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文明批判と美と心の探求と

悪の凡庸さーグローバル全体主義に就いて考える-Ⅱ

視点・論点 「ハンナ・アーレントと"悪の凡庸さ"」

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/191681.html



ハンナ・アーレントは私が尊敬してやまない女性哲学者である。


ここにもあるように彼女は悪の意味を根源にまで遡って考えたのだろうと思う。

其の悪というのは、たとえば悪魔という言葉があるが其の悪魔が全ての悪行を成して居ると考えられるのだろうか。
勿論宗教の中にはそうした考え方もあると思われるのだが、其れではどうも悪の本当の姿が見えて来ない気がして仕方が無いのである。


では悪を行うのは一体何なのだろうか。

だから其れを行うのはあくまで普通の人間なのである。


其のことを彼女は「悪の陳腐さ」「悪の凡庸さ」という言葉でもって世に示した。

かってナチスの要職にあったアイヒマンはあのホロコーストに関与し数百万の人々を強制収容所へ移送する指揮をとったのだという。


其のアイヒマンは至って普通の人だったそうである。

多少神経質ではあっても、あくまで普通のオジサンだったのだそうである。


Wikipedia-アドルフ・アイヒマン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%92%E3%83%9E%E3%83%B3

逮捕後[編集]

  • 「あの当時は『お前の父親は裏切り者だ』と言われれば、実の父親であっても殺したでしょう。私は当時、命令に忠実に従い、それを忠実に実行することに、何というべきか、精神的な満足感を見出していたのです。命令された内容はなんであれ、です。」(イスラエル警察の尋問で)[52]
  • 「連合軍がドイツの都市を空爆して女子供や老人を虐殺したのと同じです。部下は(一般市民虐殺の命令でも)命令を実行しま す。もちろん、それを拒んで自殺する自由はありますが。」(一般市民を虐殺する命令に疑問を感じないか、というイスラエル警察の尋問に)[53]
  • 「戦争中には、たった一つしか責任は問われません。命令に従う責任ということです。もし命令に背けば軍法会議にかけられます。そういう中で命令に従う以外には何もできなかったし、自らの誓いによっても縛られていたのです。」(イスラエル警察の尋問で)[53]
  • 「私の罪は従順だったことだ。」[54]
  • 「ドイツ万歳。アルゼンチン万歳。オーストリア万歳。この3つの国は私が最も親しく結びついていた国々です。これからも忘れることはありません。妻、家族、そして友人たちに挨拶を送ります。私は戦争と軍旗の掟に従わなくてはならなかった。覚悟はできています。」(絞首刑になる直前のアイヒマンの言葉)[55]Wikipedia- アドルフ・アイヒマンより抜粋して引用


これらの言葉が悪魔の言葉であるなどとは決して思えません。

これはあくまで組織に忠実な普通の人間の言葉なのです。
戦争乃至は全体主義というものは、まさにこんな風に人間を国家やイデオロギーに対して従属化させていって仕舞います。
絞首刑になる直前の彼の言葉などはまさに善人の言葉だと云ってもいい位だ。
そして彼は自らの罪が組織に対する従順さにこそあったということを自覚して居たのです。


人間の真の恐ろしさという部分がここには良く表れて居ると思います。

人間は聖の側にも寄れかつ悪ー魔ーの側にも寄れますが実は其の振幅幅は同じ位にあるものなのです。


しかも国家やイデオロギーといった大きな組織の生む考えに対しては常に服従的です。

其の様な大きなものには基本的にまず逆らえないのです。


だから一番怖いのはこうして思考停止した状態で全体ー人間の作った組織の上での全体ーに身を委ねて仕舞うことです。


其の全体は、出来れば自然であるとか宇宙であるとかまた神であり仏であるとかそうした人知を超えたものであるべきです。

そうしたものから人間が規定されるのはむしろ必然なことである。
そも我々は必然的に自然から規定されて生まれて来て居るのですから生まれた後も自然から規定されることは当然のことです。


ところが人間の作り出すものは皆規模が小さくまた不完全極まりない。

そうしたものの発する命令を聞き続けて居るとやがてはこんなことにもなって仕舞うということなのでしょう。


そして「人類に対する犯罪」を行った元ナチスの幹部は表層的な悪しか持ち合わせていなかったのです。

逆に云えば其の表層的な悪こそがまさに極悪非道なものにも繋がって居たということです。


悪の根源を辿ってみたら其れは何と普通のオジサンの従順な行為であった。

其のオジサンは妻や家族や友人を、そして故国や結びつきのあった国を讃えた上で絞首刑に処せられます。
つまり感情や情動の上からはこの悪は裁けないのです。


悪の本質とはそうした表層性であり表層的な論理性であるのかもしれません。

日頃善良振っては居ても我々には常にこうした悪の萌芽があり得るということなのです。
置かれた状況によってはそうならざるを得ないということが往々にしてあるということです。


ゆえにこの問題は客観視して居られるようなものではないのです。


そして其の悪が表層的に凡庸な人間を支配する恐さについて彼女は語った。
それこそが、全体主義のおそるべき性質であると彼女は語った。


翻って私が今考えて居る現代の全体主義についても全く同様のことが言えるのです。

悪が表層的に凡庸な人間を支配する時代は今現に進みつつあるのではないかとさえ私は考えて居ます。

勿論一番恐いのは、そして避けなければならないのは人間が思考停止して仕舞うことです。

ハンナ・アーレントは其れを回避する為に自立した思考をすることを重視しました。


然し視点・論点の方にもありますように、表層的になった社会のなかで自立した思考が孤立するときにはむしろ生きることが過酷なことともなって仕舞うのです。

かえって思考を放棄した方が余程楽に生きられるようになる。
だから其処であえて思考を保ち続けることは大変勇気の要ることなのです。




次に戦時中に日本の軍部が行った特攻作戦について考えてみましょう。
最近は戦時中のことを語る元将校の方々の証言などもあり、当時の作戦の実像がどんなものであったかということが手に取るように分かって来て居ります。


其処で強調されて居ることが、意思決定の場での同調の力の蔓延と指示、命令に対しては貫くことの出来ない精神の非自立性のことです。

要するに組織の命令に対しては誰も逆らえない訳です。


軍の上層部から一兵卒に至るまでそうした構造の中に組み入れられて居ます。

だからそも異論など唱えようがありません。
其れを言って仕舞えばお仕舞いです。


こういうのは、会社などの組織に所属する人であれば当たり前に気付かされる無言の圧力のようなものです。

其処には常に一定の色の空気がありますから、其れに対してはとても逆らえません。


ところがそうした表層的な肯定、受容が大きな過ちに繋がることがある。


そして其のことは現在でもそのままに云い得ることなのです。

現在を推し進めて居る現代の主義主張が全体主義に繋がらないことを私は切に祈りたいと思って居ます。
然し表面化、表層化した意識の流れの中其の全体主義は確かに進んで居るようにも思われるのです。


其の傾向に対しては決然とした態度でもって精神の自立性を保っていくほかないのではないか。

自ら考えることの出来る立場を貫くことこそが最も大事なことなのです。


私が今やって居ること、そしてずっとやりたいと願って居ることとはそうした大きな部分での人類の癖のようなものと戦うことです。

或は其れは私自身の内面の闘いでもまたある。

自分は、自分の内面は、否応なくそうした不純性、矛盾性と繋がって出来ているものなのです。

社会的な自我のようなものと自らの心とは明らかに繋がって居ます。


其のように考えられる人は或は少数派であるのかもしれない。

然しわたくしは其のことを事実自覚して居るのですから、たしかにこんな風に今を闘って居るほかはないのです。