目覚めよ!

文明批判と心の探求と

春なので修羅です


認識が世界を生じ認識が世界を閉じるつまりは破壊へと導く。

そも認識が誤りでありかつ永遠の錯誤である。

認識する精神自体が悪いのではなく誤った認識に寄りかかる精神こそが悪い。

悪いものは悪いものを呼び寄せ余計に悪くしていく。



近代世界は世界を良くする為の社会構造ではない。

逆に悪くする為の社会構造でありかつ認識である。

認識が悪いから人間が悪くそして其れに輪をかけて社会が悪くなる。



然し其の良い悪いとは何か。

良い悪いの其の価値基準とは何か。

宗教なのか其れとも理性であるべきなのか。


でも私は其れが規定であるとそう述べて来たのである。

あくまで自然的な規定であり大宇宙の秩序であるとそう述べて来て居たのである。




宗教とは実は真理ではなく理性もまた真理そのものではない。

本質的に概念は無意味で論理もまた矛盾を避けられるものではない。



元より生は矛盾であり無意味なものである。

其の無意味な生を意味化するのがかって宗教の役割だった。


ただし宗教的な価値観でさえ矛盾は避けられぬ。

尤も元の方では矛盾しないのだろうが表面的にはあくまで矛盾し宗教戦争さえもが勃発する。



其のやうに宗教の価値観、良し悪しは普遍化することが出来ない。

普遍化は宗教の目的ではなく特殊な範囲での救済のみがただそれのみが宗教の分担し得る領域である。


宗教つまり救済の価値に寄りかからない文明はそして人間は心が腐っていくことだろう。

腐った心を生きるしか、もはや其処に道がなくなるからである。

其の腐ると云うのは欲望に負けると云う事だ。

悪魔に心を売り渡すと云う事だ。



事実現代人の心は腐って居りそれでもまだ腐りきっては居ないことだろうが其れもやがては腐り切ることであろう。

なので近代とはそんな心の崩壊の過程、心の破壊の過程のことを云うのである。



平たく言えばモノや他人との関係つまり外面のものに目が眩み内面の磨き込みを放棄した其のツケが次第に心を圧迫して来よう。

心を保てなくなる、正常ー清浄ー範囲を逸脱した悪魔の心でしか生きることが許されなくなって来る。

ただ誰しも、生きていく上で限りなく小悪魔になりつつ生きて来た筈である。



会社でそして家庭で、二面性、三面性を持ちつつ現実を乗り越えて来た筈である。

特に女、コレと家庭を築くなどと云う事は其の多面性を抜きにしては不可能なことだ。


女は魔物なのでコレと一緒に居ると其の魔物が男に乗り移りいきおい男性の根性も悪くなることであろう。

結果小悪魔の常識人はさうして家庭を築き子をなし余計に悪を撒き散らしていくのであった。



だから、国家つまり組織にとっては常識こそが至上の価値なのだが真理にとっては其の価値及び価値観こそがまさに悪魔の所業なのさ。

二面性、三面性を創り込み磨き込み其れを「大人になる」などと云って居るが還暦前の詩人は勿論そんな価値など認められやしない。



だから還暦でも永遠の少年で生きることに決めたわたくしはこれからはほんたうに詩人として生きていくんだ。

会社での価値、常識の価値など一切認めない立派な詩人になり世の中の嫌らしさ、ふしだらさを死の瞬間に至るまで糾弾し続けていこうとたった今心を決めた。



そんなジジイは世界中で何処にも居ない筈だからあえてわたくしはそんな余生をこそ送ってみたい。


お前等バカ近代人の頭の中身を逐一否定しボクの考えはもうまるで君等とは違うので認められない、もうまるで全部が認められない、社会の価値観も君の価値観ももう何もかもが。



