目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

究極の肯定とは何か-Ⅱ



究極の肯定とは単なる生の肯定ではなくむしろ生の否定から生ずることだろうある種回りくどい道ゆきでのことです。

単純に生きることが好きだ、仕事が好きだ、女房子供が好きだ、 レジャーが好きだ、などというのは実は生そのものの肯定ではないのです。


兎に角この単に好きだ、という構造での範疇の考えは皆真の意味での肯定には繋がりません。

然し実際にはこの世の価値観は皆この単に好きだ、結婚したい、だとか、単に儲けたい、大金持ちになりたいから、というように全くもって屈折などはして居りません。


然しそういうのは限界がある訳です。

限度が早く来て仕舞うということです。



現代文明というのは、一言で云うと其の種の本能的な行程が究極的に巨大化されたものだと考えられます。

実際には其処には理性も何もありません。

其れはただデカくハヤくゼイタクに生きようとしたばかりでのもので、 つまりは本能的な行為をより大規模に行っただけのものなのであります。


だから現代という時代には精神が無いのです。

或は精神が圧迫されもはやアップアップです。


兎に角そうした本能から発した行為の全てが限定的なものとなる宿命を担って居ます。

本能的な行為は、出現するのが短くゆえに消え去るのが早いのです。


だから現代文明は生き急ぎ過ぎて居るのです。

逆に永遠に生きたいと思うのであれば、あの老子流ののらりくらりの生き方とか、或は釈尊流のこの世は諸行無常にして諸法無我だからこんなものに拘ってるな、この凡夫共めが!の方で完璧です。


急げば急ぐ程自らの未来を閉ざし現在の自分の首を絞め続けることだろう現代文明。

はてこんなことを言って居ると何やら本当に情けなくなって参りました。

これまでの人類の知恵の集積とは一体何だったのでしょうね。



さて人間というものは何かということを考えますと、一言で其れを言い表せば自我の働きである、ということにもなろうかと思われます。

其れも人間の活動の主要な部分はこの自我の働きから齎されて居るものでありましょう。


仏教という宗教は大昔ではありますがかってこの自我の部分を考えることから始まったと言っても過言ではありません。

この自我の働きこそが人間の活動の舵取りを行いかつ諸の価値観の構築にも繋がって居り、其れは二千五百年前でも現在でも全く同じこと、何だ、結局人間なんて全然変わっていないじゃないか、と 嘆いても其れは当たり前のことで元々人間とは其の位のものでしかあり得ないのであります。





比丘たちよ,色は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは我所ではなく,わたくしの我ではない。如実に正しい智慧を以て是の如くに観るべきである。受は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。



とかって釈尊は語られた訳ですが、この中の我所という言葉に少し注目してみましょう。

無我なるものは我所に非ず、との仰せです。

つまり無我であるー思うにまかせず苦に充ちたーこの世界は私の本来居るべき場所ではないのです。

また私だと思って居る其の私も本来の私では無いのであります。


では一体何が真の私なのでしょうか。

でも真の私を発見するには、先に申しましたように一種回りくどい道ゆきが必要であるようにも何となく感じられます。


つまり本能の命令に従い自然から収奪して毎日たらふく食べたり日々女を孕ませたりして居るうちは全部其の真の私の行為の範疇ではない、ということなども何となくは分かるのであります。

ですので真のわたくしを発見する為のつまり真の自己に目覚める為の道程こそが仏法であるということにもなりましょう。


真のわたくしを発見する為には智慧が要ります。

たとえば智慧は思想的な闘争からより近づけるものであろうとそう個人的には考えて居ります。


前回に藝術家や宗教家に於ける思想的な闘争のことにつき言及致しましたが、まさにそうしたことなのです。

身を削り命を削る程にこの世の無明ー本能的な無知の領域ーと 闘ってこそ浮かぶ瀬もまたあろうと個人的にはそう思うのであります。

勿論そうして居ると結局は早死にしそうなのですが精神の上での追求とはあくまで其の様なこととなるもののようです。



無常を根拠に苦法が存立し,苦法に依って無我法が成立する。

一切が無常なのですから其れに反する我を幻想して居る我々はまさに苦法のさ中にくべ入れられていく。

仏法は其の主体的な苦が無我であることを導き出します。

そして苦は観念ではなく事実です。

実際に毎日苦しいが一体これは如何なることなりや?

