目覚めよ!

文明批判と心の探求と

近代社会こそが悪魔だ


このやうに性欲の檻からは脱することが出来ずしかもいざ歯止めが効かなくなればどこまでも其れは堕落してゆくことだろう。

其れと同じやうに食欲の檻、また物欲の檻、さらにあらゆる欲の檻からは抜け出せないのが人間の性と云うものだ。


其れで、理性的な人はそうしたもののスパイラルパターンに気付き欲を滅し去ろうともがくが畢竟其れも無駄なあがき、徒労に終わることだろう。

つまるところ此の世界では誰も勝てないのである。

欲望に打ち克つことなど出来ない。



ただ其の欲望の檻にどう向き合うか、どういった認識に達し欲望への方向を逆転させて居るか、それともそうではないのかと云う事の違いだけがある。

そして実は其の階梯こそが魂の階梯、魂の価値ヒエラルキーとして唯一実在するところでのものだ。

他の事、地位だの名誉だの、カネのあるなし、また女にモテるモテない、そうしたことは表面的な、しかも錯誤された価値でしか過ぎず真理の上での価値ではまるでない。



また何処の国が強いだの、理想の国だの文化国家だの、人権だの自由だの平等だの、そうした価値にせよ全て錯誤された価値でしか過ぎず真理の上での価値ではまるでない。

人間の価値とは、其の実存の意味とは欲望に打ち克って居るかどうかと云う事にこそ存する。



そして近代的な人間の価値とは、概ね無価値である。

社会化された人間は特にあくどいから善人面を下げつつ悪いことばかりをする即ち日々犯罪に手を染めつつ生きていく、そう生きていかざるを得ない。



其の集積が文明の営為なので文明も勿論あくどい。

其れでは何処にも救いが無いでしょう、だったら此の汚れ切った僕等は一体どうしたら良いのでしょうか?



だから釈迦かキリストの方を向くしかないんだよ。

釈迦→人間はもう消えた方が良い。即ち皆成仏せよ。なんとなれば此の世は地獄じゃ。ましてや不浄だ。もう二度と君の顔もみたくない。兎に角欲にまみれた人間は臭い。ですが成仏は人間にしか出来ぬことだ。是非不常不断の中道でもってして其れを為し遂げるのだ。

キリスト→楽園から魔界へと追いやられた人間は魔の眷属ゆえ神と繋がらぬと悪魔の言いなりになり滅びる。悔い改めよ、そして汝が隣人を愛せよ。兎に角悪魔自身であることに気付き逆方向を向け、即ち神の方のみを向け。



此の悪魔、魔と云うのは実は欲のことなんです。

ところが社会と云うものは此の欲を肥大化させる作用を持ち合わせて居る。

私が危惧するのは其の一点だけだ。


社会化された営為は全体主義化により容易に是のもの、善の価値へと転換されていく。

たとへば戦争中でしたら、国の為に戦う人こそがまさに善なのですし国に素直に従う国民もまた須らく善です。


現在でしたら、嫌な話ですが性的逸脱がむしろ当たり前になりつつある。

しかしこれは善ではないでしょうね、逆に悪魔化乃至は顕著な滅びの兆候です。

さらに飽食が当たり前ですね、それと飛行機に乗るのも会社で働くのも当たり前です。


ですが私は其れではいけないと思いますね。



人間は集団になると個々のレヴェルのものとはまるで別のものと成り果てて仕舞う。

まあ其れは昔からそうである訳だが近代以降は其の傾向が加速されて来て居る訳だ。


だから真の悪が成り立つのは社会レヴェルでのことに限られます。

個の及ぶ範囲での力のレヴェル→どんなに欲深くまた女好きでもせいぜい自己破産したり離婚したり挙句に人一人殺す位のことで元より地球を破壊したり宇宙を蹂躙したりする力は其処には無い

前近代の及ぶ範囲での力のレヴェル→せいぜいがマンモスを絶滅させたり近親相姦を繰り返したりまた中世の暗黒時代を現出させたりはたまた戦国時代に大勢が殺し合いをして居た位のことで元より地球を破壊したり宇宙を蹂躙したりする力が其処には無い



