目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

武士の刀には一分が宿る


ボロ雑巾になって捨てられる社畜たち
http://news.yahoo.co.jp/feature/188


今はどこでも労働環境が劣悪で安心して働けるような資本主義社会になって居ないのである。


ならば其れは何故か?

特に日本の場合は、米国流の資本主義社会に追随、迎合し日本型の温情ある資本主義社会を切り捨てて来たからにほかならない。


我々五十代後半の世代が大学を出た頃は、就職先など幾らでもあったししかもほぼ全部が正社員として就職出来たのであった。


だから我々は今と比べれば遥かに恵まれた資本主義の環境に生きていたのだと言える。

多くの企業により日本型の温情ある、また家族的かつ終身雇用としての資本主義社会を構築していたのだった。

またたとえ転職を繰り返しても、其の頃は正社員としての再就職が概ね可能だった。




ところが今や、其の正社員としての就職すら難しく、かつ上にもあるように企業の「社畜」として長時間労働や体と精神に多大な負荷を強要する労働環境が強いられる事案が頻発するに及んで居る。


では何故こんな非人間的な労働環境が強いられて居るのだろうか。



元々、文明社会は人間をしてなるべく楽に暮らせるように考えて諸の仕組みを制度化していくべきものではなかったのか。

ならば我々が若かりし頃より三十年の年月が経過した今、何故そんな風に前時代的で過酷な労働環境の元多くの人々が苦しんで居なければならないのだろう。



其れは、無論のこと哲学的に云えば矛盾だということとなろう。

社会的な矛盾が其処に厳として存在して居るのである。



いや、労働環境に限らず人間の生きる生とは元々全的な矛盾の過程でしかあり得ないのである。


第一人間が栄え文明を形作り其れを発展せしめれば必然的に自然は破壊され衰退の憂き目に遭うことが明らかなのである。


だから文明自体が或は人間自体が其の矛盾そのものである。





一方では自然もまた矛盾なのだが、人間の場合は自然が抱える矛盾よりも余程にタチが悪くまさに二重、三重に矛盾を推進しつつ生きて行く者だと言わざるを得ない。


第一資本主義社会自体が其の矛盾の履行そのものなのである。


資本主義社会はやがては地球を食い潰し、破壊し尽くすことだろう。



然し確かにかっての社会はこんなではなかった。

もう少し全てに余裕があり、たとえ失敗をしても努力すればやり直せる社会だった。



だが今はどうだ。

まさに其れどころではない社会である。


失敗はもはや出来ないし負ければ生涯負け組として生きざるを得ず其れで終わりである。


さらに結婚すら出来ない。


結婚するには安定した職や収入が是非必要だが其の安定した職や収入は社会の負け組となった人々には決して用意されて居ないのである。


即ち究極の差別的な世の中の到来である。





幾ら護ると云ったってこんな腐った社会を護る気には誰もなれないのであり、だから早晩資本主義社会が崩壊するのは必定であり其れは格差の著しい拡大の果てに必然として其の様な結末を迎えるのである。


