精神の作用としての限定とは克己のことなのでしょうが近代と云う内在的な価値観の構築作業には其の要素に欠けて居ることが何より問題である。
欲望の成就を是とする近代の諸価値にそうした矛盾的な要素が色濃く組み込まれて居ることはもはや明らかなことだ。
そう近代的な価値の推進には其の心の問題が置き去りにされて居る。
心なき進歩、心なき価値の追求にはまさにそういった意味での悪魔の仕業が組み込まれていかざるを得ない。
だから最終的には此の世はまさに滅びの為の滅びの舞台、人間と云う悪魔の為の破壊のステージと化していきます。
と申しますか、元々人間とはそんなものなのです。
実際人間存在に於ける自己矛盾性は自然に於ける矛盾領域を遥かに凌ぎ強大化されて居ります。
事実として自然は部分的にはまさに矛盾領域を履行しつつあるが全体では決して矛盾そのものを生きるものではない。
ですが人間の社会はまさに欲望の追求の為の滅びの階梯を登りつめていくことでしょう。
其処で何故そんなことになって仕舞うのかと云う事につき考えて来て居る訳だ。
ひとつには内在的時間を生きる人間存在の心的傾向と云う事が挙げられる。
内在的時間=現在がほんたうは現在ではなく心的な領域での時間である。
其れは近代が産み落とした時間である。
しかも其れは前近代の時間とは別物の時間である。
あくまで前近代に於いて人間は外在的な時間を生きて居たが現在は質的に異なる時間を生きて居ります。
さらに軍事力とか性の捉え方とか、或いは自由なり平等なり、そして法秩序自体も前近代と近代以降の捉え方はまるで異なります。
これも前近代とは質的に異なる空間、概念を生きて居るのだと申すほか御座いません。
両者は一体何が違うのだろうと深く考えてみますと、まずは限定=限度の解除、撤廃と云う事が挙げられます。
其れは人間が外在的時間に縛られなくなったお蔭で限度を設ける必要がなくなったと云う事です。
謂わば自己中心的に生きられるようになり外側からの干渉や枠を考えなくてもよくなった。
要するにやりたい放題で良くなりもうまるで利己主義で良くなった訳です。
そうした枠組みを文明に齎したのが近代と云う事になる。
だからこそ其処で欲望の追求は是とされて来たのです。
近代に於いて欲望は善なのでありむしろ欲望の少ないことの方が悪なのです。
と申しますか、欲望の無いものは近代に於いて生き抜いていくことが出来ない。
あくまで近代的な枠組みの中では。
欲望の追求を少し外れて、独自の道を歩む国家もあるにはありますが先進国である日本では欲望はあくまで善とされて来たのだとも言える。
ですが、元来仏教や儒教の精神性を精神の根幹に据えて居た我が国では其の価値観の相違に大きな抵抗が生じて居た訳です。
所謂近代の超克の問題として其れが江戸時代末期から明治時代の知識人に大きくのしかかって居たのである。
ですが結局日本は近代国家、其れも先進的な近代国家としての歩みを続けて来ざるを得なかった。
謂わば其の精神性を反古にして軍備の拡大や経済の発展などの富国強兵策に勤しんで来たのである。
勿論戦後もまさにそうでした。
戦後民主主義と云う新たな体制に移行しましたが米国主導の元にむしろ戦前よりも熱を込める形で其れが行われて来たのである。
ただしかって其の傾向に異を唱えられたのがかの三島 由紀夫先生でした。
私は三島先生の考えは正しいと今ではそう考えて居ます。
特に日本人の精神的破壊を危惧するといった面ではほとんど同意見です。
尚戦闘機は是非F-22を導入すべきだったと思いますが米国の考えで其れが実現せず誠に残念です。
F-22配備の暁には配属基地へ毎月のやうに応援に行こうと心を決めて居りましたが其れが実現せず実に残念です。
ですがF-35じゃいけないんですか、F-35でも十分でしょう、第一安いでしょう、だから沢山配備出来るでしょう?
