あのニーチェはかって善悪の彼岸という概念を提唱しキリスト教における善神勝利の一元論に即した善悪の二元論を批判したものとされて居る。
実際この世には善があれば悪がある。
善と悪とは表裏一体で存在する存在の癖としての何かである。
だから人間を善の基準のみで規定するということは、実は不可能なのである。
そうした自己矛盾性を得た存在であることこそが人間を含む生命の根本の命題なのであろう。
この世にユートピアを築こうとする試みもまた其の自己矛盾性を無視した愚かな行為だ。
かと云ってこの世をディストピアにして仕舞えとかそういうことなのでもなく少なくともありのままに見つめる必要があるのである。
其の自己矛盾という業の部分を。
さて私は近頃多様性とは何だろうといったことにつき屡考える。
多様性とは豊かさであり、謂わばこの世界に対する肯定的な、または発展的な側面を持つことの筈だろう。
対して非多様性とは局限性であり同時に可能性の無さを意味する。
然し多様なものは煩いものになり易くかつ纏まらないものでもある。
対して非多様的なものは強固で本源的なものでもある。
つまり物事の側面は絶対化することが出来ないのである。
何らかの性質に対しては必ず相反する性質が用意されて居て絶対化されることを阻害するのである。
存在の性質とはそんな中途半端なもので矛盾に満ちて居るもののことだ。
然し其のことは、たとえば善や理想といった片方からの概念で其の現象を括ろうとするからこそそう見えるだけなのでもある。
あのニーチェのように、其れこそ善悪の彼岸に至ればそうした二元性を超克していけるのかもしれない。
然しニーチェの思想もまたとても危険である。
何故なら其の思想は伝統的な道徳性を破壊的な批判にさらす。
ゆえにかえって、ニーチェは新しい人間の誕生が是非必要だとそう考えて居たのだろう。
宗教や道徳に規定されることなく自立して生きられる超人の誕生を待ち望んで居たのである。
そういうのがもし出来れば、件の二元論の超克も或は其処に成し得たのかもしれない。
が、正直言って人間とは元々そんなに強いものだとは考えられない。
人間は愚かであり、腐って居り、まさにあのバイ菌のようなものでさえある。
だが同時に賢くもあり、聖なる道をも知って居り、生命の根本命題である自己矛盾性に対する挑戦権を持つ。
自己矛盾性の最たる例である人間存在が、まさに其の自己矛盾化の牢獄から脱け出す為の心の萌芽を待つことが出来る。
従って、人間はそうした意味での究極の選択を迫られし存在なのである。
自己矛盾化の牢獄から脱け出す為の心の芽生えを持つことが出来るか否かという点に於ける。
云うまでもなくこの世のあらゆる存在=生命と非生命、言葉=概念が自己矛盾性を孕むものであるに過ぎない。
何故なら其処には二元性が存するからなのである。
この二元性を超越して行かない限りはこの存在の牢獄からは抜け出せない。
多様である筈の善は多様である筈の悪にも繋がり、皆が嫌だと思って居る戦争は人類の発展に寄与し続けて来た。
男は女でもありかつ女は男でもあるように異なるものを求め合う。
だがそも、この二元性の対立とはどこから齎されて居るものなのだろうか。
そんなものは元々表裏一体にくっついたもので、わざわざ分ける必要などないのではないだろうか。
だから何故、分ける必要があるのかということなのだ。
分けない方がむしろ相反する要素が仲良く出来るのではなかろうか。
相反する要素が仲良きこと、これがこの世をうまく纏める為の秘訣ではないのだろうか。
Wikipedia-二元論
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%83%E8%AB%96
陰陽思想[編 集]
中国を中心に発達した陰陽思想では、世界は陰と陽の二つの要素から成り立っていると考える。具体的には光と闇、昼と夜、男と女、剛と柔などにそれぞれ陽と陰の属性が対応すると考えられた。この場合二つは必ずしも対立することを意味せず、むしろ調和するもの、調和すべきものと捉える。そして、一元化はしない。そういう点では善悪二元論に陥りがちな一神教の究極的には一元化するものと意味づけられた二元論と、大きく違っている。関連項目[編 集]
