ズバリ人を大事にしない組織は早晩滅びます。
人を大事にしない社会はそのうちに立ち行かなくなります。
人を大事にしない国家はやがて死に絶えます。
人を大事にしない文明はやがては全的に滅亡します。
今や価値をすべからく数的に還元せしめる合理主義の世界観がこの世界を蹂躙しつつあります。
其の合理主義は人間から生きる余裕のようなものを根こそぎ奪い去ります。
だから我々の生活は次第次第に窮屈で苦しいものとなってゆく。
でも其れには何故か逆らえないのです。
何故なら今世界では全体主義としての文明世界が繰り広げられて居るからなのです。
私たちに必要なものはもはや物などではない筈だ。
我々に必要なのは何より人間としての安定した生活である。
其の安定した生活からこそ安定した精神が育まれる。
でも何だか不安定な今のこの生活。
其の新自由主義路線でのバランスを欠いた思想からはもはや何も生み出せないのだ。
第一、そうしてグローバルに経済競争ー戦争ーをして勝った企業は我々に一体何を与えて呉れると云うのか。
其れはもはや要らないもの、不必要なものばかり。
もう新型の車や新型のパソコン、新型のゴルフクラブなんて要らないよ。
物なんて逆に古いカメラや古い萬年筆の方が出来が良いものと相場が決まって居る位のものだ。
パソコンなんて本当は無い方が良い位だ。
こうしてパソコンなんてやらずに、逆に情報を一切遮断した山の中でコツコツ詩を書いて居た方が余程私の為にもなろう。
不安定な生活からこそ不安定な精神が生まれる。
だから今我々の精神が壊れかけて来て居るのは本当のことなのだ。
人を大事にせよと確かにそう左翼の方々は仰います。
人権、人権といつもそう叫んでおいでになります。
確かに其れには一理あります。
でもそも人権は無制限に地球上には与えられないものです。
ゆえに権利も義務も、本来は制限的なものです。
其れは精神の上位概念ー宗教や道徳規範、倫理観などのーから否応なく制限的に付与されるべきものです。
或は自然から規定されて居るべきものです。
たとえば今火山の近くにお住いの方々などは、また実際に火山の噴火などで罹災された方々などは色々と不自由な生活を余儀なくされて居るだろう筈です。
然し、其れこそが自然からの規定の部分なのです。
人間は人間の望み得るように生活出来るものでは本来ない。
其の事を忘れて仕舞ったのは、合理思想が進み過ぎて所謂ニヒリズムの領域に入って来て仕舞ったからである。
ニヒリズムの世界に於いては本質的かつ伝統的な価値が解体され非本質化されるので其れ等が名ばかりのものとなって仕舞います。
ゆえに信ずるに足るものが此の世から、或は人間の精神から奪われて仕舞うのであります。
従って其処ではもう何も信じられなくなる。
実際今は企業だって信じられず国家にしても信じられず、或は家族だって信じられずいやそればかりか家族すら持てない人なども多い。
そして価値が一元化されていきます。
価値とは本来多様なものの筈ですが、たとえば現代では数的に還元された価値がすべての価値に対し優先されていく。
だから今やまさに地獄の沙汰も金次第、なのです。
価値をすべからく数的に還元せしめる合理主義の世界観がこの世界を蹂躙しつつあるということです。
ー重要なのはここで精神が一元化されていくことではないということです。精神はむしろ解体されて多元化されていく訳です。精神に対置されるものの方の即物的な価値の方がむしろ一元化されていくのです。つまり逆をやって仕舞っている訳です、逆を。-
其れはそうした方向性をあえて見過ごして来たことへのツケなのです。
能天気な数的思考人間共に任せ切って来たことのツケを払わされて居るのです。
文學や哲學の方の人が或は他の藝術方面の人や宗教家がもっともっと危機感をあらわにし世に訴えておくべきでした。
或は宗教自体にも大きく責任はあります。
宗教が形骸化しつつあることの責任が其処には何よりあります。
では我々大衆には責任は無かったのか。-尚わたくしも半分は其の大衆としての一人です。-
いえ、大衆には最も大きく責任があります。
其れは自分の頭で考えて行動しなかったことへの責任です。
もっとも大衆は元々魚の群れと一緒で自分では舵取りが出来ません。
でも私の言いたいのは、あくまで自分の中の半分は脱大衆化していなくてはならなかった筈だと言って居るのです。
つまり大衆には脱大衆化を志すという精神の上での進化が義務付けられて居るのです。
人を大事にするのは良いが、其の権利は常に大きな部分から制限的に与えられるものである。
科学技術による進歩主義思想を信ずる余りに、無制限に人類の可能性を追求することもまた然りで、其れは本来ならば常に大きな部分から制限的に与えられるべき領域での自由であり進歩である。
其の大きなものとは全体的なものである。ーただし全体主義には非ずー
この全体的に規定されること、制限されることこそが近代以降の文明が忘れ去って仕舞った居たことだろう枢要な部分なのである。
人間が末永く幸福に暮らすということに対しての。
其の様な真理をもはや忘れ去って仕舞った人類、そして文明世界。
このやうな有様では早晩滅亡の淵に追い込まれるであろう人類。
この苦境、難局をサア、一体どう乗り越えていけば良いのでしょうか?
ひとつだけ詩人としてアドヴァイスすることが出来るのは、まず其処で人間を辞めてもらうことです。
人間が人間である限り、この進歩史観、ゴチャゴチャと鬱陶しい文明の流れを止めることなど能わずです。
人間ではないものになる為には、まず東洋思想を学び仙人になったり解脱したりすることへの方向性を見つめないといけません。
其れと人間ではないものとも積極的にお友達になりましょう。
まずは動植物とお友達になり、彼らの心を感じ取れるだけの心を醸成していくのです。
すると、人間以外の生命との交流が可能になるのです。
私なども生まれつき其れが得意なものですから、勿論今でもある程度は動植物との会話が可能です。
人間との会話は実はかなり嫌いと云うか煩わしいですが他の生命との会話はごく自然にこなすことが出来ます。
だからそうした変な人にまずなる必要があります。
あのドリトル先生やファーブルのようになる必要が現代人には是非あります。
其れから地球に居ながらにして宇宙を俯瞰視することの出来る詩人魂を是非養成しませう。
あの宮澤 賢治のやうに全宇宙を其の詩の一行に塗り込めて仕舞うのです。
すると其処で自ずと分かって来ることが多々あります。
新製品だの金だのが世間が騒ぐ程に大事なものではないことが。
また火山は噴火してむしろ当たり前だということが。
そして真に人間を大事にするということがどんなことであるかということが。
新自由主義や合理主義が齎す社会の破壊がどんなに恐ろしく非人間的であるかということが。
価値観の一元化が人間の精神の荒廃を齎すということが。