謎が解明? “お坊さん便”でわかった仏教界の「格差地獄」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160320-00000017-nkgendai-life
仏教会は猛反発 お布施定額「アマゾンお坊さん便」はアリ?
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/177192/1
こんな風に今や仏教の世界もつまるところは金次第なのである。
元来数値としての価値である金というものは合理主義と結びつき易い。
合理主義は金を求めパワーを求め最終的には自己破壊を求める。
求めるものの過ちにより、其処で自己矛盾しかつ自己破壊していくほかなくなる。
宗教は然し、今合理化されていかざるを得ない。
たとえば其処に権威的ヒエラルキーが確立されし宗教は、以上にもあるような搾取構造を必然的に生む。
また其れは何教だからということではなしに、組織の常として其の様になっていかざるを得ない。
ゆえに今宗教とは矛盾であり自己破壊そのものである。
本来ならば其の矛盾や破壊からこそ人間を救うものであるべき筈であるのに。
それにしても私達は何故こんな世界に今生きて居るのだろう?
合理性が細かい部分にまで入り込み其れでもって雁字搦めにされて仕舞うことだろう社会を。
合理性の追求は私達を次第に追い詰めていくことだろう。
確かにお布施はかって“お気持ち”だったのだろうが、今やお布施とは一定以上のお金を渡すことそのものなのだ。
また今や僧侶は職業でありだからこそ其れにて食っていかねばならないのである。
上納金や寺の維持費を差し引いた分でもって食っていかねばならない。
ちなみにわたくしは、合理性の追求にはある種の合理性でもって対抗すべきだと最近考え始めた。
合理化される世に於いては、前近代的な価値観の部分への圧迫が日増しに強くなろう筈。
マスメディアなどでもより古いタイプのもの、たとえば新聞などが今後は非常に苦戦を強いられる筈である。
或は文學などももうずっと以前からそうなのかもしれない。
そうしたものでもある種の合理性でもって生き残る努力を続けて居る試みがあるのだろう。
「斜陽」×「高齢化」の可能性 新聞屋がドローン飛ばす理由
http://news.yahoo.co.jp/feature/129
この様に生き残るにはどうしても様々な努力が必要である。
昔はそうした努力なく普通にあったものが、此の合理度の高い社会に於いては存続が難しい。
またたとえ人間でもたとえば非合理な部分を多く抱える人間などは抹消されていかざるを得なくなる。
合理性は其の様に人間の内外の隅々にまで入り込み全てを変えて行かざるを得ないのである。
謂わば人間自身と其の周りのものを全て変えていくのだ。
無論のこと其処でより合理的に変えていくのである。
そうしてどこまでも合理度を高めていく。
だからむしろ其の変化に対応していかねばならない。
対応していかねば滅びるしかない。
非合理な領域はもはや滅びるしかないのである。
其の対応が非合理的な方法では実際埒があかぬことだろう。
合理には合理で対抗する他はないと云う事だろう。
従って仏教会は仏教をしてむしろ進んで合理化して行く他はないのである。
今やお布施は“お気持ち”ではなく、お金即ち金額のことなのである。
僧侶は聖なる職業ではなく一サラリーマンのことである。
また仏教では其処に於ける宗派や檀家制度が大事なのではなく、仏教として執り行う儀礼、儀式としての部分やまた其の部分とは対照的に位置する実践的な要素ー読経する、禅定を組むなどのーこそが大切なのである。
さすれば仏教が組織ではなかった頃の其の純粋さが少しは取り戻せるのかもしれない。
尚儀礼、儀式としての仏教には元より其処に意味など無い訳ですが、それこそ長い年月の間に変容し儀式化された今の仏教には其の部分こそがむしろ大事である。
ゆえに仏教は一面でお金の価値に還元され得る世界へとむしろ変えて行くべきなのである。
なんとなれば仏法の上での真理というものはもはや此の世界に示され得ないものなのだから。
いや、確かに仏への機根を求め得る人々はむしろ現代人の中に多く存在して居るのかもしれない。
苦の多い、此の現代という時代にこそ仏法の上での真理は説かれて然るべきものなのだろう。
然し、其処であくまで真理は真理、生活は生活、打算は打算、なのである。
生活と真理は違い、また現実と理想は違い、即ち生きることと死ぬことは違うのである。
だから我々はむしろ変化を受け容れなければならない。
たとえトランプ氏が米国の大統領になろうが、温暖化が進んでこう異常に雨が降ろうが、はたまた仏教が合理化されようが、そんなことは此の世界に於ける本質的問題ではないのである。
本質的問題は、確かに合理主義による世界の破壊にこそ存するのだとしても、残念なことに我々には其れを本質的な解決に導くだけの力が無い。
其のパワー不足の故に我々は今此処に存在して居るのであり、其れでまさにこの様な自己矛盾領域を常に苦として歩まねばならぬ境涯にあるのだ。
そして究極的には此の地球が滅するという、或は文明が滅ぶという最大の自己矛盾領域をも受け容れねばならない。
合理主義が必然として金を求めパワーを求め最終的には自己破壊を求めることから、其の最大の自己矛盾領域としての滅亡が近い将来に到来するだろうことはほぼ間違いない。
其の間に何を行うか、何が出来得るか、ということである。
其処での非合理領域の復興はもはや無理と云うものである。
宗教が、新聞が、文學が、各地の商店街が、またかのサザエさんのようなごく普通でかつ幸せな中流家庭がそのままに復活することはもはや可成に難しい。
となれば、其れ等をむしろ合理的領域へと、其の魔の領域へとすり寄せていくことこそが必要となるのである。
そして此の考え方は、実は仏法の上での考え方でもあるのだ。
世を乱し、劣化させ、そして常に騒がしく、要するに品がなく、何より魔を進め、やがては地球を壊すことだろう其の合理的パワーも所詮は観念の上での何らかの戯れ、今此処に在る自分の体自体が何らかの戯れであることと同じくして全てが虚としての何らかの戯れ。
其の戯れに拘泥してはならないとかって釈尊はしかと述べられて居る。
だから仏教の世界が合理化されることも須らく其の虚の流れの中でのこと。
僧侶がアマゾンから派遣され立派な派遣社員となることなども無論のこと其の虚の流れの中でのこと。
其れでもって定額料金(3万5000円~)を払えば、我々庶民は大いに助かりおまけに永代供養付の墓のマンションにでも入ればまさに後顧の憂いなくあの世へやらと旅立つことが出来よう。
だが其処であの世へ安らかに旅立とうなどと決して考えてはならない。
あの世へ安らかに旅立てる人など此の世にそう何人も居ない。
より正確には多分零であろう。
あの世へ安らかに旅立つ為には生きて居る間に徹底して心を清めて置く必要があろう。
でも此の魔の合理主義世界に於いて其れは成らない。
だからそうした方便の今をこそ我々は生きて行かざるを得ない。