現代文明の抱えるリスク
0.無思考、無思想化ー人類の白痴化を齎す
1.自我と欲望に基づく生ー世界ーの推進による諸のリスク
2.自己矛盾性の拡大ーより幸せから遠のくことー
3.価値の非本質化
4.自己破壊への合理的突進
0.唯物論、物質主義に傾きし近現代の精神性は人類総白痴化という究極のリスクを抱えて居る。そこで是非断捨離して精神性を取り戻すべき。尚、仏教に於ける精神性の追求は人類の行いし究極のものゆえ最も手本にふさわしい。
1.自我と欲望に基づく生ー世界ーの推進は大きなリスクを人類に齎す。世界を安定化させる為には本来自我と欲望は抑えていくべきもの。安定は拡張主義からは得られない。安定とは限定である。存在もまた限定である。生命とは限定である。また自我も欲望も限定的であるべき。
2.現象界に於ける真の幸せとは安定である。だが安定とは本来現象界に備わる属性ではない。安定とは非現象界、即ち真理領域に於ける属性である。然しながら、この仮象の世界に於いて唯一安定的に存在し得る心性が自己規定のある精神である。即ち意識を規定すること。考え方そのものを規定すること。たとえば宗教は大昔から其のことだけを為して来て居る。ゆえに是非宗教に学ぶべし。宗教は真の幸せは何かということを妥協無く追及した最終形でのもの。其れは哲学が導き得ない信仰の世界を描き出したものである。
3、唯物論、物質主義に傾きし近現代の精神性は基本的に脆弱ゆえ諸の価値観が非本質化しつつ崩れていく。このこともまた人間社会の不安定化を助長する大きな要因だ。価値観の非本質化は無駄ばかり生み出すことの温床ともなる。事実現在多くの大きな企業が血道を上げて開発して居る製品の多くが其の無駄なものばかりである。無駄は結局本質的には価値を成さずすぐにゴミ箱行きのものが多い。
4.文明の現状では、もはや我々は自己破壊活動の速度を速めかつ地球破壊活動の速度も速めつつあると申すほか御座いません。しかも其のことをより合理的に成し遂げようとして居る始末です。この様に文明が盲目的に突進しつつある最終地点とは其れ即ち自己破壊としての結末に他ならない。其の自己破壊こそが人類に与えられし最大の自己矛盾性のことである。これへの合理的突進ー科学技術に基づくであろうーを否定し阻止する以外に手は残されて居ない。たとえ実際には止めようがなくとも、少なくとも精神的には戦う。このことが大事なこととなろう。
文明のリスクのより現実的な分析
1.想定外のリスクへの対処不能性-細分化、専門化した社会構造が無能化を引き起こす
2.自然の不安定化に対して為す術が無い現代文明社会
3.近代全体主義の推進による地球の破壊
4.現代人の精神の退化
1.現代文明は大の方の問題にはすべからく弱い。だから大の方のリスクに対処する能力を持たない。何故弱いのかと云うと、そも日頃大の方の問題を考えて居ないからである。科学技術が其の最たる例で、其れはむしろ小の方を考え抜いてすべてを生み出して来て居るものなのである。
だから今我々は小さいものばかりに囲まれて生きて居る。飛行機も豪華客船も、はたまた宇宙ロケットも皆小さいものばかりだ。其のことに気付く、其うした視点での認識に至ることこそが真の意味での勉強である。知恵の段階でものを見ていくとそう見えるということである。そして組織は固定化されると柔軟性を失い機能を失い易い。特に高度に細分化され専門化された現代社会の組織ほど大の方の問題にはすべからく弱い。
2.自然というものは人間にとって予測可能な領域のものではない。科学による予測がむしろ無効である程に自然の力は大きい。其の大きな自然の力は合理主義、数的関係の力学だけでは測り知れないものなのである。元々そういうものなのだ。然し合理主義に傾いた近代以降の人間の思考が自然は科学的に理解し得るものとしてそう誤解をして来て仕舞ったのである。だが本当は、自然とは全体論的に把握されるべきものなのであり、従って其処では合理思想から見た場合での想定外の暴虐振りが幾らでも潜んでいるものなのである。
だから太古の文明は皆等しく自然を畏れかつ敬って来て居たのだ。かって自然は怖れられる対象だったのである。ところが今や自然は収奪の対象となり果てた。そうした自然が時に牙をむくことに対して現代人にはもはや考えが及ばないのである。それもこれも、現代の思考のアンバランスであり思考の失敗の問題である。
3.4.地球は知らず知らずのうちに危機に瀕して来て居る。ただ我々には其の真実が知らされて居ないだけである。其処には社会的、文化的な意味での洗脳があり、かつ自立的な思考の困難といったことで推進されて来たことだろう現代人の思考の退化、破壊ということがまず問題として浮かび上がって来る。即ち其処では地球が壊れること自体に問題が存する訳ではないのである。近代以降の人類の為した悪事の数々を考えれば、地球の破壊はむしろ必然であり其処に何らかの問題が含まれて居るものとは考えにくい。即ち我々は確信犯なのである。やがてはそうなるだろうことも分かっていながらつい其れをやり続けて来て仕舞ったのが近現代人である。