なので今もこうして精神的にいたぶってやって居るのである。

いや此処の読者に対してではない。

読者様はあくまで私にとっては神様であるに等しく、だから読者以外のバカ近代人に対するいたぶりであり憎しみであり怒りである。




尚仏教では憎しみや瞋りを抱くことは完全なる破戒的行為とされて居ります。

ですが、かの宮澤 賢治もまた社会に対する憎しみや瞋りを抱いて居た筈なのです。

だから彼は自己犠牲としての社会との闘いを行いやがて疲労の末に若くして命を落とすのだ。



其れは仏教徒の生き方ではないことだろう、まさに修羅としての生き方であった。

かの三島 由紀夫とは違う社会との闘い方がまさに其れなのです。


其の憎しみや瞋りは人間に対するものではないのだけれど其れも最終的には人間の無知に対する憤りのこととなる。

なので必然として人間の否定、人間嫌いと云う事に傾こうが其れも藝術の完遂の為ならば仕方がない。



ですのでコレは藝術です、全てが藝術。

私が社会と闘ったと云う事実を永遠に残す為の作業であるところでの藝術そのものだ。



私は子孫なんぞバカらしくて此の世には絶対に残せないが藝術を遺すことは可能だ、どうだザマアミロ、其の藝術作品を誰も阻止出来やしないのだ、たとえ仏陀でも其れは出来ない。