- 道教(タオイズム)老子は相待を説く。例えば、美は醜があるから、相反するものと比較するから、美しいのであるとする相対である。相互いに待っているとする。男と女のようなものでの二元論だ。善も悪があるからである。比較しながらも必要とする二つのものだ。
ここでは特にタオイズムでの相対補完説は面白い。
男と女は確かに全く違うものだが、男が女でもある部分はあり、そこからしても女が男である部分というものもまた確かにある。
比較するから余計に差異が生ずるのであり、比較しなければむしろー認められたー違いとして其処にただ合わさって居るばかりなのである。
善と悪も元々合わさって居る。
聖なるものと魔の世界は元々は混在一体となりし珠のようなものだ。
だから悪を知ると同時に善も知られ、魔を志向すると聖なるものがまた同時に其処に啓ける。
何かが良い、何かが悪い、というように、二元的な価値を構築することは一方通行、つまり多様性を失う方向へ歩んでいくこととなるのだろう。
其のままに其の珠を放っておけば自然現象としての自己矛盾性の範囲におさまる。
多様性は天から与えられしものが其処にあるだけのことである。
対して仏教に於いては二元論の超克が枢要なテーマとなって居る。
第一二元的な要素の和合、合一を前提に据える陰陽思想では生そのものからの脱出はならないだろう。
Wikipedia-陰陽思想
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD
Wikipedia-陰陽
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD
重要な事は陰陽二元論が、この世のものを、善一元化のために善と悪に分ける善悪二元論とは異なると言う事である。陽は善ではなく、陰は悪ではない。陽は陰が、陰は陽があってはじめて一つの要素となりえる。あくまで森羅万象を構成する要素に過ぎない。Wikipedia-陰陽より抜粋して引用
陰陽の各要素はそう分けられては居るが二元論としてそれぞれが対置されて居る訳ではない。
違って居てもそれらは一つ、ひとつながりなのである。
そういうものを、どちらが優れて居るだとか、どちらが善でどちらが悪だであるとか、決めつけられない。
実際に善は時に悪でもあり得、逆に悪は時に善でもあり得る。
そうした色んな対立的な要素も、実は二元的な対立のさ中にはない、と考えることも出来るのだ。
然し陰陽思想の齎す必然的な帰結こそが生の多様性の展開であり或は生の肯定の方へと傾き易いのではないだろうか。
そうした意味では生を肯定することからは距離を置き、また生を否定することからも距離を置いた釈迦の思想はまさに究極の人間中心主義であり一元化の上での究極的思想だ。
尚キリスト教では矢張り信仰により神と繋がることで一元化することをはかるのである。
そうした意味では宗教とは元々一元化する方向性を持って居るものなのだ。
宗教とはあくまで人間の内面を対象とした試みなのであり、だから其処で陰陽二元論的に二元的対立を緩和して居るだけでは進まないことも侭あるのだろう。
宗教の方向性とは矢張り一元性へと心理的に人間を誘導していくことにこそある。
特に仏教に於いては、二元性を突き付けられし此岸に於いて彼岸としての一元性への転換を果たすことを目標として居るのである。
しかも其の転換は自分で行うのである。修行により心を清めて、其の一元性へと解脱するのである。
其の一元性というのは仏教では仏という心の世界のことで、キリスト教では信仰に於いて神と連なりし心のことを云う。
またタオイズムでは太一というものが語られる。
一元性の世界というものは、永遠性を獲得した世界のことと必然的になる。
対して此岸としての娑婆世界では現在という現実性だけが其の主流の性質として規定されるのである。
だから我々にはまさに色んな選択肢が用意されて居るのである。
二元性を超越してこの牢獄から脱け出すことを勧めて居るのが一般的に云って宗教の役割なのだと云えよう。