現代に於ける問題や悩みは基本的に存在して居ない。
として考えておくのがむしろ正しいことかとも思う。
確かに問題は山積みであるし人間の悩み苦しみもむしろ増して来て居るかのようだ。
然し現代は其れ等に対する思考をあえて放棄して来たのである。
従って問題も何も、また悩みも何も、其処には無い。
無いことにしてみたと云うことである。
あくまで無いことにしちゃえば無い、とのことである。
其れは丁度夏休みの宿題をあえてほったらかして置いたということに近いことだろう。
実際には宿題を八月中にやっておかねばならなかったのにこの九月の二日になってもまだ全然出来て居ない。
つまりは不真面目だったのである。
何に対してかと云えば精神的な課題に対する姿勢ー事の本質を問う姿勢や真理領域の探求に対してー不真面目だったのである。
其の代わりに物質主義や享楽的思考に於いて極めて真面目であった。
皆金持ちになろうと物凄く仕事を頑張って来たのであったし、米国では五十~六十年代、また日本では八十年代まではただひたすらにそうしたことを追求して来て居た。
然し私は其れが悪かったなどと言って居るのではないのである。
其れはそういう時代だったので必然のことであり行動としても至極当然のことだったのである。
事の本質を問う姿勢や真理領域の探求に対して真面目だったのはむしろ戦前の日本人の基本姿勢である。
戦後、其の精神の上でのふしだらさが全部さらけ出されたのである。
ということは戦前の方が良かったのだろうかと云えば其れはそうではなく戦前は戦前で日本は基本的に今よりずっと貧しかったのである。
あくまで物質的には。
戦後の世界が何を目指して来たかということを考えると要するに其れは物質的に豊かになることを目指し進んで来た。
そして其の事は先進国に於いてすでに達成されて久しい。
西欧近代思想の普遍主義こそが其の離れ業を可能とした。
近代思想という普遍主義が無ければ、其の事は決して成らなかった。
だから私は其の事自体を否定して居る訳ではないのである。
ただ、其の普遍化を全体主義化しては本当はいけない。
其の普遍化により負荷がかかり過ぎ全体が壊れるからなのである。
本当はもっと注意深く見、かつ行動して居なければならない。
だが戦後の世界の流れに於いて、人類はそうした見方乃至は行動の取れる存在では無くなって仕舞った。
其の逆に人間だけが全能化して自分が何でも出来ると思い込んで居る始末である。
西欧近代の普遍主義の根本構造を考えると、其の根元の方に主観と客観の二元的対立の様が見えて来る。
近代文明の普遍化の推進力の大元とは、其の二元的対立にこそある。
其れが分かれたからこそ自然を客体化して物質的に豊かな文明世界を創り上げることが可能となった。
其の様に分けると、其処に於いて思惟や意志が発展し其れに伴い自然の改変もまた可能となるのである。
然し其の普遍化には自ずと限界が生じて仕舞うのである。
即ち其処には何より自覚が無いのである。
常に片一方からの一方通行的見方及び行動なので、其処に知恵の部分が働くことなく従って自己矛盾性という負債を抱える人間存在としての自覚が生じて来ないのである。
知には本来ならそうした自覚が備わって居る筈なのに、其の部分をどうも置き去りにして来て仕舞ったのである。
すると知識偏重でもって自覚の無い合理精神ー相対的な価値観に於けるーが今の物質主義による繁栄を文明に齎したのである。
其の自覚というものは精神の自立性なくば成り立たないものである。
実際この自覚こそが、今ほど必要とされて居る時代もないのである。
それなのに、我々は自覚しようがない。
其れはすでに心が盲目化されて来て居るからなのだ。
其の普遍化の過程に於いて相対の境地に捕われるままに物質的享楽を追い求めて来て居る。
其れが西欧近代の掲げる思想の必然的な帰結なのである。
要するに精神の掲げる絶対的なものを消し去っていく思想が近代の思想なのである。
真理ー神ーをも客体化し、相対的な存在に変えていって仕舞う。
