目覚めよ!

文明批判と心の探求と

ベートーヴェンのピアノソナタで癒される


藝術とは幻想である。

何故なら神仏以外のものを信心せしめることこそがまさに幻想なのだから。


   
藝術は近代に似て居る。

限りなく明晰に対象を見つめるという意味で。


然しわたくしは今藝術にさえ懐疑の目を向けて居る。

藝術の自由と近代主義に於ける自由のあり方は一種良く似て居る。



自由というのは、本当は自由ではない。

自由であると思い込む即ち幻想を抱くことこそが自由という思想の淵源にはある。




生は自由ではない。


また生は表現でもない。


生は生活であり苦である。




生活ということは、美ではない。

むしろ醜に近いことなのである。


近代主義と藝術の犯した過ちは社会と生活に於いて美を求め過ぎたことだ。



多くの藝術家は、生自体を美的に自己構築する。


其処では自己構築した世界こそが彼の美的な宇宙なのである。


だがわたくしの構築は自己構築でもなく美の構築なのでもない。



むしろ何も構築しないことこそがわたくしの成し得る唯一の構築なのだと気付いたからなのだ。

だから何も創らないし元より超克すべきことなんて何も無い。






わたくしはかって美に、其の美にこそ深く捉えられて居た。

美こそが唯一の構築物たり得るものなのだとそう信じ込んでも居た。



しかしながら美ほど儚いものはない。

美とは即ち刹那の生殖であり、まるでかの植物の生殖器である花のようなものなのだ。

そう美とは刹那のエロースの別名である。



生殖とは生に対する信心である。

藝術にも其の信心が宿って居ないとは言えないのである。

たとえ其れが生と死を深く見つめ切って居るものなのだとしても。




それから、藝術と近代主義はいつしか結託して権威的ヒエラルキーの世界をも構築して仕舞った。

故に藝術にも等級があり近代主義にも等級がある。


然し藝術とは元より等級を前提として成り立つものではない。

等級を前提として成り立つものへのアンチテーゼこそが藝術の領域であるべきものだ。





いま一度述べるが美は儚い。

詩人は何より其の事実をこそ知って居る。


女の美が、男の美が、花の美が、作品の美が、実は皆儚い。


いつしかそうした儚いものがわたくしは嫌いになったのである。

儚くはない人間の作品とは何かと問うてみたところ、其れは藝術ではなく宗教だったのである。





確かに美は生と死、性と死を結びつけるなにがしかの役割を果たしていよう。

然し其れは刹那の合一であり一元化である。


性に於ける刹那の合一が決して永遠に続くものではないように、藝術に於ける美の追求もまた無限としての一元化なのではない。





むしろ一元化したくとも出来ないもの、醜い様をなして地の上を這いずり回るもの。

まるで虫けらのように程度の低いもの、美を求めないもの、自由すら欲さないものこそが偉大な思想である。





貴方様やわたくしがこうして日々もがきつつ生き、そして藝術にも無縁で大金にも無縁な其の様こそが美しいのである。


生は自由ではなく、まして美でもなく宗教でもなくまた学問なのでもない。


そうしたものこそが其の意識性こそが我々をして真に醜く変えていくのである。



無学でもってして何も考えず、美しいものに心奪われる訳でもなく、良いものや高級なものにほとんど興味はなく、適度に卑猥で、また適度に俗物で、 あらゆる概念に無頓着で、あらゆる大きな欲からも見放されて居る。


