釈尊の説かれた仏法というものは、其れは謂わば世界に対する究極の否定であり同時に世界に対する究極の肯定でもあり得る訳です。
生老病死の苦を乗り越える為には其のいずれの要素に対しても拘泥して居てはいけない。
ゆえに一度はそれぞれに対して全部否定してかからねばならない。
然し否定することは断ずる見解に繋がりこれもひとつの偏った見方になって仕舞う。
されど逆にすべてを肯定しつつ生きることもひとつの偏った見方、生き方になって仕舞う。
どちらでも結局は解脱はないということになって仕舞う。
そうかと言って、また此の世に戻って来たいなどとは金輪際思って居てはいけない訳です。
そんなのはまたこの牢獄である世界へ再犯して戻って来て仕舞うということであるに過ぎない。
真理領域の思考、言葉とは、そんな風に思い切り所謂一般常識とは離反して居ることが常です。
だからもう二度と此の世には戻って来たくないー真理領域に近い心性の人はーのですから其れは此の世で成功したいとか楽しみたいとか思って居る心とは正反対の心です。
まあ逆に悪魔の様な心と云った方が分かり易いのかもしれない。
其れこそが仏の心であるということです。
其の悪魔ですが、常識的に捉えられて居る悪魔の意味についても今一度考えなおかつ常識的に捉えられて居る善や愛、正義、真などの意味についてもよくよく吟味しつつ再考しておく必要があります。
だから今一度私はここで問いますが、其の常識とは一体何でしょうか。
仏の心とはこの世を愛する豊かで広い心だ、位に多くの人がそう感じて居るのではないでしょうか。
仏の心とはむしろこの世を愛さない心のことであり、また豊かさに対しては永遠に背を向けた心のことであり、第一心が広いと云ったってむしろ心を滅して向こう岸へ渡って仕舞って居るのですから、其処では広いも狭いもなくまるで心を無くして仕舞ったかの如くにみすぼらしいもののことです。
たとえば離人症であるとか、統合失調症であるとか、アスペルガーであるとか、そんな異常な心的領域のことの方がむしろずっと真理領域の提示する問題の要素を含んで居ます。
逆に常識こそが最も真理領域からは遠く隔てられて居る。
ゆえに常識的に生涯をまっとうに終えたのだとしてもそんなものには何の価値もありません。
其れは真理に対しては無価値だということになりましょう。
さて以上で否定の部分の説明を致しましたつもりです。
否定ということは、謂わば悪魔的な要素でもあるのですが、聖なる道、つまり真理探究を志す場合には実はこれこそが避けて通れない要素です。
聖なる道、即ち宗教レヴェルでの精神の闘いに於いては、必ずこの悪魔との闘いということが生じて参ります。
仏教に於いても無論、キリスト教に於いてもまた然り。
ですので聖ということは、即魔を含む領域のことなのです。
対して常識や俗信の部分にはこの魔的な領域が発生して参りません。
もっとも其処では所謂お化けや妖怪、オカルトとして魔的なものが出て来ますが要するにそんなものは単なる幻想領域のことです。
聖ー真理ーを希求する者には、このように真の意味での魔との闘いが必然的に齎されるのです。
何故なら生を否定することでしか魔の領域の発生は無いからなのであります。
ですので我々一般人は真の意味での魔の領域には遭遇することがありません。
ところが精神的な病気持ちの方、アスペルガーの方、或は我々詩人のように精神が繊細過ぎて半分狂いかけて居る場合、などは其の限りではない。
ちょろっとではありますがそうした世界を垣間見ないでもない訳であります。
そうした意味では其の様な所謂常軌を逸した世界こそが聖なる世界の方向性を向いて居るのだとも言えます。
私が何を云いたいのかと申しますと、常識、既成の概念、日々の生活、といった安定的な要素の中には真理への方向性は入って居ないということを申して居ります。