然し当然のことながら其れでは神や仏の力もまた弱まっていくのである。
だから必然的な帰結として其処では精神の荒廃、精神の非自立性が促進されていく。
つまり現代文明の問題とは即西欧近代の掲げる思想の問題なのである。
思考を真理領域へと拡げて俯瞰視してみれば其のことがしかと見えて来るのである。
でも最初に述べたように、この思想の範疇に於いて自立性無く考えるのであればあくまで其れは何ら問題無いことばかりなのだ。
ゆえに我々にはどちらを選ぶかという選択肢が突き付けられて居るのである。
いや、大衆と云うよりはインテリの方々には常にこの選択肢が突き付けられて居る。
勿論其れで良いのか否かということだ。
尚、私の場合特に最近はすべてが対岸の火事、位に捉えて其れが良いとも悪いとも思わないようにして来て居る。
元々余りにも真面目、つまり親身になって文明の行く末を心配して居る方なのでむしろ余り真面目に捉え過ぎないように心掛けて来て居る。
然し其の選択した結果での不真面目と、根っからの不真面目とは微妙に立場が異なるのである。
また物欲の方でも私の場合は色々と精神的に屈折した上での物欲なのであえて否定したりはして居ないのである。
が、文明の方には確かに其の問いが突き付けられて居ることだろう。
本当に其れで良いのかどうかということが。
翻れば戦後民主主義の世界観に於いて、戦前の精神論は完全に否定されて来た経緯がある。
然し其れは本来否定し切れるものでもないのである。
何故ならかっての日本の精神論にも一理あるのであろうから。
其の精神主義の骨子として非概念的思考ということがあろうかと思うが、他面でこれは主観的な現実的利益を超越して無限や絶対という絶対的精神性をも指し示すものであり其の対象が神であれ仏であれ天皇であれあくまで構造的には現生利益または物質的繁栄を追い求めて居る訳では無く其れが一元化された思想であることは明らかだ。
私が言いたいことは、この様に思想のレヴェルに於いても絶対的規定ということは成り立たないということなのである。
戦前の思想には戦前の良いところがあり、かつ悪いところがある、ということだ。
戦後の思想には戦後の良いところがあり、かつ悪いところがある、ということだ。
そういうのがこの世に定められし自己矛盾性だと述べて居るのである。
そしてそういうのが見えて居ながら批判ばかりして居る訳にもいかないのが私自身に与えられし自己矛盾性なのでもある。
だから私はそうした部分を見定めた上で色んな可能性につき述べていくのである。
そうしたある意味正直な矛盾的言説ゆえ、左かと思えば今度は右、というように振幅の大きい論理の飛躍が其処には見て取れる筈だ。
でも精神の自立性ということ自体に限界が含まれて居ることもまた確かなことなのである。
単純に言えば、精神の自立性や精神の自由を重んじるばかりに自分の思った通りのことを何でも言って仕舞って良いのかということである。
其れから近代思想ではむしろ無制限に個の権利を認めていこうとする考えがあるにも関わらず実際には今我々は20世紀末よりも制限された諸権利関係の中を生かされて来て居る。
ここからしても現実というものは理想論的に割り切れないもの、規定出来ないものだと言う他ないのである。
逆に云えばそうした部分の存することこそが現象世界の特徴であり本来の姿なのでもある。
様々に腐った部分や不条理な部分が存して居るのがこの現象界のありのままの姿なのであろう。
ゆえにあくまで其の意味に於いては何ら問題は無い。
元々は問題があるのを見ないようにしておけば何ら問題は無い。
まさに赤信号、みんなで渡れば恐くない。
其処で一方的に不真面目化して、精神でもって問題を捉えることを止めて仕舞う。
すると、本当は宿題が残って居るにも関わらず、実際には至極楽チンである。
楽チンだから、これでいい。
其れが最大多数の最大幸福ということであり、はたまたケインズ理論であり新自由主義路線でありグローバリゼーションということでもある。