目覚めよ!

文明批判と心の探求と

想定外の体験こそが知恵に繋がるのではなかろうか


さてまさにとんぼ返りで山から戻って参りましたが今回山では物凄い雷雨に遭遇しまさに這う這うの体で逃げ帰るという珍しい体験をしつつ戻って参りました。
鳳来寺山自然科学博物館で買いそびれて居た館報を求めましたが、其の折に其の博物館の前を流れる川でおそらくは地元の人々と思われる子供たちが次々と川へ飛び込み群れ遊ぶ様を見、其れがまさに都会では決して実現しないだろう夏休みらしい光景であり脳裏に焼き付くこととなりま した。


然しながら山では二種の難に今回悩まされることとなった。

1.虻の攻撃を受け怖かったこと

棚山の涸れ沢の九合目辺りで執拗な虻の攻撃に遭い這う這うの体で七合目の車の所まで逃げ帰った。

2.雷雨に遭遇し恐怖を感じたこと
車の中で涼をとり林道探索に備えて居たところ、俄に雲行きが怪しくなり突如の大雷雨となった。
雷の方が兎に角凄まじくとてもハイキングどころではない為山を下りる決断をしたが、其の下山こそが恐怖の道行であった。


豪雨の為十メートル先が見渡せず、おまけに車の周りを終始雷鳴が轟いて居り生きた心地がしない。


この雷雨の範囲は意外と広く香嵐渓の辺りまでずっと道が濡れて居たが其処を過ぎるともはや普通に晴れて居た。


其のような訳で今回は山に滞在した時間自体が短かった。

其処で自然というものは甘くはないということを久し振りに痛感させられた。
然し其れでも尚自然は自然なのである。


対する文明の利器というもの、たとえば自動車などはもう本当に便利なものである。

然し自動車に慣れ切って仕舞い本来不便であるという自然の本質をスッカリ忘れ易いことこそが文明の抱える本質的問題である。


あらゆることに於いてそう。

飽食や他の諸の放埓に於いてそうなのだ。
本来ならば規定されし分限、限度があるにも関わらず無限に消費し今を楽しもうとする其の姿勢、精神こそが倒錯なのである。

さて不便であるということは便利であるということに比して劣って居ることなのだろうか。
私は決してそうは思わない。
不便であるということは逆に人間にある種の丁寧さを要求して来ることなのである。