資本主義が矛盾であるにせよ、自分たちが生きて居る間其れが普通に続いて居るのであればむしろ誰も文句は言わないのである。


即ち自分が生きて居る間だけは何とか持ちこたえて欲しい訳である。





第一人間死んだらとりあえずは全てが終わりである。

其処にはもはや自分も居らずましてや女房も居らず子供も居らず親族や友達も居ない。


だから死ぬまでを何とかして呉れれば其れで御の字だ。


百年後の人類や文明のことなんてもはや誰も考えて居ない。

考えて居るのは學者や作家、宗教家ばかりのことである。





勿論我々の孫子の代には阿鼻叫喚の地獄が待ち構えて居るにせよだ、其れを直接確認することの出来ぬ我々には其れは現実的な問題とはならないのである。


まあ然し其れはあくまで一詩人の考えに過ぎぬもので悲観的に過ぎる観測なのかもしれない。


然しである、然し最近の社会の動きは余りにも酷い。




事実として其れは酷過ぎるのである。

謂わば全てが苛烈な社会である。


つまるところは合理主義が其の様な偏ったものばかりを生み出して居るのであろうが。





そんな世の中ではあるにせよ其処で体制の維持、社会の存続を乞い願うということは護る即ち防衛するという自己矛盾的作業のことなのである。


即ち防衛とは、または保守し、維持管理するということは必然的に劣化乃至は破壊されていかざるを得ないものとの戦闘なのである。


たとえば真理レヴェルに於いてはそういうものも全て無駄なあがきであり無駄な努力であるところの自己矛盾過程である。


歴史自体が其の自己矛盾過程であり人間自体がまた理性自体が其の自己矛盾過程である。



だからそういう無駄なあがきであり無駄な努力であるところの現在及び現在へ連なる過去を指して人間の構築物であると云うのである。



歴史と文化であるとそう云うのである。



だから人間とは歴史的文化的に自己を地球または宇宙規模に於ける劣化乃至は破壊から切り離し構築しているものでもある訳だ。





ただし其の構築は矛盾的構築にほかならない。


何故なら生の本質は其の矛盾にこそあるからなのだ。


生の本質とは其の矛盾である。




であるから保守し防衛することは恰好良いことなのではなく即ちかの楯の会ナチスの軍服の如くに凛々しいものなのではなく、また数々の兵器の如く に一見美しく見えるものなのでもない。

本質的には防衛とは無駄なあがきであり無駄な努力であるに過ぎないのであるからして。


然し其れが其れこそがまさに人間なのである。



無駄を構築し現在という幻想を抱き其の現在を防衛するのが人間の性なのである。




たとえば封建時代に於ける武士の生き様がまことに美しく見えるということは確かにある。


ちなみに最近浅田次郎の一路という時代劇ドラマをTVで視たのだったが其処に描かれる武士というものは矢張り精神として美しい。

そう云えば暫く前にそうした部分を描きし映画が数々つくられ人気を博したりして居たものです。


そして無論のことわたくしもそうした映画が大好きでした。




即ち本質として矛盾であり破壊であるものに対する防衛こそが武士の本分であり精神でもある。


従って武士の闘いとは単なる戦闘には非ず、其の本分とは人間の防衛にこそ存する。



人間を防衛する者が武士である。


また人間の体制を存続させるものが武士である。



従って武士とは単に武力にて戦う者を言うのではない。


体制を維持し人間を防衛したいと考えて居る知識人も謂わば皆其の武士なのである。




尚わたくしは武士かどうかと問われれば武士ではない。


何故なら人間を防衛したいとは考えて居らず、第一全てが自然の成行き任せが理想なので無駄な労力を使いたくない、いや、決して使ってはならぬ、人為による如何なる構築も其処にはあり得ず、ただ純粋な矛盾的構築物としての現在に於いて其の矛盾を矛盾としてありのままに見つめる文の人として世に立つばかりなのである。




