理性とは其れ即ち分解でありかつ即ち矛盾のことであります。
分解ということは、其処でそも其れが小さくなって仕舞って居るのです。
より大きな理性即ち神仏レヴェルに於ける理性というものは、元々顕在化しないつまりは理性という形での分解過程を辿りませぬ。
だから其れは、其の理性の顕在化の過程こそが一種の傷であり負い目であり良い悪いで云えば決して良くはないことである。
釈迦は、或はキリストはおそらくは其の辺りの事情、真相を見破って居たことでしょう。
或はレノン様やボウイ様、またはあのルドンやダヴィンチ、バッハやベートーヴェン、はたまた洞窟オジサンなどは皆其の仕組みを直観して居たのかも しれない。
見破るということは勘の良さからのことです。
即ち其処にカンピユーターが出来上がって居るということです。
これはどうも論理じゃないんです。
論理的帰結つまり理窟による結論ではない訳です。
論理というのは、言語が生じさせる限定のことです。
限定だから、直線的に結論に至らざるを得ません。
つまるところ論理も存在も全部が限定です。
限定だからこそ我々は今此処に生じて来て居ります。
かってのボウイ様も絵画も道端の花も皆其の限定です。
其の花の香りを嗅いで喜んで居るわたくしの感情または観念も限定です。
即ち限定とは存在ー現象ーのことです。
お分かり頂けたことでしょうか?
限定されし何かは、必然的に自己矛盾化します。
謂わば矛盾過程を歩まざるを得ないのが現象という存在であり現在である。
よって此の世の中のものでまともに良い方向へ歩んでいけるものは何ひとつありません。
良いと申しますか、劣化しない方向性へ行けるものはないと考えても良いことだろう。
存在すること自体が、劣化なのであります。
人間にはまず其のこと自体が理解出来て居ない。
たとえば仏教では無常という概念で、またキリスト教では原罪という概念で其の劣化、負債性を表現して来て居ます。
ただしわたくしは其の原理をあくまで自分の言葉でもって表現して来て居ります。
共に結果的には同じことを言って居るのですが、真理を捉える位置及び方向性が異なるので別の言葉でも表現し得るのです。
劣化と申しましても、仏教では必ずしも劣化していく訳では実はありません。
人間の歴史過程そのものがドンドン悪くなっていくものとは考えられて居りません。
対してキリスト教に於いてはまさに人間の歴史過程そのものがドンドン悪くなっていくものとそう考えられて居ります。
仏教に於ける歴史過程というものは、人類の歴史過程のことではなく個としての内面の歴史過程のことです。
ですから個としての内面の歴史のみが其の教えの対象物となって居ります。
つまり元来の仏教には社会という概念など存在して居ないのです。
社会は直らないものなので、或はそも直すべき対象のものではないので、そうした無駄なあがきは止めて個としての内面の歴史のみを正していきましょうといった教えのことです。
要するに小さいんですね、其の対象となる範囲が。
でも大きいんですね、結果的に正される範囲が大きくなるんです。
個の範囲で其の劣化の部分を、負債性、瑕疵性の部分を治していきましょうという教えのことです。
ここで劣化というからには、其処に時間の流れが含まれて居ります。
負債性、瑕疵性が存在の根本にあるからこそ、時の流れと共に劣化するのです。
社会も個々人も、そのままでは結果的に劣化致します。
たとえ仏教に於いても其れはそうなのだと思われます。
ところが法ー仏教に於ける真理ーを護持することにより其の劣化を逆に向上させていくことが出来ます。
其の様な方向転換こそが仏法に於ける本質の部分なのでしょう。
対してキリスト教では此の悪魔に支配されし悪い世の中が一度は滅ぼされる必要が生じます。
ということはキリスト教ではこの悪い世の中のことを直そうなどとは決して思って居ないということなんです。
やがてにっちもさっちもいかなくなり世が滅んだ後で、神と繋がりし者だけが救済されるのですから、これはもう究極の選民思想ということになります。
然し仏教でも結果的に苦から解放されるのは仏になれた者だけです。
実は神や自然でさえ苦からは解放されることはない。
人間として此の世での自己矛盾性を乗り越えし者、真理に到達した者だけが成仏出来るのであります。
だから本当のところ、事実として成道したのは歴史上釈尊お一人のみです。
お経を唱えたり幾ら座禅をしたにせよ、成道し涅槃に至るなどということが出来得よう筈もない。
其の向上についてですが、まさに其れこそが真の建設です。
此の世に於ける真の建設であるということです。
然し本当の本当は、原始仏教に於いて建設や構築といった言葉はむしろ魔の範疇での言葉として用いられて居ります。
つまり常識とは反対の意味でこそ捉えられて居るんです。
たとえば、
愛。
それから、
利益。
また、
前向きな何か。
より良い社会の建設やより強固な権威や権力の構築、などということも皆其の魔の働きです。
むしろ何も望まないこと、一切の執着から脱してなるべく速やかに此の限定である自己矛盾性即ち存在することー現象して居るということーから逃れて いくことこそが根本の仏教に於ける目的そのものです。
などと言うと、滅茶苦茶言ってやがると或は思われるのかもしれませんのですが、仏法に於ける真理とはもし言葉で表すとすればそう申すほか無いのですから其処は仕方が御座いません。
つまりは全否定のようにも見えるものが全肯定にも繋がるということなのです。