其処で問題として捉えなければならないこととは、近現代人の精神の退化の方の問題である。近代以降全体主義化されし文明世界に於いて、ただ単純に文明は良いものだと思い込み其れに対して慎重な議論を行って来なかっただろう知識人層の責任は極めて大きい。
文明とはそも真理とは逆方向へ向かうこと。
真如の状態から離れて、分けた幸福を求めていくこと。
分けると、其れが可能となる。
だが分けた幸福は本当の幸福ではない。
逆に云えば人間には本当ではない幸福しか得られない。
幸福だと思って居る其の自己本位の幸福のみが得られるだけだ。
ところで今文明はリスキーである。
其れは何故か。
安定な状態を越えたからである。
幸福だと思って居る幸福という其の幻想度が、かってはより小さいものだった。
だから其れは悪いなりに安定して居られたのである。
然し二十世紀は其の安定をぶち壊した。
我々が其の思うところでの幸せの為に行ったのは其の破壊だった。
破壊により我々は思うところでの幸せを得た。
然しながら其の幸せは刹那の幸せであった。
そうした性質からは免れ得ない幸福の形であった。
尚安定とは本来小さい世界での安定のことである。
欲望、消費、愛、宗教、そうしたものは小の世界でのみ安定的に均衡し得る。
他にも国家、政治、権威権力、体制、思想、なども皆其の小の世界でのみ安定的に均衡し得る。
つまり、近代が切り開いたのは不安定化への道のりだった。
人間にとってのみならず、地球上の全存在にとっての不安定化への道のりをあえて選んで来たのである。
すると、近代という時代は思考無き時代だったと言う他はない。
何故其処で思考が成立しないかと云うに、其処に智慧の部分が発動されて居ないからなのだ。
だから危機とは、合理的思考の欠陥により其の智慧の部分をないがしろにして仕舞うということにこそある。
今我々が直面して居るリスクはそれこそ測り知れない。
其れは現実を見ないで脳内願望を実現させて来たことに対するリスクなのである。
つまり自己本位に欲望を解放し放題だったことへ対するリスクなのだ。
小から大へ。
真理による規定から自己本位へ。
非合理主義から合理主義へ。
実から虚へ。
悠久から現在へ。
安定から不安定へ。
こうした近代に於ける諸の結末は、実は人間の生み出す考えから齎されて来て居る。
意識こそが、其の意識こそが現状を生み出して来て居る。
つまり、自然は元々リスキーなものなのである。
其の危ういものからこそ人間は生み出され、其処で謂わば矛盾としての生を育むのである。
だから自然は、仲間でもなく友達なのでもない。
自然は、誤った思考に対しては鉄槌を加える。
元々そういう存在なのである。
では何故その大事なことを人類は忘れて仕舞ったのだろうか。
其れはおそらくは合理思想が知恵から齎される考えを排斥して仕舞ったからだ。
対して宗教は其の知恵の源泉でもある。
然し其の宗教も今は不純化した。
こうして近代とは幻想である。
幻想の中で十九世紀、二十世紀と夢を見続けて来た我々人類。
其処ではつまりは考えが悪い。
思考が悪かった。
或は真の意味での思考が其処には無かった。
全い思考には欠けて居た。
即ち一方通行型の思想の蔓延を許して来たところでの。
夢は考えではない。
自我も考えられない。
何故なら元々自我など無いので。
其の幻想に基づいて、近代文明を展開して来た我々人類。
もはや我々に出来ることは何も無い。
思考の転換以外には何も無い。
目を覚ますこと。
夢の如くに幸せに見えた其の幸せの意味を問い直すこと。
様々な可能性に対して心の門戸を開くこと。
様々な可能性を得ることとは、むしろ現実的な可能性を閉じることである。
むしろ鎮静されたもの、求めないもの、大きくは展開されないもの、
偉人よりは盆暗、一等賞よりはビリッケツ、積極性よりは消極性、あの植物の生き方、あの鉱物の生き方、老荘思想、原始仏教、などから学ぶことの方が本当の勉強だ。
其処であえて可能性を閉じる。
其の事でもって目覚める。
其処で大きく考えると、其の大きな考えから自ずと規定されることを学べる筈だ。
其の規定こそが人が生きる上での本質である。
生の自己矛盾性を乗り越えていく為に。
自己規定以外には本来は何もない。
限られて存在する我々には本来自由などない。
本当は思考自体にも自由など無い。
何故なら思考が寄って立つところでの言語自体が限定なのであろうから。
言語による意識の可能性の拡大が現状のリスキーな文明を築いて来て居る。
だから其れを反転させる。
逆をやる、あえて其の逆を。
むしろ意識を規定していく。
すると宗教の段階へと戻る。
我々は自由な意識の拡大により自然を客体化し文明を築いたが其れは多面的にリスキーなものとなって仕舞った。
なんとなれば其処には自由という不自由さが何より存していたからなのだ。