いや、仏様から諌められたら幾ら私でも考え直さないといけない。

多分仏教関係の知り合いからそのうち叱られる筈だ、此の馬鹿者めが、もういい加減にせよ、と。




嗚呼、そうこうするうち季節は廻り次第に春めいて来た。

ハッ、春と修羅、なる程、確かに春と修羅の歩みが眼前にはある。



さて何を言っているのやら分からなくなって来たが要するに大事なのが其の価値観の違いに就いてのことだ。

近代の価値観を粉砕した我は今や一人の修羅として生きて居るのである。



修羅つまり阿修羅のことだ。

阿修羅は大乗の神なのでいまひとつ理解が及ばないのですが、かの宮澤 賢治の手前とりあえずは修羅と云う形にしておかねばならない。


ですがまた急に社会の先生に戻ります。



其の良い悪いと云う価値観は文明社会では法的秩序に則り其れが規定されて来て居ります。

ですが、文明の奉ずる価値観が誤りである可能性もまた高く存して居る。


近代全体主義が齎す幸不幸の基準が良し悪しの基準値を逸脱して仕舞うことが往々にしてあり得る。

ところがインテリバカの面々は結局社会には逆らうことが出来ない。


第一教師が革命家では生徒さん方も安心して勉強することが出来ないだろう。

其れに今教師は忙しくて仕方がないので革命どころか兎に角寝る時間、食う時間、SEXする時間を確保すること自体に汲汲として居る。

クソ忙しい現代人はこんな風に理論では無く時間、其れも人間としてまともになれるだけの時間だけを実は追い求めて来ても居る。



さて此の時間が実は現代人を圧迫して居る。所謂内在的な時間の圧迫だ。

文明は個の時間を搾取するに至り、其れでもって考える時間を大衆に与えない。

いえ、インテリにさえ与えて居ない。


大學の先生方は先生方で考えない時間を欲望の為に費やすから社会はいつまで経っても治りゃあしない。



其処で宗教だの藝術だのの役割が生じて来ようが、宗教や藝術の価値とは実は特殊なものであり普遍的なものとはなり得ない。

だからこそ文明の価値観が逆に普遍化して仕舞うことが起こり得る。


ところが其の文明の価値観には特に近代以降の価値観には大きく矛盾が潜んで居る。


其の社会の矛盾は、文明規模での矛盾は宗教や藝術と云った特殊化された領域で解決することが出来ない、どだい其れは無理なことだ。


しからば自然としての規定であり大宇宙の秩序であるところでの価値観に従うべきではないのか。

其れは継続であり保存の為の外側からの規定だろうとわたくしは考える。



が、文明はもはや其処には戻れない、そして気付けない。

何故なら頭の中がモヤモヤである。

現代人の頭の中がほとんど全て近代的価値ヒエラルキーに毒されて居りモヤモヤでもってしかもグチャグチャである。




無常・無楽・無我・無浄である世界=インテリの価値観、其れも人文系のインテリの価値観並びに藝術や宗教の価値観

常・楽・我・浄=文明と大衆の価値観、並びに理系のインテリの価値観



自然としての規定であり大宇宙の秩序であるところでの価値観はこんな風に概念の上での分解ー分離ーには至らない。

概念としての分解の前の段階なので其処で何も分かれて居ない、二元的対立を生じせしめては居ない。



ところが文明はつまるところは人間は馬鹿なのでつひこのやうな価値観に分かたれて仕舞う。

真理からすれば共に否定されるべき価値観に従い人間は人間を生きていかざるを得ない。


だがよーく考えてみると、インテリはインテリでも人文系のインテリの価値観、即ち悲観主義には+の間違いがほとんど含まれて居ない。

言うまでもなく人文系の誤りは心配症でもって暗過ぎることながら、其の暗いこと自体には実は大きな価値があり即ち常・楽・我・浄であることに対する反対の思考法、逆向きの精神のベクトルを何より其れは持って居る。



なので今文明に対して必要なのは真理ではなく人文科学の知恵なのである。

真理とは此の二元的対立をそもそも生じせしめないやうに悟ることなれど、其の悟ることは実は不可能なことなのでありしかも現代の宗教は皆堕落して居るので即其れが真理を説いて居る訳では元よりない。


だから今や宗教は自然としての規定であり大宇宙の秩序であるところでの価値観には重なりやうがない。

今の宗教はタダの俗人がやるものであり釈迦やキリストのやうなまるで人間じゃない人間がやるものではない。


つまるところは真理など今の世の中には必要がないと云う事が言いたい。

現代人と現代文明に必要なのは真理などではなく人文科学が齎す知恵である。


ちなみに私の場合はそうした限定的な思考法をとる。

出来ないものは出来ないので出来るものに価値を見出しやっていくと云う方法論だ。




キリスト教は常・楽・我・浄の価値観ではないかと言われそうだがキリスト教の価値観は明らかに無常・無楽・無我・無浄である。

あくまでイエスキリストの価値観によればそうである。

ただし悪魔は其の常・楽・我・浄を常に生きて居る訳である。

悪魔が支配する此の世界で其の支配した世界が常・楽・我・浄であると見做して居る訳だ。


其の呪縛を解いて神と繋がれば真の意味での常・楽・我・浄が実現されやうが、其れが成らない今は、所謂最後の審判を経て千年王国が実現されない限りはあくまで無常・無楽・無我・無浄なのである。


だから其の基本のスタンスは仏教であれキリスト教であれ同じものだと考えられる。


また仏教も最終的には常・楽・我・浄であることを目指す。

ただし仏教の場合には現象界ー現実の世界ーそのものを捨て去る。

成仏とはそうしたことであり、単に死ぬと云うことではない。



無論のこと死んでも成仏など出来ない。

そも人間には其れが出来ないのである。



仏教の場合には存在しない存在=仏となり常・楽・我・浄であることを目指す。

だから二乗が頭で否定する常・楽・我・浄を最終的には否定しないのである。



だが現実的にはあくまで此の世は無常・無楽・無我・無浄である世界である。

だから人文系のインテリの価値観並びに藝術や宗教の価値観はそうした意味では正しい。



そうしたマイナスの価値を否定すべきではない。

近代文明がおかしいのは、其の重要なマイナスの価値を見失って仕舞ったからだ。



だからあえてわたくしは其の近代の奉ずる価値観を全否定してやった。

其れが悪魔の価値観なのだからそんなものを奉じて居る君たちも皆悪魔だよと教えてやったまでだ。



だから其の否定から出発しなくてどうする。

こんな似非詩人に否定されて悔しかったら今一度価値を再構築してみよ。


其の価値を構築することが許されるのは人文系のインテリの価値観並びに藝術や宗教の価値観のみである。

キチ外科学者やキチ外近代信奉者は要するに犯罪者の群れなので早く牢屋に入るべきなのであり世界観の構築に其の+キチ外の価値観を押し付けるべきではない。