先の話で云えば、山中にて凄い雷雨に遭遇したとしても、本来ならどこぞの洞窟にでも避難して其処でやり過ごせば良いことなのである。

其れで時間をかけて山を下りていけば良い話なのである。


然し現代人はすでにそうした我慢乃至は悠長さ、或は丁寧な行動というものが取れなくなりつつある。


ゆえに怖いと感じたら兎に角一刻も早く其処から逃げ出したいのである。

そうした我慢の無さがあり気の長さや丁寧さに欠けて仕舞って居るのが現代人の一般的な心性なのだと云えよう。


実際現代人は想定外の嫌なことからは全部逃げ出したい。

快適さや快楽の追求ばかりをして来て居るからもはや諸に於いて我慢をすることが出来ない。


だから結局丁寧には生きられないのである。


近代と前近代の時代に於ける人間の行動の本質的な違いとはこの丁寧に生きて居るか否かの違いにこそある。


我々は今や非常にぞんざいに生きて居る。
ひとつひとつの行為がぞんざいになって仕舞って居る、いや、ぞんざいにならざるを得ないのである。


何故ならここまで忙しいとひとつひとつの行為を丁寧に行って居る暇など元より無い。

そんなことをして居たら社会から取り残されて仕舞うので全部適当にパッパッとやっていくしかないのである。



さて屡語られる意見として田舎には何も無いということがある。


特に田舎の人は屡自嘲気味にそういうことを仰る。


が、私は何故そういうことを仰るのか以前から不思議に思って居た。


何故なら田舎には自然という一番大事で価値のあるものがあるではないか。

逆に都会にはそうした真に価値あるものが無いのであるから其の価値はすべからく虚のものであるに過ぎぬ。


虚の価値と実の価値とどちらがより本質的な価値かと云えば無論実の価値の方がそうである筈だ。

ところが便利さに飼い慣らされ虚の価値の方にどっぷり浸かって居る我々にはむしろ虚の価値観の中で生きて行くことの方がやり易いのである。


哀しいかなそうなって仕舞って居ることは如何ともし難く結局我々は実の価値の方よりも虚の価値の方を選んで仕舞う。


虚的な価値の流れのうちに身を置き現在をより現在化しつつ生きる。

従って思考のサイクル、思考自体が短慮かつ短絡的だから大きく将来を見据えたような考え方には欠けて仕舞う。


現代の都市文明はそうした原理のもとに営まれて居るだろう一種の倒錯的世界であり倒錯的な価値観の場である。


だが、人間はもはや自然の中だけに住して生きられるものでは元よりない。


先に述べたように、自然は誤魔化しが効かず直接的に人間に牙をむくものでも時としてある。


其の時になっても平然として居られる人間などもはや何処にも居ないのである。



ではあっても、矢張り人間としての生活が自然本位であることは何より魅力的なことなのだ。
たとえ山の中で雷雨に遭おうが、或は虻に襲われようが何だろうが、其の経験は都会では決して得られない謂わば外部からの何かなのである。


都市という共同幻想がすべからく想定内の未来を思い描いて居ることとは違ってそうした想定外の恐怖を味わうこと自体がまさに自然ということなのである。


自然ということは一見不合理な出来事の積み重ねのように見えて実は秩序立って居り一面では合理的でさえある。私は今其の種の合理性、論理性のことに関して深い関心を寄せて居るのだ。


またたとえば釈迦が説いた仏教などは後の大乗仏教などとは違って恐ろしい程に合理的と言うか合目的的で論理的である。

この部分の論理性と自然界に秩序立ってある論理とが重なって見えて来て仕方がないのである。


だから論理的であることと合理主義であることとは大きく違うことであるように最近考えられてならないのだ。


合理主義というのは、理性の合目的性に関しては精緻な行動をとるものであるように思われるのだが其の範囲外のものに対してはぞんざいな行動しかとり得ないのだろう。

然し自然はあくまで精緻で丁寧な行動、つまり現象の積み重ねなのである。


だけれども、人間の理性が想定する現在や未来に対しては其れは不合理的に作用する何ものかなのだ。

であるならば我々は一体どちらを選んで生きて行くべきなのであろうか?


選ぶというよりも智慧の部分の論理性を是非復活させていくべきだろうと私は思うのである。

実際知恵の無い合理主義程怖いものも無い。


たとえば将来産業の多くの現場で人間の仕事がロボットに奪われて仕舞ったり、或は地球がもうダメなので火星へ移住しましょうとか科学者共に言われ大金持ちの連中は皆火星へいかされる羽目にもなろう。


ここで問題なのは其処に知恵が無いということである。


先にも述べたように基本的に心的現象の本質を捉えられない合理主義的な世界観は生身の人間にとっては全く訳の分からないことを平気でやろうとしていくのが常である。

かっては原爆を造ったりコンピューターを造ったりしたのも結局其の訳の分からない部分の表出である。


対して我々人文科学、社会科学系の人間は元々其の位のことは分かる人間なので実は大きな使命をこの人類のまたは地球の未来に対して担って居るのである。

要するに、其処に知恵を付け足してやること、其れにこそかかって居る。


知恵というものもひとつの論理的構築作業かとも思われるが其れはあくまで心なき合理主義の世界観とは違うものなのである。



だから私はあくまで今回素晴らしい経験が出来たとそう考えて居るのである。

自然の中で恐怖ということを感じさせられること程学ばされることもない。


こうして人間の想定外のことをしでかす自然というもの、其の素の姿に触れ得て初めて知恵の部分が発動するのではなかろうか。


だからそうなる為には突然の雷雨や虻共の襲撃が是非必要なのである。

なのではあるが、今後人類はそうした部分を巨大台風の上陸や大地震の発生などの面で嫌という程見せつけられることになろう。


従って今回の私の災難などは其れ等に比べればまさに屁でも無いようなことだ。


おまけに本当に久し振りに夏休みらしい子供の行動が見られて何だかとても安心出来たのだった。


其れで出来れば自分も素っ裸になって川の中へ飛び込んでみたいのだがたとえば夜中に行って其れをやって居ると逮捕されて仕舞う可能性もまた高いことだろう。


いずれにせよ、夏休みは幾つになっても本当に楽しいものだ。