ただ武士は嫌いではない。


武士こそが社会であり歴史であり女子供と爺ちゃん、婆ちゃんを護る者であるという点につき同情するのである。




生の矛盾は必ずや履行されよう。


社会がそして歴史こそが其の矛盾である。


本質としての矛盾は我々の母ちゃんの腹の中に元々埋め込まれて居り、従って世に出でしあらゆる生命が其の本質として矛盾を宿す。


また其の生命が感じかつ考え発する言葉の全ても須らく矛盾の産物である。



あらゆる言葉が矛盾であり、あらゆる光景が、また防衛が、即ち無駄なあがきであり無駄な努力であるところの現在及び現在に連なる過去こそが矛盾である。



だから其の矛盾的推進こそが生の本質なのである。



生の本質こそが矛盾である。





重要なのは、其の矛盾の本質の中に埋没して生きることが得策かどうかということである。


例えば矛盾という本質を避け矛盾ではない領域を生き直すことこそが宗教に於ける本義である。


だから其れは矛盾であり破壊であるものに対する防衛、または体制を維持し人間を防衛したいと考えて居る訳ではないのである。



即ち宗教とは本質を問うものでありただ闇雲に人間を防衛するものではないのである。


であるから宗教の中には否定もあり破壊すらもまたある。


ゆえに宗教が拡張されると必然的に其処には戦闘が始まって仕舞う。



宗教は真理を見据えたものであるだけに其の様なこととならざるを得ない。


つまるところは宗教は武士とは違い、女子供を或は人間を矛盾から護るものではないのである。


むしろ其の矛盾をこそしかと見つめて究極的に人間を解放していくもののことなのだ。



封建制は人間を矛盾から護って居たのだと結果的には言える。


然し封建制自体が劣化であり矛盾である。


ゆえに封建制に於ける防衛は崩され、近代という新たな防衛の世界が訪れたのだった。




だが此の近代という防衛こそが究極の歴史的自己矛盾過程であった。

近代は自己の防衛を推し進めたのではない。


其処で合理性のみの防衛を推進していったのである。

合理性というのは、近代思想が生み出した人間を護る為の究極の兵器であった。





ところが合理性は暴走するのである。


合理性による文明の防衛は、必ずや暴走するに至る。


かって封建時代には武士の刀こそが唯一の武器であった。


其の美しき刀身の一閃にて、人間は本質としての生の矛盾から辛うじて護られて居た。


然し現在人間は其の矛盾から護られて居ないのである。


あくまで本質的には其の様なこととなろう。





何故なら合理性自体が刃と化して人間の矛盾を増大させていったからなのだ。


其の様な巨大な矛盾の領域に人間をして貶めて行ったのである。


即ち本質的矛盾が其処に拡大、拡張したのである。





武士の刀は、あくまで人間を矛盾から護る為の楯であり人間の推進力としての刃であった。


ところが合理主義による刃は、人間自身に向けられし自決としての刃なのである。


いや、自決ではない。


ただの自殺である。


或は自滅である。




自決は、其れは武士の本分であり本懐でもあるが、自滅は武士の本分では無い。



合理性の推進は其の様に歴史の維持を、人間の防衛を鑑みて為されることではない。


人間の防衛、即ち矛盾との戦闘を行うのは武士の刀の力であるが近代以降の戦闘は人間の防衛、即ち矛盾との戦闘の為にではなくあくまで合理主義の推進、合理主義の防衛の為にこそ行われるようになったのである。





