然しながら山では二種の難に今回悩まされることとなった。
棚山の涸れ沢の九合目辺りで執拗な虻の攻撃に遭い這う這うの体で七合目の車の所まで逃げ帰った。
豪雨の為十メートル先が見渡せず、おまけに車の周りを終始雷鳴が轟いて居り生きた心地がしない。
この雷雨の範囲は意外と広く香嵐渓の辺りまでずっと道が濡れて居たが其処を過ぎるともはや普通に晴れて居た。
其のような訳で今回は山に滞在した時間自体が短かった。
対する文明の利器というもの、たとえば自動車などはもう本当に便利なものである。
あらゆることに於いてそう。
先の話で云えば、山中にて凄い雷雨に遭遇したとしても、本来ならどこぞの洞窟にでも避難して其処でやり過ごせば良いことなのである。
然し現代人はすでにそうした我慢乃至は悠長さ、或は丁寧な行動というものが取れなくなりつつある。
ゆえに怖いと感じたら兎に角一刻も早く其処から逃げ出したいのである。
実際現代人は想定外の嫌なことからは全部逃げ出したい。
だから結局丁寧には生きられないのである。
近代と前近代の時代に於ける人間の行動の本質的な違いとはこの丁寧に生きて居るか否かの違いにこそある。
何故ならここまで忙しいとひとつひとつの行為を丁寧に行って居る暇など元より無い。
特に田舎の人は屡自嘲気味にそういうことを仰る。
が、私は何故そういうことを仰るのか以前から不思議に思って居た。
何故なら田舎には自然という一番大事で価値のあるものがあるではないか。
虚の価値と実の価値とどちらがより本質的な価値かと云えば無論実の価値の方がそうである筈だ。
哀しいかなそうなって仕舞って居ることは如何ともし難く結局我々は実の価値の方よりも虚の価値の方を選んで仕舞う。
虚的な価値の流れのうちに身を置き現在をより現在化しつつ生きる。
現代の都市文明はそうした原理のもとに営まれて居るだろう一種の倒錯的世界であり倒錯的な価値観の場である。
だが、人間はもはや自然の中だけに住して生きられるものでは元よりない。
先に述べたように、自然は誤魔化しが効かず直接的に人間に牙をむくものでも時としてある。
其の時になっても平然として居られる人間などもはや何処にも居ないのである。
都市という共同幻想がすべからく想定内の未来を思い描いて居ることとは違ってそうした想定外の恐怖を味わうこと自体がまさに自然ということなのである。
自然ということは一見不合理な出来事の積み重ねのように見えて実は秩序立って居り一面では合理的でさえある。私は今其の種の合理性、論理性のことに関して深い関心を寄せて居るのだ。
またたとえば釈迦が説いた仏教などは後の大乗仏教などとは違って恐ろしい程に合理的と言うか合目的的で論理的である。
だから論理的であることと合理主義であることとは大きく違うことであるように最近考えられてならないのだ。
合理主義というのは、理性の合目的性に関しては精緻な行動をとるものであるように思われるのだが其の範囲外のものに対してはぞんざいな行動しかとり得ないのだろう。
だけれども、人間の理性が想定する現在や未来に対しては其れは不合理的に作用する何ものかなのだ。
選ぶというよりも智慧の部分の論理性を是非復活させていくべきだろうと私は思うのである。
たとえば将来産業の多くの現場で人間の仕事がロボットに奪われて仕舞ったり、或は地球がもうダメなので火星へ移住しましょうとか科学者共に言われ大金持ちの連中は皆火星へいかされる羽目にもなろう。
ここで問題なのは其処に知恵が無いということである。
先にも述べたように基本的に心的現象の本質を捉えられない合理主義的な世界観は生身の人間にとっては全く訳の分からないことを平気でやろうとしていくのが常である。
対して我々人文科学、社会科学系の人間は元々其の位のことは分かる人間なので実は大きな使命をこの人類のまたは地球の未来に対して担って居るのである。
知恵というものもひとつの論理的構築作業かとも思われるが其れはあくまで心なき合理主義の世界観とは違うものなのである。
だから私はあくまで今回素晴らしい経験が出来たとそう考えて居るのである。
こうして人間の想定外のことをしでかす自然というもの、其の素の姿に触れ得て初めて知恵の部分が発動するのではなかろうか。
だからそうなる為には突然の雷雨や虻共の襲撃が是非必要なのである。
従って今回の私の災難などは其れ等に比べればまさに屁でも無いようなことだ。
おまけに本当に久し振りに夏休みらしい子供の行動が見られて何だかとても安心出来たのだった。
其れで出来れば自分も素っ裸になって川の中へ飛び込んでみたいのだがたとえば夜中に行って其れをやって居ると逮捕されて仕舞う可能性もまた高いことだろう。