私の場合キリスト教は究極的には一元化をはかるものだと見て居りまして、つまるところ其れは単なる肉体と魂、善と悪の二元的構造の中のものではないと考えて居ます。
然し一応は其れを分けて考えるという意味では確かに二元論的ではあります。
そして西欧近代の思想は主客を分けて考えるという意味で其の多くが二元論です。
ただし其の思想の流れの中にも一元化する方向へ寄っていくものが屡存在しては居た。
ニーチェやベルグソン、もっと遡ればカントの哲学などはそうした方向性を担っていたのではなかったろうか。
丁度一か月程前に私は現在を含んだこの近代という時代とは花火大会であると述べました。
花火は華々しく綺麗なのでー分かり易いのでー皆が其れに群がりますが、花火自体は刹那のものでありすぐに消え去るものである。
そういうのが好きな人は其れを楽しみながら観て居られることでしょうが私自身はとてもそんな気にはなれない。
私はとてもそんな能天気野郎にはなれない訳です。
二元論的世界観が今日の物質主義に繋がりひいては人間精神の荒廃を齎して居るだろうことは否めないことです。
分けられないもの、または分けるべきではなかったものをあえて分けたので、結果として人類は豊かさを手にし自らの望み得る現実を創り出す力を得ました。
然し其の力はあくまで自己中心的な力でした。
また其の現実と其れに連なる形での未来とは、あくまで自己中心性の骨組みに沿う形での今日と明日だったのです。
そしていつしか文明は過去を振り返ることを止めて仕舞った。
むしろ過去の方にこそ未来があるという真理を忘れ人間の営為をすべからく現在化して来て居ます。
だから厳密には其処には未来さえも存在して居ない。
我々にあるのはただ極限的に拡張されし現在だけなのです。
そんな余裕の無い文明ですので、其れは勿論早晩どうにかなっちまいます。
色んな矛盾性に苛まれ自分で自分の首を絞め続け其れで終わりです。
ですので其れはもはや治せるというものでもない。
そうした結末はもはや明らかであろうが其れでは面白くないので色んな方がそれぞれにそうした傾向を批判されたりして居るのです。
そして私の考えや主張は其の流れの中に連なるものである。
さて、そんな風に我々はいつしか分けて考えることが得意になり現実をより現実化していきました。
然しかっての現実は其の様に現実化、現在化されたものではなかった。
何故なら自然に分けない考えというものが存在して居たので、それこそ神と民衆が一体であったり仏と民が一緒くたになって居たりで其処はある意味まともで居られたのだった。
そういうのが一元化された人間の生活というものです。
また現在のように物が溢れて居た訳ではなかったが普通に御飯も食べられたし普通に色んなものを愛しつつ暮らせて居た。
人間は愚かなので自我の範囲を超越出来ず、其れで妻や子、父母、親族、共同体、国家といった自らの所属する範囲から抜け出ることなど元々出来ない。
其れが出来るのは知識人や藝術家、宗教家に限られて居りそういう人々はそういう人々で庶民とはまた違った闘いをずっと続けて来て居られます。
近代はまさに分けることで豊かさを得たが同時に其処では失うものもまた大きかった。
一言で云うと、そうした普通の纏まりのようなものが失われていくのが特にこれからの時代の特徴なのではなかろうか。
ですので其処に於いてこの二元化社会の手詰まり、行き詰まりがすでに見えて来て居ります。
と言いますか、現在すでに其の行き詰まりの真っただ中に居ることを多くの人が感じられるようになって来て居る筈です。
この文明の二元論の超克は、まさにあの全体論へと連なっていきます。
ただし注意して下さい。
全体論とは所謂全体主義とは全くの別物であるところの思考的立場のことを云います。
全体論は分析型の思考を全否定するものでもないが全肯定するものでもない。
其れは全体が一体として機能する時に総体を超えていくだろう飛躍を認めるという立場でのものです。
たとえば直観という認識がありますが、これがまさに其の全体論的な認識のことです。
尚直観は分析型の科学上の理論の発見などにも関わって居るとされて居るようですが、其処に限れば私にはどうも疑問が残る部分です。
逆に宗教上のインスピレーションなどは皆この直観による世界認識なのだろうと思って居ります。
思えばあの釈迦の悟りにもこの直観の部分が大きく関与して居たのではなかったか。
もっとも成道後の釈迦の教えは非常に論理的なものですが、悟りそのものは論理でもなく分析でもなく直観的ではあるが直観を超える位にパワーがある、または逆にパワーの無いものであったことでしょう。
そうそう、ここのところを良くご理解下さい。
パワーがある=パワーが無い、なのです。
また聖なるものは魔にも繋がります。
さらに天才は狂人に紙一重、です。
二元的要素の振幅が大きいことが一般性を超越し一元化する可能性を孕んで居るということです。
ほどほどなのは其れ等の要素の何処にも繋がっていかないということです。
よって其処には直観の方も働かないということとなりましょう。
其の仏教では、心身一如などとも申しまして精神である心と物質である身体を分けて考えないのです。
真如という仏教用語がありますが其処では絶対の実在界のあり方をそう表現するのです。
確かにこの状態ではまだ何も分かれて居ない感じが致しますね。
私が直観した存在論でも、実在するものは限定され得るものではありませんので何一つ分かれて居ない状態にこそ其れはあります。
つまり実在とは多様でも雄弁でもないものです。
むしろ何もないもの、心を掻き立てられるような部分が何もないものが実在するものの持つ真の静けさであり真の確かさなのです。
対してゴチャゴチャとしたものに心を日々掻き立てられて居る傾向のある人はそうした部分からは遠い心性の人だと申すほか御座いません。
こんな風に実在、乃至は仏とはむしろ何も無いもののことだとそう思われます。
在る、ということはすでに迷いなのであり、ゴチャゴチャでありつまり多様化なのであり生の多様と云えば聞こえは良いが実はある種鬱陶しいものそのもののことなのでもありましょう。
以上から分けないものの方が全体的なものでありかつ直観的に得られるものであり一元性のものでありかつ東洋的な考えであるということを述べてみたつもりです。
従って分けて考えて豊かさを手にした西欧近代の思想の行き詰まりを打開していく為にはこのような二元論を超克する思想の方がより其の事を成し遂げられ易いと考えることも出来よう筈です。
元々、分けて考えるべきではないものを分けて考えざるを得ない方向に進んで行かざるを得ないという其の業の部分こそが人間存在に与えられし自己矛盾性という宿命の部分なのであろう。
然しながら分けて考える、若しくは考えたがるのがおそらくは我々のような存在化されし存在の癖です。
でもどだい考える、ということ自体がすでに分割であり限定なのです。
左様に概念化は分割であり限定です。
つまるところは言語自体が分割であり限定であるということです。
其の言語により人が概念による思考を行いますが其の事自体がすでに自己矛盾性の範囲内にあることなのだ。
其の様に言語ですら矛盾化されて居る現象界ですが、其処をどの様に考えつつ渡り切っていくかということが我々に課せられし最大の課題であると云う他はないのです。