防衛されし合理主義は必然的に巨大化の流れを辿り、封建時代の共同体を破壊し国民国家を現出させた。


国民国家で大事とされ得ることは、国家の防衛であり国力の充実であり経済的な発展である。


従って其処では武士が矛盾から人間を防衛するという其の防衛の本義を越えて合理性自体の防衛が国家レヴェルで行われていくこととなる。






まさに其の防衛こそが虚の防衛である。


其れは謂わば大き過ぎる防衛なのだ。


人間の持つ自己矛盾領域を最大化せしめていく上での防衛なのである。



だから其の防衛こそが謂わば自滅の為の防衛なのである。


武力即ち防衛力とは、封建制までの歴史過程に於いてこそ人間を矛盾から護る楯となり得るものなのである。



人間が矛盾としての生を矛盾として歩まざるを得ない以上、防衛即ち歴史としての構築の力はどうしても必要である。


故に歴史とは防衛の歴史なのである。


矛盾からの防衛の歴史そのものなのである。


然し其れでは矛盾自体は解消しないから、つまり本質的には矛盾から逃れられないからこそ宗教のレヴェルでの矛盾からの防衛が是非必要となるのである。





即ち究極的には矛盾自体を武力でもって解決に導くことは出来ない。


矛盾そのものを解体していくことは、あくまで其れは高度に精神的な作業なのである。


然し武士の刀には一分の力が宿り、其れは矛盾からの防衛であり体制の維持であり歴史の推進力、駆動力としての刃であったのだ。


其の美しい刀の閃きと、合理性の御用武具としての汚らわしき近代兵器との間には大きな隔たりがあろう。






だから近代兵器は須らく汚らわしい。

原爆や毒ガス兵器は皆汚らわしい。


かの零戦やF-22なども恰好良く見えながら実は汚らわしい。


文の力に比せばどうしても汚らわしい。





されど文の力は究極的には人間を矛盾から解放しない。


其れは謂わばただ矛盾を矛盾として見定める力のことである。


或は宗教にしてもだ、其れは時と共に劣化し矛盾から人間を救う梯子とはなり得ないのだ。


また懐疑が邪魔をするから、其の様に知識人は宗教にて救われることが難しい。






矛盾とは自己そのものであること。


まず其の事を知らなければ防衛とは何かということを語ることなど出来ない。


煎じ詰めれば人間の防衛とは歴史の防衛である。


武士の刀は其の防衛を確かに為して居た。





然し近代以降の防衛はむしろ自己を滅ぼす為の防衛をこそ為して来ていよう。


つまるところ真の防衛とは前近代まででしか成立しないことだったのである。





また今人間は余剰を生き過ぎて居る。

防衛も、長生きも、安楽も、全てが余剰である。


余剰の生はゴチャゴチャして居るばかりでちっとも美しくなどない。


すると人間は老人になって仕舞ったのだろうか。


そうだ、まさに強欲ボケ老人になって仕舞い、まさに皆が言いたいことを言い、まるで利己主義で、まるで強欲で、まるで動物そのもののようだ。


我々は皆動物だ!タダの合理主義のドレイなのだ。



   

合理主義とは、本質的には其れは人間を即ち歴史を維持し護るものではない。


だから合理主義に寄りかかりし右派も本質的には其れは右派ではないのである。


真の右派というものは、国民国家という近代的なシステムを護る為のものではない。


真の右派というものは、まさしくかっての武士のことをそう云うのである。


刀でもってして矛盾という敵と刺し違える、これこそが真の武士である。


従って自衛隊は真の武士だとは言えない。




だから其の刀をこそ持とう。


許可を受けた上で是非刀など持ち武士のことなどを勉強しよう。


だがわたくしの武器は刀ではない。


わたくしの武器は知である。


知というよりも思考である。


考えることだけがわたくしの武器なのだ。




合理主義の履行が本質的には防衛ではなくむしろ破壊であることをわたくしは指し示して来た。

其れがわたくしが考えに考えてみたところでの結論である。


人類に楽を齎す筈の合理主義は其の様に最大の自己矛盾領域に於いて逆に刃と化して人間を傷つけるのである。


近代的な軍隊が人類を根こそぎブチ殺す力を持って居り、世界にばら撒かれし原水爆が地球を木っ端微塵に破壊して仕舞う力を持って居ることからしても其れは自明のことなのである。





其の様な様をつくったのがまさに合理主義だということなのである。


其れで真の右派ならばそんな近代兵器で戦うのではなくかの武士のように刀でもってして防衛せよとそう言って居るのである。


近代兵器でもってして戦ってもそんなものは本物の防衛ではないとそう言って居るのである。



だが普通の左派とは違ってわたくしは武士の分というものを認めるのである。


のみならず其れが美しいとさえ思うのである。



でもひとつだけハッキリして居ることは、わたくしは合理主義の世界に対しては完全な左派であるというそういうことである。

其れを完全に否定するので、さて、困ったな、矢張りそのうちに文明世界から撤退して仙境に引っ込むか、或は逆に全ての思考を捨ててタダのボケ老人になるか、多分其のどちらかの選択となることだろうが、いずれにしても其れは余りにも世間離れした選択なのでもう本当に困ったなといったところではある。