まれて居るだけでわたくしはほぼ恍惚状態となって仕舞います。
ですが其の快がいつまで続くのだろうとそう思わないこともない。
第一六月になれば梅雨となり新緑の方も次第に色褪せて何だか普通の自然に戻って仕舞うのです。
という事は、わたくしの感じて居るー感覚及び観念でもって快と判断して居るー快は実は不快を前提とした快だということになりましょう。
其の様な不快に至る快というものが、わたくしには何かとても苦しいことにしか思えなかった。
ということは、其の快を快として感じて居る時にもチラリとそんな思いがよぎり本当の本当に自然の美しい様を楽しんで見て居られた訳ではなかった筈だ。
此の快に没入するか、其れとも快に疑いを抱きー快の裏側に隠されし不快への不快感を顕わにしー何か他の見方をしていくかという部分での選択こそが俗に生きるか真理への方向性を選び取るかという選択そのものなのであります。
現代文明が提供する快楽に没入するか、其れとも快楽に疑いを抱き何か他の見方をしていくかという部分での選択こそが俗に生きるかかの漱石への方向性を選び取るかという選択そのものなのであります。
要するに此の世はまさに矛盾的推進を行って居るということなのです。
こんな風に花々が咲き乱れ、全てが緑色に染まる此の美しい季節もまた他の何であれ、全て世界は二辺の対立の只中にあり、かつ存在するものを滅亡へと誘う時間という劣化と直に結びついて仕舞って居るのです。
そして逆に矛盾そのものだから推進されていくのであります。
矛盾ではないものは、そも其処に時が流れるようなものではなく、従って進まず退かず、何も加えずまた何も奪われることがない。
或は美しいということは、此の矛盾である二辺の世界こそが形作って居るのかもしれません。
即ち快であり不快でもある此の矛盾に満ちた世界こそが美しいのであります。
対して快でもなく不快でもない完全な世界には美は生じて居ないのかもしれない。
此の様に悪である時間は快と不快を、そして限定的劣化としての現在を形作って居ます。
然し我々存在にとっての現在を形作り、尚且つ世の美しさを垣間見せて呉れる時間は存在にとっての母であり美にとっての女神でもまたある。
即ち時間とは母であり女神でもある。
其の母は元々根性が悪く我々の生を劣化させることだけが趣味です。
また死体やら腐敗やら、そんな気持ちの悪いものばかりを好んで此の世にバラ撒いても居ります。
ですので時間とは死の母であり死の女神でもまたある。
ところが一方ではこんなにうっとりともさせて呉れるのです。
嗚呼、万緑に囲まれ我は今幸せである。
これぞまさに詩人冥利に尽きる季節だ。
一方でまさに悪であろう筈の現実の一人の女との対決が常に心に引っ掛かっては居りますが、其れでも五月になればまた有休を取りまくりどこぞへふけて仕舞いますので全部放棄です、放棄。
然し其の五月までが長い。
まだまだ日にちがある。
どうか時間よ、なるべく早く進んでお呉れ。
母であり女神であり、そして生であり死であり悪であり善である時間よ。