古来より真理への方向性を示した藝術家や宗教家などはほぼ半分狂って居り常識的には生きられない人が多かった訳なのであります。
其の様に真理とは生活人、即ちサラリーマンの私たちのものではないのです。
従って幸か不幸か其の真理領域に捉えられて仕舞った人というものは、常に魔的な領域との闘いを心中で行って居るのです。
だから其れはオカルトや心霊現象とは異なる真の意味での魔的な領域との闘いなのです。
前者の例が現実、実利方面での才能であることと同様に真理、観念方面での才能ということです。
以上生の否定の過程では必然的に魔の領域との闘いがあり、其れは聖への希求の過程で運命づけられてタレント達にふりかかって来るものである。
そうした運命を受け止めて居るのはあくまでごく一部の藝術家であり宗教家であろう。
それでは究極の肯定とは何か、ということを次に考えてみましょう。
先のように生を否定すると必然的に魔の領域が発生し其れと闘う羽目になる人間も出て来る。
ま、其のことを我々盆暗に変わってして下さって居る訳ですな。
ところが元々ヤバい領域でのことですので昔から多くの詩人や画家が早逝して居るようにえらいことになって仕舞うこともまた多い。
然しながら単純に肯定すると我々のような盆暗人生となりつまり其処では真理とは程遠い常識的人生を歩むということになります。
つまり肯定というのは盆暗のことです。
或は無明であるということです。
尚キリスト教に於いても、原罪に充ちたこの世をただ楽しく過ごしたい、なんてのは究極の盆暗であり罪深き人、ということになるようです。
要するにそも其処では神の救いが無ければまっとうな生とはならないのであります。
神への信仰を貫くことで初めて真理と繋がった領域の生へと進んでいくことが出来る。
無論のこと仏教に於いても、タダの肯定は逆に大罪なのですぞ。
この世は楽しい、この世で一花咲かせたい、なんていうのは真理領域に於いては無明の最たるもので其れこそが謂わば餓鬼道であり畜生道のことである。
第一其の考えがなって居ないということである。
お前さん方の当たり前の其の考えこそがそもそもネジ曲がって居る。
ヘヘッ、其れは其れはいかにもバカバカしいことで。
まあこれこそが所謂凡庸ということの怖さということなのでありましょう。
だから仏教に於ける肯定とはそうした常識的な範囲のものではない。
諸感覚も愛も魔もそうした本能的な領域の幻覚をすべからく断ち涅槃に至るー此岸より彼岸へ至るーことこそが究極の生に於ける肯定である。
ちなみにお彼岸などと良く申されますが、本来彼岸というものは我々が達すべき心の領域のことで感覚的な迷いを一切滅し切った心的な領域のことを云います。
だから彼岸というのは、此岸つまりは此の世のこととは正反対の心の場ー状態ーのことなのです。
では何故そんな死人のような心の状態こそが仏法の上では良いとされて居るのかという部分ですが、其処を逆に捉えれば半分死人なのだからこそ所謂まともー常識的ーではなく其処で異なったものー真理領域ーが見えて来るということにもなりましょう。
其のようになった時に初めて真理の内側に入ります。
我々凡夫が毎日あーでもない、こーでもないと論議して居る真理とは実は歪められた真理の領域であるに過ぎない。
何故なら言葉ー概念ーで捉えられる真理の範囲は言葉により限定されしものであるに過ぎず、従って凡夫は畢竟其の範囲内での概念に寄りかかかり外側から真理領域のことを推理、想像して居るというだけのことなのです。
然し其のものズバリの真理に触れ得ようとするならば此岸からではなく彼岸へ至って其れを見るほかはないのである。
しかも生きたままで其のことを行うのである。
ゆえに死んで、其れに触れ得たり彼岸へ至れるというものでは決してないのだ。
生きたままー心がー死んでいる状態、それこそが仏法の上で説かれる真理の顕現の具体的な姿なのである。