仏法に於ける苦とは思うままにならないといういう意味での苦しみのことです。-


キリスト教では原罪や神の教えとの乖離などを苦の原因として考えて居るようですが仏教でも仏を信じようが信じまいが此の世は苦しみに充ちて居るところです。

何故そんなことになって仕舞って居るのかと云えば其れが全部カン違いに起因して居ると釈尊は考えられた。


我々凡夫のカン違いにこそ其の苦の原因がある。



四顛倒

1.無常であるのに常と見る
2.苦に充ちて居るのに楽と思う
3.人間本位の自我は無我であるのに我があるとする
4.不浄なものを清らかだとみなす


然しこの四項目のひとつでも見方を正せて居る人は現代人にはせいぜい百人居るか居ないか位のことでしょう。

現代人は近代的なものに身を包まれし原始人ー精神のレヴェルに於いてはーですので大抵の人が全項目引っ掛かって居りまさに無知無明のさ中にあるということです。


でありますから、実は此の世が無常であること自体や苦に充ちた世界であることや、不浄がメインの世界であるということに対しては其れ自体に何の問題も無いということなのです。

元々そうしたふざけた、まるで牢獄の如き、まさに腐ったようなものが目一杯に噴出することだろう世界なので其処に捉われを持って仕舞うこと自体が問題であり無知でありまた無明なのです。

元々そうしたふざけた世界にわざわざ出て来て居るアホが現在のわたくしなのですから、其のアホをアホとして自覚して、御免なさい、どうもすみませんでした、もう二度とHは致しません。もう二度と腹一杯食べません。もう二度とゼイタクはしません。もう二度と仏の智慧には背きません。

と確りと反省して無知であり無明であることを治す方向へと精神の舵を切らねばなりません。

つまり我々のアホさに見合った世界が用意されて居てそれぞれに見合った世界へ我々は送り込まれていくとおそらくはそういうことなのでしょう。

ですので無我なる我はー真のー我では無いのにそうされて仕舞って居て、また本来居るべき場所ではないにも関わらず何故か此処に居なくてはならないのであります。

そういうのが全て我々のアホー無明ーの部分から齎されて居ることである。

従って其のアホを治すことがこの無常の世界、無我の世界から脱する為の唯一の方策となるのです。

ところが現代人は逆に自分がお利口さんであるとそう思って居る始末で全くコイツはタチが悪い考えである。

ゆえに現代人はこの無常の世界、無我の世界から脱するどころか、逆により強くこの苦に充ちた世界に縛り付けられて来て居ます。

また其のアホ度ー無明の度合い、本能的拘りの度合いーの方もより増して居ると考えられるのであります。


ですが現代文明批判、実はこれも全くもって意味の無いことです。
元々そう歩まざるを得ない人間存在の非をついたとしてもどう考えても其処に意味は無い。
         

ゆえに仏教徒というものは、真の意味での仏教徒というものはそんな批判めいたことはしないのであります。

外側を批判するのではなく、自らの心の内側を批判して正していくのが真の仏教徒としての責務なのです。


ですが私の場合には半分位は文人の方も入って居るゆえついこんなことをして仕舞って来て居るのでしょう。



3.人間本位の自我は無我であるのに我があるとする

此の世で我々が実際に感じさせられて居る自我もより大きいスケール、次元から見ると其の自我が幻想領域のものであるということが俯瞰視されるのであります。


即ち物質界は無常であり無常であるものは苦なのではありますが其の無常であることを無常であるとそのまま認めて仕舞えば苦は生じなくなるのです。

同時に我を知覚しない我が本源的要素ですが我をつい設定して仕舞うので我の見方につい固執し苦の連鎖を生んで仕舞います。


ですので究極の生の肯定とは、まさに其の無常の世界に誤って知覚する自我に対する拘りを断つという部分にこそかかって居ります。

自我を無くすと往々にして死に至ったりも実はして仕舞う訳ですので自己に拘る範囲を小さくするか一見拘って居るようで居て結局は何も拘って居ない、という状態にしていった方が良い訳です。