この善良と云う価値の選択が面白いと云うか目新しいところです。
まあ良く分からない内容ではありましたが面白い。
価値観と云うものが大事だと云う意味で面白い。
結局何処に目指すべき眞があるのか、何を奉じて価値となすべきなのかと云う事があり実は其れが人間に対して問われて居る根本の命題です。
結局我我は何を奉じつつ生きて来たのか?
と云う事自体が実は実存としての価値規定であり意味ー意義ーの創出です。
そして畢竟其れは内的な欲望との二元的選択の問題ー善悪の問題ーともなりましょう。
其れを相対化し全否定すると同時に全肯定ーあくまで結果的にーしたのが釈迦が得ることになった真理の道筋であった。
キリストは逆に絶対的他者ー神ーと同一化することにより善なる欲望と云うものを創出せしめた訳です。
ま、教師が幾ら非行や淫行を根絶せしめようとしても此の社会のレヴェルでの選択が間違って居る限り根本的には人間はなおりゃしません。
すると其処に宗教や哲學の領域と云うものが拓けて来る。
近代→欲望を絶対化し文明が自滅へとひた走る為の試み
前近代→あえて欲望を抑え文明が細く長く生きる為の試み
と云う事はまず間違いない事実であったことでしょう。
此処に至っては其れはもはや誰も否定し得ないことである。
何を奉じたのかと云えば結局近代は欲望だけを追い求めて来た。
自由も平等も豊かさも即ち近代主義が掲げる価値観の全ては欲望に萌した謂わば本能領域に属するものである。
然し理性と云うものが本来ならば人間には備わって居なければならない。
かのカントは其処に気付き道徳律による人間の規定を考えた。
其れは自発的な存続の為の縛りの意志とでも云うべきものでしょう。
欲望を追い求めてばかりいくと、やがては其の欲望自体のバランスが崩れ崩壊の方向へ向かう。
こんな風にして必然としての崩壊、破壊の流れが今世界を覆って居る。
然し其れはあくまで内的な欲望との二元的選択の問題に帰結するのです。
だから人間は人間全体としての選択を誤ったのだと言う他はない。
即ち社会が悪いばかりか人間自体が悪かった訳である。
なのでひとつの性悪説が其処に成り立ちますね。
此の人間と云う犯罪者集団が、前近代に於いては釈迦乃至はキリストの精神力でもって何とか生き延びて来て居たけれども近代に至り精神の自己矛盾により其れが弱まり其れで淫行や不倫の蔓延するまさにとんでもない世の中になって仕舞った。
そればかりか生き物は絶滅に向かい核は充満し温暖化は地球上の全てを破壊しつつある。
要するに分かって居ないのは人間だけなんです。
人間と云う性悪な生きものが欲望を制御出来ないことこそが此の破壊の根本因なのです。
だからわたくしは人間ではありたくないと何度も言うて来て居る。
左様に人間は絶対的矛盾を抱えるだろう因果な生きものである。
人間が一人居るとまず衣食住での満ち足りた暮らしを望む。
其処に女が加わると夜の営みが開始されすぐに二人が三人になり三人が六人となり其れがまた増えてすぐに一億人ほどにもなる。
其の一億人が夜の営みを開始するとすぐに二億人となりやがて二十億にも達しさらに数十年で七十億人以上となる。
嗚呼、コレではまるで猫や犬と変わらないではないか。
所詮人間とは猫か犬のどちらかだったのではないか。
いや、実はもっとタチが悪い。
猫や犬は野良状態にあると寿命が短いが野良人間と云うのはほとんど居ないから兎に角寿命が長い。
しかも科学の力で其の寿命を百歳まで延ばそうとさえして居る。
でも其れも全て近代と云う限度無き時代の所産であるに過ぎぬ。
だとすればこれはもうどう考えても人間は近代以前の段階へ戻るべきですね。
つまるところタイムマシンが必要である、タイムマシンが。
然し過去へ戻ることは原理的に出来ないなどと科学の世界では屡云われていたりもします。
ならばどうするか?
