言葉による檻の形成の問題は畢竟人間存在にとっての本質的な命題です。
人間とは何かと問うていけばやがては此の言語による概念としての知、言語に寄りかかった世界観、解釈と云う部分に突き当たる。
然しあくまで言葉は本質的には虚のものであるに過ぎない。
言葉による世界との関わり方自体が虚、即ち戯言の類のものなのです。
然しわたくしは其処で考えました。
まさに其の戯言のさ中に考えたのであります。
謂わば逆方向での知、と云うようなことを考えた。
人間と云うのはそのままでは真理が見抜けないカタワの知の所有者なのであるから逆に其処でもうひとつ考えを重ねておく方が逆に楽になるのではないか。
などとも思いました。
だからわたくしは虚の観念のさ中でさらに考えを進めよ、とそう申して居るのです。
思考放棄、などとも確かに禅家などはそうも申しますが此れはあくまで現代人には当たらないものである。
何故なら現代人はすでに思考を放棄するに至って居る。
第一現代人はすでに自由でしかも平等で諸権利に守られて居ります。
そんなところに考えに考えて狂い死ぬというやうな、そんな純粋な思考が成り立つ筈も無い。
どだい現代人は皆バイアスのかかった思考しかして居りません。
TVとかで色んな評論家や大學の先生方があれこれ述べて居たりもしますが其の発言の内容はハッキリ言って可成にレヴェルが低いです。
何故なら其処にバイアスがかかって仕舞って居るからです。
所謂社会的な立場上のバイアスが。
ではお前は、お前の思考はバイアスがかかって居ないのか?
と言われれば少し自信が無いがわたくしのはもう哲學ですから、哲學。
または文學ですから、文學。
要するにわたくしの思考にはしがらみが無い。
其れと生活とも無関係だ。
プロの作家とか詩人などは言ったら金にならないことは言えませんがわたくしは何ぞ言う事で金を貰って居る訳では無い。
其れにあくまで自称の詩人ですから、自称の。
だからもう何でも言えますわな。
其れで、兎に角、其の逆方向知と云うことを考えた場合にそれこそ逆に言語の重要性が増すであろうことに気付いた。
言語による構築主義が齎す危うさ、即ち自己矛盾領域が逆に本質から遠ざかることでのみかろうじて成り立つことに気付いた。
然しあくまでかろうじて成り立つだけなのです。
どだい人間の生と云うもの、文明、愛、精神、などというものはそんな風にかろうじて成り立つだけのものです。
其れも数千年も前からそんなものだったのです。
人間とはそうした莫迦=真理と反対のことをやることでしか今を生きられない可哀想な生き物です。
ですので其れが哀しいと言って居ります。
菩薩の心から見るとまさに其れが哀しいのです。
言語が檻を形成し人間自身を閉じ込めるなんてことは元々乗り越えようのない人間にとっての課題です。
言語のお化けが文明ですから、文明が檻を形成し人間自身を閉じ込めると言い換えても良い訳です。
此の根本の命題につきかって仏教哲學の方でも様々に論じられて居ますが幾ら仏教でも言語そのものや文明そのものを否定してかかる訳にはいきません。
また廿世紀は哲學の分野で此の言語の問題が盛んに研究され所謂言語論的な転換が其処に模索されたりもした。
廿世紀末の構造主義による言語論的な分析はまさに此の言語論的な転換を目指したものだったことだろう。
然し人間は言語を超えられよう筈もないです。
超えられる筈がありません。
事実として人間は言語以外の何者でもないのだから。
ですので其の倒錯は倒錯のままにむしろさらに考え込む、其れも言語にて考え込むべきではないかとわたくしなどは逆にそう考える訳です。
そんな訳でわたくしは今逆に言語には意味があると考えて居ります。
ただし言語乃至は文明に全幅の信頼を寄せるのは良くない。
どだい仏教による思考の核心には此の概念の放棄があり其処からしても言語への執着が深まれば深まる程に真理から遠ざかる即ち心が穢れていくことは明らかです。
されど言語にはそうした傾向を振り払い謂わば言語自体を脱構築する何らかの領域が存在するのではないか?
などとも最近考えて来て居ります。
重要なことは言語による構築が虚の世界のことであるにせよ、或は文明の営為が須らく虚の物語であるにせよ、人は其の中でこそ最善の居場所を構築する他はないと云う事である。
http://thesaurus.weblio.jp/content/人生字を識るは憂患の始め
一方で言語を知ることは憂慮の始まりでもまたあり得る。
或は言語にて考えることは苦である。
ゆえにほんたうは言語放棄こそが其の本質的解決なのですが、言語を止めることは同時に人間を辞めかつまた文明を止めることでもある。
だから其の止められない言語による解釈を最大限に変化させていくしかない、と申して居るのです。
また考えないで居られないのが人間の常であり性だ。
そういうのは治せないから言語の限界につき考えるのではなく言語の癖=現実につき考え言語の範囲自体を正していくべきだ。
丁度宗教がかって行いしやうに、言語領域の理性化、整序化は必ずや其処で成る筈です。
言葉の虚妄性は、言葉を深いレヴェルで操る者にとっては最も切実な問題として常に突き付けられたものです。
よって言語の本質は虚ですが、其れは文明の本質が虚でありかつまた人間の本質が虚であることと違わぬ事実です。
なのでむしろ其の虚としての構築を突き詰めなければ何も見えて来ないのではないか。
或は詩は、其の詩としての言語はあくまで虚妄の構築物に過ぎぬものであるにせよ、其処に実存としての真実が、あくまで真理ではないが其の虚の生命としてのあがきのやうなもの、其の最後の悪あがきみたいなものがないとは言えずわたくしは近頃そうした部分を中心にして詩乃至は文明が組み立てられぬものだろうか、ということばかりを考えるやうになったのです。