究極の肯定とは単なる生の肯定ではなくむしろ生の否定から生ずることだろうある種回りくどい道ゆきでのことです。
単純に生きることが好きだ、仕事が好きだ、女房子供が好きだ、 レジャーが好きだ、などというのは実は生そのものの肯定ではないのです。
兎に角この単に好きだ、という構造での範疇の考えは皆真の意味での肯定には繋がりません。
然し実際にはこの世の価値観は皆この単に好きだ、結婚したい、だとか、単に儲けたい、大金持ちになりたいから、というように全くもって屈折などはして居りません。
然しそういうのは限界がある訳です。
現代文明というのは、一言で云うと其の種の本能的な行程が究極的に巨大化されたものだと考えられます。
実際には其処には理性も何もありません。
其れはただデカくハヤくゼイタクに生きようとしたばかりでのもので、 つまりは本能的な行為をより大規模に行っただけのものなのであります。
だから現代という時代には精神が無いのです。
或は精神が圧迫されもはやアップアップです。
兎に角そうした本能から発した行為の全てが限定的なものとなる宿命を担って居ます。
本能的な行為は、出現するのが短くゆえに消え去るのが早いのです。
だから現代文明は生き急ぎ過ぎて居るのです。
逆に永遠に生きたいと思うのであれば、あの老子流ののらりくらりの生き方とか、或は釈尊流のこの世は諸行無常にして諸法無我だからこんなものに拘ってるな、この凡夫共めが!の方で完璧です。
急げば急ぐ程自らの未来を閉ざし現在の自分の首を絞め続けることだろう現代文明。
はてこんなことを言って居ると何やら本当に情けなくなって参りました。
これまでの人類の知恵の集積とは一体何だったのでしょうね。
さて人間というものは何かということを考えますと、一言で其れを言い表せば自我の働きである、ということにもなろうかと思われます。
其れも人間の活動の主要な部分はこの自我の働きから齎されて居るものでありましょう。
仏教という宗教は大昔ではありますがかってこの自我の部分を考えることから始まったと言っても過言ではありません。
比丘たちよ,色は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは我所ではなく,わたくしの我ではない。如実に正しい智慧を以て是の如くに観るべきである。受は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。
とかって釈尊は語られた訳ですが、この中の我所という言葉に少し注目してみましょう。
無我なるものは我所に非ず、との仰せです。
つまり無我であるー思うにまかせず苦に充ちたーこの世界は私の本来居るべき場所ではないのです。
また私だと思って居る其の私も本来の私では無いのであります。
では一体何が真の私なのでしょうか。
つまり本能の命令に従い自然から収奪して毎日たらふく食べたり日々女を孕ませたりして居るうちは全部其の真の私の行為の範疇ではない、ということなども何となくは分かるのであります。
ですので真のわたくしを発見する為のつまり真の自己に目覚める為の道程こそが仏法であるということにもなりましょう。
真のわたくしを発見する為には智慧が要ります。
たとえば智慧は思想的な闘争からより近づけるものであろうとそう個人的には考えて居ります。
前回に藝術家や宗教家に於ける思想的な闘争のことにつき言及致しましたが、まさにそうしたことなのです。
身を削り命を削る程にこの世の無明ー本能的な無知の領域ーと 闘ってこそ浮かぶ瀬もまたあろうと個人的にはそう思うのであります。
無常を根拠に苦法が存立し,苦法に依って無我法が成立する。
一切が無常なのですから其れに反する我を幻想して居る我々はまさに苦法のさ中にくべ入れられていく。
仏法は其の主体的な苦が無我であることを導き出します。
そして苦は観念ではなく事実です。
尚キリスト教では原罪や神の教えとの乖離などを苦の原因として考えて居るようですが仏教でも仏を信じようが信じまいが此の世は苦しみに充ちて居るところです。
何故そんなことになって仕舞って居るのかと云えば其れが全部カン違いに起因して居ると釈尊は考えられた。
我々凡夫のカン違いにこそ其の苦の原因がある。
四顛倒
1.無常であるのに常と見る
2.苦に充ちて居るのに楽と思う
3.人間本位の自我は無我であるのに我があるとする
4.不浄なものを清らかだとみなす
然しこの四項目のひとつでも見方を正せて居る人は現代人にはせいぜい百人居るか居ないか位のことでしょう。
現代人は近代的なものに身を包まれし原始人ー精神のレヴェルに於いてはーですので大抵の人が全項目引っ掛かって居りまさに無知無明のさ中にあるということです。
でありますから、実は此の世が無常であること自体や苦に充ちた世界であることや、不浄がメインの世界であるということに対しては其れ自体に何の問題も無いということなのです。
ですが現代文明批判、実はこれも全くもって意味の無いことです。
元々そう歩まざるを得ない人間存在の非をついたとしてもどう考えても其処に意味は無い。
ゆえに仏教徒というものは、真の意味での仏教徒というものはそんな批判めいたことはしないのであります。
外側を批判するのではなく、自らの心の内側を批判して正していくのが真の仏教徒としての責務なのです。
ですが私の場合には半分位は文人の方も入って居るゆえついこんなことをして仕舞って来て居るのでしょう。
3.人間本位の自我は無我であるのに我があるとする
此の世で我々が実際に感じさせられて居る自我もより大きいスケール、次元から見ると其の自我が幻想領域のものであるということが俯瞰視されるのであります。
即ち物質界は無常であり無常であるものは苦なのではありますが其の無常であることを無常であるとそのまま認めて仕舞えば苦は生じなくなるのです。
同時に我を知覚しない我が本源的要素ですが我をつい設定して仕舞うので我の見方につい固執し苦の連鎖を生んで仕舞います。
ですので究極の生の肯定とは、まさに其の無常の世界に誤って知覚する自我に対する拘りを断つという部分にこそかかって居ります。