たとへば観念的展開は自我という檻を創り出し己を真理から遠ざけて仕舞うことでしょう。
其の己の成立というのは生という限定の中でのさらなる限定なのですから余計にー二重にー自らを悪趣ー無明の段階ーに縛り付けて仕舞うということになります。
ただしカン違いをしないで頂きたい。
其の反対の自由ということが、何でも自由に行えるということが即己を解放するということではないのです。
何故なら自由とは不自由のことなのです。
女性が自由になれば、或は社会が自由になれば其れでもって皆が幸せになれましたか?
云うまでも無く20世紀の後半から欧州では特に女性の権利の拡大が叫ばれ所謂男女平等といった近代主義の履行が行われていきました。
でもそのことにより女性は或は社会は本当に自由で公平な立場を得ることが出来ましたか?
実際にはむしろ女性の婚期は遅れ離婚は増えつまり家庭が壊れ尚且つ男性は弱体化してと、まるでロクなことになっていないのではないでしょうか。
またグローバルに自由貿易を推進することで拝金主義と格差構造を社会に蔓延させ貧乏人をより生きにくくさせても来て居るのでしょう。
だから自由こそは敵です。
自由こそが敵である。
其の全体主義としての自由こそが逆に不自由の源泉になっているのである。
なのでわたくしは其の事実こそを世に示すばかりです。
尚、この社会の次元での話は真理の世界のお話とはまた別の話です。
勿論真理を希求する場合は其処で純粋に真理を追究する訳なので、たとえば其処に身を捨てて真理の為に邁進したり一生結婚しなかったりと所謂常識を超える部分がどうしても出て参ります。
宗教というのは基本的にそうした次元でのお話ですね。
対する俗世間では社会が均衡して継続していけば其れで良い訳ですのでそも其の根のところで真理を求めて居るわけではない。
むしろ至極現実的に利益乃至は果実を追い求め社会は動いていく訳です。
或いは一国民として、大衆の中の一人としてはまさにそうだということです。
ですので社会というのは真理とはまるで異なる価値基準でもって動いていく世界であるとそう考えておく方がより現実的です。
第一社会が或は文明がもし真理を指向していたならばこんな温暖化でもってしてあと百年も経たずに地球を破壊して仕舞うなんてことは起こり得なかった筈です。
社会が真理と乖離していた分が、其の方向性の違いこそが諸の破壊を生み出し揚句の果てに人間自身の破壊すら齎そうとして居るのです。
なので真理を社会へ照射すること、すわバカ社会よ真理に目覚めて自らのたたずまいを正せ、なんていうのは元々意味の無いことでありかつ望み得ないことなのであります。
社会は真理ではないので、かっては社会と教会、社会と寺社というように俗と聖の境がハッキリして居たのです。
ですが欲望を深追いし過ぎた現代社会はまるで自殺未遂を積み重ねて来たかのようだ。
自分で自分を傷つけ最後には永遠の母である地球を破壊する即ち殺すに至ることだろう。
こういう悪い生き物はどう考えても裁きにかけられ獄に繋がれる必要がある。
嗚呼、悪い子だ、本当に悪い子だ。
第一躾がなって居ない。
だからこそルソーを今一度学び直せとわたくしは言って居た筈。
其の躾の悪さは、理性が壊れて居る、即ちつひ本能になだれ込みガマンがならないことであるとわたくしは述べて居た筈。
そして其処で理性の意味を再び問い直す意味でカントの生真面目さこそを学びなさいとそう諭しても居た筈。
という事はだ。
社会には釈迦やイエススは要らず規制または規定だけが必要である、宗教による縛り以前にまずもって行う法秩序上の縛りの徹底こそが求められて居るということなのである。
だからつまりは、現行の法秩序だけでは足らない、全然足りてないよ、ということなのだ。
即ちもっともっと社会的に雁字搦めにし、或いは人間から行き過ぎた自由とやらを奪うべきだ。
もはや其れでしかこの巨大化せし欲望の追及の世界の流れを堰き止めることなどかなわずだ。
其の結果現代人がどうなろうがそんなことは知ったことじゃない。
第一このままでは全滅である。
しかも百年も持たないぞよ。
が、個々が個人的に真理領域に親しむことが其処に妨げられて居る訳ではない。
ということはつまり、社会の反省と個々の反省はまた別箇であるということにもなろう。
此の社会の建設と個々の建設を別個に行うということこそが今わたくしが提唱する全く新しい概念である。
其れは脱近代の方向性であり、尚且つ真理と現実を綯い交ぜにしないという脱真理での方向性のことなのである。
なんとなればもはや現代には真理の発現する余地が無いからなのだ。
其処で所謂ニヒリズムに陥った時代となる為、基本的に真理領域が壊されていくのである。
だから現代とは地球を壊す時代であると同時に真理を壊していく時代なのでもある。
でもそんなものでは必然的にもう地獄になって仕舞うので皆がよーく考えて行動すべきだとそう述べて来て居るのである。
所謂禅即行動とは、社会が其のニヒリズムに陥る以前でのー封建時代に於けるー行動乃至は真理を指し示すものであるに過ぎない。
然し現代では社会がより壊されて居る分、其の分をより強力に修復する為の復元力こそが求められていよう。
しかも個もバラバラに壊されて居る。
だが個の破壊は社会的な破壊よりも気紛れな筈だ。
其れは小さい分破壊を免れて居る部分さえある。
即ち個は、社会よりもより強靭な復元力を持つ。
なので個が真理に目覚めることは現代に於いても不可能なことではない。
社会はもはや真理領域にすり寄ることが出来ないので、其の分個こそがむしろ真理領域を指向すべきなのだ。
でも結果的に甘やかされし現代人は真理に目覚めることなど出来ない。
だから結果的に其処で脱真理であり脱近代である社会及び個が建設され得る。
などと少し小難しいことを述べましたが、要するに破壊に次ぐ破壊を重ねて来し現代に於いてはこれまで近代が行動した分の過ちを逆に観念化することでしか払拭し得ないことにつき述べてみたのである。
近代に於けるあらゆる行動が即破壊を生む、その様な段階へ至りし文明世界ではこと社会の変革に至っては観念化即ち理性化することでしか対処出来ないということをまさに述べたつもりである。