ですが其れもより正確には否定でもなく肯定でもない中道の境地から仏という真理の成就を心の中で行うということです。
存在に必然的に纏わりつくであろう欲望は肯定すれば即餓鬼、畜生道に住まうこととなりましょう。
逆に欲望を否定すれば死の住人とならざるを得なくなる。
ま、別に死ぬなら死ぬで構わず原始仏教に於いて別に自殺が否定されて居る訳ではない。
もっとも大乗仏教やキリスト教では自殺は大いに否定されて居りますがね。
現代文明は欲望を肯定して行う大花火大会ですので今まさに餓鬼、畜生道に我々は住まって居ることとなる。
其れはあくまで自殺ではないが自滅するということなのでしょうな。
結果的には自殺と同じことながら、あくまで仏法の上ではプラスの欲望の暴走の果ての自滅なので自殺よりももっとタチが悪い。
この様に真の建設というのは、人間を大いに栄えさせる方向性でのものを指して云うのではないのです。
むしろ人間を此の世から脱出即ち避難させる、イヤな言い方をすればこの世から抹消させていく、というのが本当の本当の意味ででの建設です。
ですが日本の大乗仏教徒はこうした考え方に慣れ親しんで来て居りませんから少し刺激が強過ぎる考え方なのかもしれません。
要するに存在、ということに対する捉え方がそもそも異なって居るのです。
原始仏教即ち釈尊が説かれた仏教と後に中国から輸入した大乗仏教とでは細かな点で異なっていって仕舞う。
概ね後代に創られた仏教の教えはより一般化しまたより現実的にもなっていくということです。ー往往にしてより楽な方向へ行くということだ。ー
其の代わりにまさに本当の本当の意味での意味合いというものがスッカリ抜け落ちて行って仕舞ったりも致します。
だから気を付けて居なければなりませんね。
そうでないと誤解、曲解の温床ともなり得るのが大乗仏教に於ける一般性であり団体主義です。
さて、無論のこと自然というものも其の餓鬼、畜生道そのものなんです。
本能に基づき生きることは其の餓鬼、畜生道そのものであり、其れはまさに仏の心とは遠い境地でのことでしょう。
ただし自然というものは、其れ自体でひとつの完結した、そして完全な自己矛盾過程です。
ですので其処に於いて余分な苦しみ、苦悩が生じて居るということではない。
謂わばそのままに苦の世界なのですから、また其処では分解が一重であるに過ぎないのですからつまりは自然なんです。
全部が自然に苦だということです。
だからあくまで基調は苦でも、其処に余分な苦が生じて居るという訳ではない。
対して人間の場合は二重つまるところ観念的領域というものを生じせしめる分解をも其処に受けて居るのであるからして、其処では兎に角苦が二重に厄介なものとなりしかも文明の方がまた其処に輪をかけてアホなので実は三重苦の世界に今我々は住して居るのだと申すほかは御座らぬ。
其のやうに三重苦の世界に喘ぎつつ生きる我々とはこれはもう何とも酷い目に遭って居る奴等なのだと申すほか御座らぬ。
しかしながら、我々には先に述べた理性というものがあろう。
そうだ、其れがある筈だ、兎に角理性でもって乗り切っていくとしてみよう。
でも理性とは限定であり結果的に劣化を引き起こす何ものかでもまたあるんです。
つまるところ理性とは劣化です。
なる程、だから今世界が理性的どころか、其処でむしろ理性もクソも無い滅茶苦茶の状況が繰り広げられて来て居るのですね。
即ち突き詰められし理性は逆流を始めて仕舞います。
理性の原始的退行現象が其処に始まり、即ち屁リクツがつい行き過ぎて仕舞い理性の範囲を突き破られしことで逆に本能領域がしこたま強化されやがては世界が弱肉強食の、または弱い者イジメの横行する、兎に角やりたいことだけし放題の、まさにまさに虐殺と虐待とで彩られし其の餓鬼道、畜生道の、また教師が罪を犯すことなどの多い世の中が其処に出現する。
即ち理性の暴走とは理知性より知恵、智慧の部分が抜け落ちることで其の様な顛末を迎えることとなる。
理性の原始的退行とは理性の暴走の果てに理性自らが理性の範囲を突き破りまさに逆流しつつ本能領域へとなだれ込んで行くことを其の様に申すのである。
其の現実的な例
1.教師の行いし犯罪
2.警察官、自衛官の行いし犯罪
3.親の行いし子供への犯罪
4.僧侶や神父による犯罪
5.一部の科学者が火星へ行くことだけを夢見て生きて居る事など
6.資本主義の金融化
7.社会主義の資本主義化
8.政党政治の劣化
9.民主主義の衆愚化
10.専門家の大衆化
11.大衆の専門化
12.人類の白痴化
13.宗教の劣化
理性の原始的退行ー皆頭が良くなりしかも良く考えられて居るにも関わらず屡至極下品な振る舞いをして仕舞うこと。
理性の原始的退行とは理性の自己矛盾過程そのものである。
顕在化されし理性は分解度が高い為突き詰める即ちより純粋に其れを履行することにより本能領域へと逆流して行って仕舞う。
我々が得て居られる理性とはあくまで其の様な不完全なものでしかない。
だから決して理性を過信してはならない。
特に近代主義が掲げる理性とは其処で智慧がほぼ完全に抜け落ちて居るだけに此の原始的退行現象を引き起こし易い。
すると理性的である筈なのに極めて非理性的な振る舞いを為し、むしろ其処に理性の理の字も無い、感覚的かつ感情的で非論理性に貫かれし現実が其処に成立するのである。
理性の原始的退行とは理性の行き過ぎ、其れも智慧無き理性の暴走から行われることだろう必然的帰結である。