ズバリ言えばあくまで内的に過去に戻るべきです。
近代とは逆の方向を向き欲望を抑える方向を新たに学び直さねばならない。
まあ然しそういうのは以前のヒッピームーヴメントであり全共闘でもあった訳です。
でも私はそういうのともまた全然違う。
かの三島 由紀夫とも全然違いどちらかと云うとカントに近い考えです。
理性には限界があるしそうかと云って理性を外すと人間は獣=悪魔に容易に成り下がります。
なので原始退行しない理性=前近代的理性にて非国家単位での文化と伝統の存続を文明の礎として規定していくべきです。
つまるところは矢張りタイムマシンで前近代へと戻りたいと云う事になりましょうか。
大宇宙の摂理に従い否応なく規定されるところでの価値観のことを云う。
と云えば何やら新興宗教の祖のやうな言説ですが兎に角其れがわたくしが理詰めでもって考えに考えた揚句に到達した人間を規定する条件であり最終的な解答がコレである。
近代の営為は、其の大宇宙の摂理には反して居るので無論のこと正すべきところは正していかねばならない。
然し今人間は正すべきところを正すに足る精神力には欠けて居る訳です。
だからわたくしはこんなブログを創り此処で人間の精神を根本より問うていくこととしてみました。
然し人間は今精神を信じられなくなって居ます。
合理主義が精神自体を合理化し我々は合理的価値にのみ寄りかかり日々をそして人間自身を構築ー規定ーしつつある。
其処で謂わば全的な自己矛盾過程に入り込んで居るのです。
精神ー観念による霊性ーは矛盾化し、同時に肉体ー観念を離れた物質ーも矛盾化すると云うまるで訳の分からない世界に住して居ります。
訳が分からない=規定し得ぬものの世界としてでしか現代を規定し得ないと云った矛盾に追い込まれて居る。
矛盾そのものを生きるのが人間だと規定すればまあ其れも矛盾しないのではありましょうが。
何を奉じて価値となすべきなのかと云う事は其処に人間の実存的意味を問うていくことでもある。
其の価値は規定するものではなくして規定されるべき性質のものである。
人間は生まれるが生まれた時に男女、美醜、貧富などの価値を選択し得ない。
また死ぬ時期や将来を見通せない。
とすれば人間には本質としての自由は存在しない。
とすれば近代が解放する自由は虚の自由であるに過ぎない。
男女の違いでさえもまた美醜や貧富の差もまた然り。
思うに任せない世界の不自由さと云う本質的な苦を抱えながら我我は日々を生きて居る。
ただし、私の場合はあくまで近代以降の抱える問題につき危惧して居るばかりなのです。
近代以降の文明が抱える諸問題と前近代が抱えて居たであろう問題の質は大きく異なるからです。
其処はまあ大宇宙の摂理に対する距離の差、精神のあり方の差でもある訳だ。
ですので果たして近代に於ける合理化社会が人間にとり望ましいものであったのかどうかと云う事を今一度検討してみなければならない。
何故ならやり過ぎの合理化はむしろ効率的でなくやがては破壊にも繋がろう悪魔の行為そのものなのだから。
それから近代的な制度や進歩には二面性が大きく刻まれて来て居る。
利便性の追求の果ての破壊、自由ゆえの不自由、平等の為の平等による矛盾など枚挙にいとまがない。
おそらく其れは求め過ぎて居るからなんでしょう。
大きく求めれば社会が得られる果実は大きくなりはするが破壊または崩壊のリスクもまた同様に増大していく。
或いは其れは大きくなり過ぎた人間の社会が人間自身を押し潰していくのやもしれぬ。
近代とはそうしたドロドロの時代である。
合理化により諸がスマートになったのではなくむしろドロドロの欲望やドロドロの怨念、ドロドロの犯罪が渦巻く世界である。
近代とはそんな理性的ではない何かである。
何故なら真に理性的なものは合理主義に偏ることがないからである。
あくまで其の範囲での合理化に勤しむのであり、真理を反古にし突き進み自滅するなんて、そんな馬鹿な真似など金輪際しないのである。
だから近代とは馬鹿、つまりはバカのことです。
其れも悪魔の手先のバカ、と云ったところでしょうか。