そうした人こそは真に高級な人間なのではなかろうか。






藝術は人間を救えない。


ただ人間を慰めては呉れる。


其の慰めはあくまで刹那である。



だが生とは刹那の連続である。


人間としての刹那の構築の連続こそが人間の生の内容である。


構築した現在の積み重ねのみが人間に成し得る唯一の構築なのだ。



故に其れは幻想に過ぎぬものなのだ。


明らかに事実でもなく実体でもないところでのものとしての。


藝術とは此の地球という時空に花咲きし仇花のようなものだ。






其処で生を見つめ、死を見つめ、美を追い求める。


藝術は生と死を、或は性と死を結晶化させ対比させる。


確かに其れは美しい。


まさにあの額の中の絵画のように美しい。


まさにあの耽美的な小説の一節の如くに美しい。




されどわたくしは今絵画でもなく小説でもない生活そのものを生きて居る。

わたくしは今のこの生活こそを至上の美のあり方だとそう捉えるのだ。





生活、労働と其れにより齎される苦、そしてノーマルな意味での生殖、其れらの全てが神聖であり、同時に陳腐であり、また深き信仰の源としての尊敬すべき生の内容でもあり得る。

其れは藝術なのではなく、つまり気取ったピアノソナタや絵画なのではない。

さらに小説でもなく詩でもなく、まさに其れは謂わば生身で書いた詩なのである。





そうした詩こそがわたくしの心身にとって今必要なのである。


謂わば観念では無い詩の世界こそが。




そうとは言え、どうしても花には惹かれる。

美には惹かれる。




其のあざといエロースの誘惑には抗し切れぬかのように惹かれる。


だから惹かれる時は惹かれて居れば良いのだ。


わたくしの生はそんな高級でも何でもないつまらない生である。


是非そういうことにしておきたいのである。






さて昨日わたくしはピアノソナタを聴きにいって来た。


ちなみにわたくしはベートーヴェン以外のものは聴きにいかないのでまさに其れを聴きに行って来たのである。



其れは東京芸大の非常勤の講師である伊藤わか奈さんの地元お披露目での演奏会でもある。


すでに都合七回分、二年半の長きに亘り其れが行われて居て、わたくしは二、三、四、六、七回目と訪れて居る。


   


   


ベートーヴェンピアノソナタは、まさに分かる人には分かる素晴らしい藝術である。


わたくしとベートーヴェンピアノソナタとの付き合いは長く、かれこれ四半世紀にもなろう筈だ。

でも矢張り生の演奏を聴くことは貴重な体験である。


日頃忙しくして居てパソコンや本に向き合う時間は何とか取れるがピアノソナタを聴きに行く時間のないわたくしにとって其れはまさに甘露の時間なのである。




でもあくまで藝術とは幻想である。

どんなに素晴らしいピアノソナタの演奏も人間に許されし刹那の構築の連続であるに過ぎない。


だから其れはあの花々のようにすぐに萎んで仕舞う。

藝術として出された音は残らないから、すぐに消え去って仕舞う。




まあ其処は幻想であるからこその藝術なのだ。

宗教のようには其れは信心出来ない。

されど演奏家の心の中には常に信心の炎が燃えて居る。

藝術に対する信心の炎が燃えて居る。




藝術は、生に対してのエロースをひとつ引っ提げて居る。

其のエロースの力により音を奏で色を塗り文をものすのだ。


藝術とはまるでかの生殖器である花の様にいやらしくかつ可憐なものである。

まるで男性神の如くに宗教は突き進むが、対する藝術は常にそうした女神に奉仕し続けて居る。





藝術は優しい。

おそらくは幻想であるから優しい。


もっとも生活者としての強い気概や自負には欠けていようが、其れは紛れもなく優しい幻想なのである。




優しいから、癒される。

幻想だからこそ、癒して呉れる。


わたくしの気難しい心をいつもこうして癒して呉れるのである。





Ludwig van Beethoven - Piano Sonata No.23 in F minor, Op.57 'Appassionata' - Paul Lewis
https://www.youtube.com/watch?v=siKj5tbjq24&list=RDsiKj5tbjq24#t=36


昨年の秋に Paul Lewisによるベートーヴェンピアノソナタの演奏会がこの地方であったのだったが、わたくしは時間を作ることが出来ず残念ながら是非にと願って居た彼の演奏を生で聴くという夢は叶わなかった。