このやうに社会とは其れ即ち悪魔ー悪夢ーの異名なのです。


社会化即ちデカいもの、よりデカいもの、力のあるものにこそ悪が存して居ます。


ところが人間は社会化することを避けられない因果な生きものです。

社会化すると社会的に是とされる価値に決して背けなくなる。


ですから戦時中は国の為に戦うことが最大の価値であり、戦後の価値とはただひたすらに働き平等かつ豊かな社会を形作ることが最大の価値でした。

今ならばさしずめあらゆる欲望を満足させつつ長生きすることが文明国の何よりの価値に奉じられて居ることだろう。




然し其れはかって宗教が提示して居た真理領域の価値からすれば明らかに間違いです。

逆に人間は自らを律することでしか前向きには進めない筈です。

なので今は其の逆の悪魔化された道を歩んで居るのです。


ですが生自体が謂わば其の悪魔化の過程ですのでちゃんと辻褄は合って居るんです。

謂わばそのままでの悪魔。

謂わば進めば進む程に悪の権化。

進めば進む程にバカの巣窟と化し悪の巣そのものとなる。



とそのやうに自己矛盾する人間程哀れな生きものもまた無いのである。


それではどうしたら良いのかと云う事になりましょうがどうにもならないからこうして日々全てが悪くなっていくのです。



ヘッ?

何を言っとるのだ、コイツは。

むしろ全ては良くなっておろうが。

おまへはキチ○イか。



ハイハイ、其のキチ外でも何でもよう御座います。

ですからわたくしは悪いものは悪いとそう素直に述べて居るばかりでのことです。



悪いから、かのウナギ様も絶滅の危機に瀕し仮想現実などと云うまさにおぞましい世界が現実界に侵入しさらに世界中の女の股の方の締まりが緩くしかも偏差値だけが高い馬鹿共がウヨウヨと其の辺を泳いで居りまする。

また人為的加工が余りに過ぎる為に大矛盾が生じて仕舞って居る。其の大矛盾とは人間の破壊である。

それも心身にわたる破壊が進んで居る。



心身の破壊は、やがて合理主義により達成されやう。

今は其の途上の場面である。


以降人間自身への合理化の波が押し寄せ人間は其の根本から破壊され尽くしていく。



其の傾向は「おかしい」と云う感覚上の違和感からもはや誰もが気付き始めて居ることだ。

されど誰も其の事につき述べられない。

何故なら近代以降の社会とは「おかしい」ことの連続でこそ成し遂げられて来たものなのだから。


一方大衆は此の社会によって齎されるところでの危機に対し無関心である。

いや実はインテリ層でさえ無関心なのである。


全体主義化されし社会的自我が人間の心の深みにまで入り込み人間の心の眼を盲目化させて居るゆえに。



此処からしても真の悪は社会にこそ潜む。

社会が悪いから人間が悪くなるのであり人間が悪いから社会が悪くなるのではない。

学校が悪いから生徒が悪くなるのであり生徒が悪いから学校が悪くなるのではない。

社会が悪いから女が悪くなるのであり女が悪いから社会が悪くなるのではない。

社会が悪いから男が立てないのであり男が立てないから社会が悪くなるのではない。

宗教が悪いから人間が悪くなるのであり人間が悪いから宗教が悪くなるのではない。



何が良いのかそれとも悪いのかと云う事は、結局其れは心のあり方の問題でもまたあり心と云う個々人のレヴェルに還元されて来るものだとも申されましょう。


然し個々人のレヴェルに於ける悪さと社会的なレヴェルでの悪さと云うのはまた別の問題でもある、確かに其れは繋がって居るのではあるが他方で次元の異なる問題を孕んで居る。



