目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

存在への信仰としての愛




愛ということにつき考えることは、これはもうまさに一番難しいお話しです。


第一そも愛は考えるものではないのかもしれない。


其処をあえて理屈でもって言えば、愛は存在するということと密接に結び付く心の働きであるとも申せましょう。



ですので存在というのは、ズバリ愛なのです。

存在とは愛のことなのです。



愛無くして存在はあり得ず、愛無くして死もまたあり得ない。

そうした何か生臭いものを其処に感じて仕舞う訳です。



あくまで仏教徒のわたくしとしては。





もっとも生臭いから、生きて居るのです。

生臭くはなく生きて居る者は此の世には居りません。


ですので我々は皆其の生臭野郎ばかりです。




元々わたくしは其の生の生臭さが鼻について仕舞う方の人間でした。

謂わば特殊な嗅覚の持ち主として生まれて仕舞ったのです。


わたくしの生の本質はそうした特殊性との闘いにこそあったのです。




小さい頃からはっきりと変わって居て、普通人には見えないもの、心配しなくても良いようなものがつい見えて仕舞い心配して仕舞うような性質だったのです。

実は肉体的にも色々とあり、其れは障害の域にまで達するものではないにせよ自分にとってはまさに負い目そのものでした。


また肉や魚を体が一切受け付けなかったのです。

肉や魚を食べるようになったのは多分中学生位からです。



ですのでわたくしは幼い頃からもっと普通でありたかったのです。

今でも矢張りどう考えても普通ではないように思われるのですが現実的には其処はどうなのでしょうか。


またわたくしには文字や数字、特に数字に色が感じられるのですがそうした感覚を持つ人は非常に少数派なのだそうです。

其れが共感覚というものです。




かと言ってわたくしは天才的な感覚の持ち主でもなければたとえば東大や京大へ入る程の頭の良さもない。

ひとつだけあるのは、物事を深く捉えて考える癖があり、それと同時に孤独癖があるということでしょうか。





わたくしはゴチャゴチャしたものがそもキライなんです。

真っ暗でもって完璧な静謐とか、森閑とした森の中とかそうした心理的に波風の立たないものの方が好きなのです。


即ちうつ病か何かか、其れとも精神病質なのやもしれぬ。

ですが実際には精神病はなくただかなりに神経質なだけです。





またぞろ自己紹介の為に少し脱線致しましたが、兎に角そんなわたくしには愛というものが本当に分かりにくいものだったのです。

何故ならあくまでわたくしにとっては愛とは生臭いものでしたので、そんな生臭いものに何故皆が群がりたがるのか、そも其処が良く分かりません。




そんな訳で生まれつき仏教徒だったわたくしは、ほんにそのままで愛などとは縁遠いところでの謂わば聖なる領域での人間だったのであります。

否、実際には決してそこまでいって居りませぬが中学、高校、大學と余り恋愛などにも興味が無かったことだけは確かです。



然し、そんなわたくしも意外とHで、小学四年生の頃と小学六年生の頃にすでに恋愛を経験して居たのであります。


然し、其処に於ける愛は謂わばまだ肉体化されていないことだろう未熟な精神に於ける愛で、しかも良家のお嬢様ばかりを好き好んで口説いて居りました。


いや、何せ若年のことゆえ口説くまでには至らず、ただ彼女達に憧れて文通などをして居りました。


この二つの愛こそがわたくしの生涯に於いて最も美しい愛で、それこそ肉体の不浄の門を超越せし究極の愛ではなかったろうか。




其の後其の肉体の愛をも含めてとある女性と長きに亘り付き合いましたが此の十五年程は其れもご無沙汰です。





然し今わたくしは愛は大事だと考え始めて居ます。


愛は存在にとっての構築です。


あくまで矛盾的構築なのでしょうが、愛は存在を存在たらしめるに必要な必要悪です。


ですので愛は悪なのです。

構築だからこそ悪なんでしょう。




仏教に於いてはそうなのですし、キリスト教に於いてもエロースはアガペーの前には否定されるという点では悪です。

アガペー即ち神の愛、神への愛は普遍化されていきます。





存在という限定を、其の限定の有限性を解放して呉れるのは矢張り愛です。


ただしあくまで現実的に解放して呉れるということです。



たとえば愛する人が居れば自然と力が漲って来るものです。


または世界を愛して居るのであればまた違った意味で自然と力が漲って来るものです。



ということは、愛とは力です。

力があるから、生きられもする即ち存在して居られるのでしょう。



対して力が無いと、死にます。

即ち悪ではない方向とは、死人の方が近いのです。


死の方向に近いのである。





だから生であり構築である力こそが愛の正体です。

もっとも其れは矛盾化するので少しでも其の寄って立つ範囲が大きくなると破壊に繋がります。



ですので宗教は其れとは次元の異なる愛を、矛盾化しないだろう愛を峻立させていきます。

あくまでキリスト教などに於いては。





ですがわたくしが今考えて居るのはより現実的な愛の構築力のことです。

或は存在への全的な委任のことです。