と云う甘い考えには賛同致しかねます。
何故ならF-22は、もうこれはスーパーマン戦闘機です。
スーパーマン戦闘機は一機あれば敵国の戦闘機を全機撃墜することが出来る。
これぞ力の論理の最高傑作です。
従てこれさえあればアノ露西亜にさえ勝てる。
まあ本心では力の論理など大嫌いですが戦闘機と戦車だけはより高級なものの方が良いようです。
勿論戦闘機なんて要らないのだしそればかりか本当は飛行機も無い方がずっと良い訳です。
近代は止めて仕舞うべきなのだし近代的価値ヒエラルキーの最上位に位置する軍事力など無くして仕舞うのが理想なのではある。
ですが戦闘機が好きでしてね、実は。
三島先生はF-104にかって搭乗されたそうですが、私は兎に角F-22に一度は乗りたい。
いや、でも本当は飛行機に乗ること自体が嫌ひです。何せ怖いから。
いや、そればかりか最近は自動車が走って居るのを見るだけで何だかとても怖い。
さて其の日本人の精神ですが矢張り一番気になることは合理主義の蔓延による利己主義化と云う事です。
其処から必然的に導かれる貞操観念の喪失と云う事であり日本の文化伝統への無知、無理解と云う事でもある。
合理主義と云うのはキリスト教の自己矛盾過程のことですから元来日本国とは関係の無いことであるのに日本が合理主義化されると云う矛盾に対しての危惧を抱いて居ます。
其れも結局は近代の超克の問題そのものです。
近代の問題自体はあくまで文明規模での普遍的な問題ですがこと此処日本に限れば特殊な問題を孕んで居る。
勿論韓国や中国も同様の文化や伝統との衝突の問題を抱えて居る。
東洋文明は西洋文明よりも優れて居ることが明らかだと云うのに普遍的な近代主義に現在を規定され価値観を近代化していかねばならないと云う内矛盾に苦しめられて来て居る。
近代の価値観は前近代の価値観に比せば片手落ちのもので、其の本質とは欠落であり欠乏である。
根のところが欠乏だからこそ過度な欲望の追求に走るのです。
ですので欧米流の価値観が優れて居るなどと考えてはならない。
欧米流の価値観はむしろ劣って居り近代に於ける諸問題は全て其の劣等思想から齎されて居るだろうことがもはや明らかだ。
よってかの脳減る賞などと云うものはもう無い方が良いのだし金メタルなんて云うものももう無い方が良いことだろう。
たまにバタ臭いピッツァを食うと確かに旨いので我も嫌ひではないが、或いはチョッコレートなるものが大好きな我はいつも其れを貪り食うては居るが、そんなものは実は食に於けるまやかしに過ぎぬ。
日本人はまずは日の丸御飯を食すべし、コレに限る。
日の丸御飯とは盛った飯に梅干しを一つ真ん中に載せたもののことを云う。
さらに京都の千枚漬け、これがまた我の好物であるがコレがまた京都まで買いに行くと観光料金で滅茶苦茶に高価だ。
だから其れに似たものが好きだと云う事だ。
兎に角飯を食え。白く粒粒で何だか味があるのだか無いのだか分からないアノ飯を沢山食うのだ。
さすれば病気になどならなくて済む。
病は気から、ではなく食から、である。
食うこと、寝ること、動くこと、コレが兎に角大事だ。
そして車や飛行機には乗らない。
さらに座禅を組む。
そして亜細亜人の嫁を娶る。
最終的には近代主義を認めず近代は悪魔だと云う思想に染め上げていくべきだ。
最も重要なことが近代の思想は限度なき破壊の為の思想であることを知ることである。
知るそして明らめる。
其の限度なき様は、自然と人間の全てを破壊してやまぬとそう考えて置けばまず間違いない。
ただし近代の思想を否定するのだとしてもわたくしは近代の齎す美果を全否定するものではまるでない。
だから有難く車にも乗せて貰い、或いは戦闘機を観に行き、さらにたまにはビフテキを食いに行き所謂レデーファーストなどもたまにはして居るのである。
また近代資本主義の権化たるゴルフと云うスポーツも大好きじゃ。
なのでくれぐれも誤解無きやうお願いしたい。
わたくしはオウム真理教のやうに社会を攻撃しないし会社を破壊しようと思って居る訳でもない。
文學を語って居るばかりである其の文學を。
文學とは観念の営為であり観念の所産はこんな風にあちこちへ話が飛んだりしてまことにとりとめがない。
日本の精神とは批判ではなく和であることからこんな私のやうに滅茶苦茶言う人は普通は居ないのだが其処は私が元来西洋流の合理主義者なのだから仕方が無い部分だ。
が、そんな個人主義で和の精神のカケラも無いわたくしから見ても昨今の日本人の心の乱れやう、其の精神の潔癖さへの破壊の様は看過出来ぬものがあるゆえ毎回こんな風に御託を並べて居るのである。
近代の超克とは、其れがすでに遥か以前に成し遂げられたことであるやうに思われて居ることであろうが実はそうではない。
日本の文化や伝統への無関心や無理解と云う事が大きな部分では存在して居ることだろう。
ところが慣習の上ではむしろ日本人は日本に縛られて居る。
其の和の精神に多分縛られて来て居るのである。
だから和、でも幾ら和だと言ったって悪いものは悪いと言えないようでは和もクソも無いやうに思えるのであるが其処はどうなのであろう。
だから兎に角三島先生は和もクソも無く真摯に日本の文化や伝統を心配して居られたからこそ決起されたのである。
近代以降の合理精神はキリスト教を破壊し道義心ー欧米人のーを破壊したに止まらず地球を破壊しかつ現代人の心の領域までをも深く蝕んでいく。
ですからそんなものは悪いに決まって居る。
ですが欧米の全てを否定して居る訳では元よりない。
たとへば歴史と伝統に培われたところでの欧米の藝術や文物を私は愛してやまない。
なのでむしろ深く愛するが故の批判なのである。
そして日本の文化や伝統の方も無論のこと深く愛して居る。
だからむしろ深く愛するが故の批判なのである。
人間を深く信ずるが故に釈迦は欲望の現れとしての人間を去れとかって述べられた。
人間を深く愛するが故にキリストは利己愛を捨て神への愛に生きよとかって述べられた。
ゆえに心のあり方として近代は否定されてしかるべきだ。
近代を愛することは魔と番うことであるゆえ是非其れを否定しておかねばなるまい。