あなたがたにわたくしが言いたいのは、大きなもの即ち社会化されたものに対して強い関心を持ち批判を加えぬ限り其れは容易に腐るものであると云うことだ。

謂わば組織は個よりも遥かに腐り易いものなのである。



そして治りにくい。

たとへば個々人に対しては医者が居りますね。

ところが社会に対しては其の医者が居ないのである。


ましてや文明規模でのことになれば余計に難しくなる。

社会化即ちデカいもの、よりデカいもの、力のあるものにこそ悪ー破壊力ーが存して居るのだとすれば、其れを無闇に社会化しないことだけが理性の選び取る最善の策となる。



即ち老子の思想とはそうしたことですね。

人間にとっての社会的な圧迫を創らないこと、其れを文明化の段階でブロックして仕舞えと云う事である。


考え方としては低エネルギー化し停滞した世界観ですが理智の段階ではまさに理に適った方法論です。

理想論と云うのは、最初から最悪の状態を想定して論理を組み立てておくことだとわたくしの場合考える。


まさに老子の世界観こそが其の低リスク思想であり結果的に長寿と繁栄を齎す論理そのものです。



逆に近代は其の老子の論理の反対だと見るべきなのでしょう。

人間を限定せず逆に肥大化させ何でも自由で平等にし物質的な豊かさばかりを其処に追い求めて来た。


勿論其の挙句での精神の解体、崩落、破壊に及んで居ることだろう。



尚悲観と云う事は其れ即ち論理的帰結でありあくまで其れは理性が齎す傾向のことです。

そうした意味では何処をどう見渡しても近代の理性に其の理性的展開があったとは見なせない訳です。

なので近代の理性とは其れ即ち名ばかりで矛盾化した理性そのもののことです。



だから利口に見せかけるな。

ほんたうはバカそのものなのに何でそんなに利口振り威張って居られるのだ。


バカを認めよ、其のバカを兎に角認めよ。

ハイ、私こそが其の馬鹿でした。


煌びやかな近代の様につひ目が眩んで老子様の仰ったことなどもうまるで分かりませんでした。

私は余りにもギャンブラーでしかも女好きでした。


女の言う事などもうまるでホイホイと聞き入れて仕舞いふと気付くと社会自体を淫売窟に変えて来て仕舞って居た。

私は罪深くそして変えようの無い大馬鹿です。


のみならずウナギ様を絶滅に追い込みおまけに人間様をも絶滅に追い込みつつあるわたくしめこそが其の大馬鹿大魔王です。

ワアッハッハー、我こそが其の合理主義大魔王だー、ワアッハッハーのハー。




元より近代的常識とは大宇宙の理法が望むやうなものではない。


さて近代の奉ずる楽観主義とは論理的帰結なのでしょうか。

いや、そうでない。

論理的帰結とは常に華厳の滝から飛び降りて仕舞うやうに悲観的なものの見方のことを云う。



老子は悲観そのものではないがまさに悲観の一歩手前をトボトボと歩いて居るかの如く自省的です。

自省的だから、逆に自分を助けられ極めて理知的です。



何故なら自分を大事に思うのであれば、むしろ欲を減らしていくことこそが大事なこと。

人間を大事に思うのであれば、むしろ閉じこもって外に出ないー引きこもりとは少し違うがー外に惑わされないことこそが大事。

女を大事に思うのであればむしろ全否定してやり一から教育する。



此の悲観的な理性の性質こそが実は大事である。

理性が楽観を許したとすれば其れは嘘の理性であり獣の理性である。

近代とはまさに獣の理性の暴走のことでありかつ其れが社会レヴェルで不可逆的に齎されるもののことを云う。


近代に今必要なのは真の理性である。

真の理性とは人間の理性のことである。

人間とはギャンブルや淫行へとすぐに走らないもののことを云う。


そして少なくとも弁えて居る。

欲望の追求が齎すリスクを知り真理領域の言葉を常に携えて居ることだろう。


さらに無闇に社会化しない、即ちグロ―バル化などしてはならない。

謂わば社会の単位がデカくなるにつれリスクは強大化し大矛盾に苛まれていくこととなる。


人間の活動其れ自体が大きくなればなる程危険領域に足を踏み入れざるを得なくなる。

そういうのが事の理だからこそ心ある者は、そして真に理知的な者は人間が大きくなることをかってかえって拒んだ。


だが近代社会は力の論理と云う荒業でもって其の理を捻じ曲げて仕舞う。

然し捻じ曲げたところでの其の虚の世界に住まうのは悪魔であって人間ではない。


嗚呼、もはや人間では無い我我現代人。

おバカな現代人共よ、どうか永遠に悪魔たれ。