何を委任するのかと云えば、本能を委任すること、まさに悪としての本能を信心せしめる其の力のことです。



ですから本能というものがわたくしには良く分からなくなって来て仕舞って居るのです。

謂わば無償の母の愛というものが、良く分からないのです。

ー尚わたくしの場合は母の愛を無償の愛とし、神の愛を不朽の愛と表現していくことに致します。ー





Wikipedia-アガペー

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AC%E3%83%9A%E3%83%BC



ギリシア語には「愛」を表現する言葉が基本的には四つあり、エロース (ερως[3]、 性愛) 、フィリア (φιλια[4]、 隣人愛) 、アガペー (αγαπη、真の愛) 、ストルゲー (στοργή[5]、 家族愛) である。
エロース古代ギリシアにおける神聖な神であり、また「性愛」や「肉体の愛」を典型的に意味した。エロースは文化人類学的にも良く知られるように、女性生殖神秘であり驚異であり、神聖なものであった為、と見做されたのであり、それ故、生殖の前提となる肉体の交渉での愛を必ず含意した。情欲的な愛、自己中心的な愛を意味し、聖書では用いられていない。
フィリアは、親子、兄弟、友人間の人間的ではあるが麗しい愛を表すのに用いられている。
Wikipedia-アガペーより抜粋して引用




ストルゲーを多分に持ち合わせし人はエロースの方も強くあり、かつ自己愛の方も強い。


と其の様に感じられたのはわたくしの上司を四年間観察させて頂いて初めて分かったことなのでした。


ですが結果として其の様な人の方が人間的であり温かみがある。

要するに一緒に居て疲れない、むしろこちらのいつも張りつめて居る気分をリラックスさせて呉れるのであります。


論理的には愛は悪であるにせよ、また女性の生殖が悪であるに過ぎないのであるにせよ、
愛の構築は論理を超え悪を超え現実即ち存在を生み出していきます。



生は悪なのかそれとも何か神聖なものなのか、といった根本での問いが其処に生じましょうが、そうした概念上の区別を無力化して仕舞う程に現実の上での存在の力即ち構築の力の存在は大きい。



其の構築力を象徴するものが存在への全的な委任であり信仰であろう女性の生殖のことです。


男性が子を産むことが出来ないのは、此の構築力の差に理由があるのではないだろうか。

女性は本能により深く捉えられし分、或はより深い信心を存在に対して持ち合わせて居るだろう分、男性よりもずっと強く存在に溶け込み其処に愛の無償性を獲得するのでありましょう。





対して男性は本能領域での構築力、信心の力が本質的に弱い。

だからこそ観念にて武装する必要があるのだろう。


謂わば観念は男の武器なのだ。


そして其の観念こそが今のステルス戦闘機や最新鋭の戦車などを生み出して居るのだ。





女性がステルス戦闘機や最新鋭の戦車などにほとんど興味を示さない事実には以上のような理由があるのだろう。

其れからF1マシンや腕時計などにも女性は余り興味を持たない。




逆に猫の子や人間の赤ん坊などを目の前にちらつかせるとそれこそ大騒ぎである。

だから其処には存在に対する信心、全的な委任のようなものがどうもある。




が、わたくしは最近わたくし自身に最も欠けて居るのはこうした本能領域での構築力、信心の力なのではないかと思い始めたのである。


だから女にモテない、否、現実的な意味での構築力に欠ける、のみならず弱い、詩人なので元々死の方にも近い。





其処でわたくしもあえて自分をエロース化しエロオヤジになりたくも思う。

また其のエロオヤジをひとつ昇華せしめストルゲーオヤジにでもなれたらもうこんなに嬉しいことはない。




  
他方で本能とは煩悩のことですので、これを滅していくことこそが仏教に於ける構築なのです。

これは謂わば愛の構築の力とは正反対の意味での構築の力です。


ですので本来の仏教では生殖もまた精神的な愛も皆禁止です。




あくまで成道する為にはあるゆるものに拘りがあってはならないのです。

ですが禁止ということそのものに拘り生涯童貞でいったとしてもーかの宮澤 賢治がそうであったそうですがー実は其れ自体が拘りであり其れでもって成仏出来るという保証はない。


認識の上でプラスにもマイナスにも寄りかからず観念さえをも滅して仕舞うのが釈尊の説いた真理なのですからマイナスの方ばかりをいつもやって居れば良いというものでは実はない。



本来の仏教で生殖や精神的な愛を皆禁止するのは、其れを行うことで其処に存在に対する愛着が生じて仕舞うからなのである。

生への固執、性への固執即ち存在への固執を限りなく滅していくことこそが仏教に於ける本義なのですから。




ですが其れはあくまで自らが仏となる為の精神的な作業なのである。

自らが仏となることを第一義的に考えない在家の仏教信者は生殖や精神的な愛を禁止されて居る訳ではないのだ。

またそうでなければ、百年で家族は滅び国も滅び文明も滅びる。




そうした愛の構築の力こそが存在を継続させて居る。

謂わば女性の子宮の力こそが現実的に存在を成り立たせて居る。

だから其れが存在への信仰の力ではないかと考えるほかないのである。

ーただし其れはあくまでエロースの領域での愛の力であるー