目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

社会と闘うールソーの人間不平等起源論ー


さてかのジャン=ジャック・ルソーこそは並大抵の人ではない。

彼はハンサムで女にはモテたらしいのではあるが露出狂でもってしかもマゾヒストと云う異常な性癖の持ち主でもあった。ルソーの肖像

フランソワーズ=ルイーズ・ド・ラ・トゥール・ド・ヴァランスと云う年上の妖艶な貴婦人と恋仲となるも一緒になれた訳では無く其れ以前に彼は生涯貧乏生活に甘んじて居たのであった。

だが其の分本を読んだり思索したりすることが出来たのだろう。

まさに近代社会の礎を築いたとも言えるかの社会契約論は現代に移り変わった今も其の思想としての重要度を失って居ない。




「人間が一人でできる仕事(中略)に専念しているかぎり、人間の本性によって可能なかぎり自由で、健康で、善良で、幸福に生き、(中略)。しかし、一人の人間がほかの人間の助けを必要とし、たった一人のために二人分の蓄えをもつことが有益だと気がつくとすぐに、平等は消え去り、私有が導入され、労働が必要となり、(中略)奴隷状態と悲惨とが芽ばえ、成長するのが見られたのであった。」『人間不平等起源論』より


「人間は自然のままならば善である。社会組織によってのみ邪悪にさせられる。」



そんな彼が何とこんなことまで述べて居たのである。

此処からも分かるやうにルソーの思想は一癖あってとても面白い。

一癖あるのに至極真面目である。

そんなところがわたくしの言説にも何処か通じる。


人間は社会化されると同時に悪に染まる。

コレぞまさしく真理であらう。

だが一人の時には平等もクソも無く邪悪もクソも無い。

そも比較する対象が無いので必然としてさうなる。



第一罪、コレもまた社会化されると同時に其処に生ずるのだ。

つまるところ社会化されない状態こそがかのエデンの園での有様なのだ。

だから社会こそが分離でありかつ罪なのであらう。



ルソーはまさに訳の分からぬやうな生涯を送った人であったが其処で世紀の大仕事をやってのけたのだと言える。

彼は晩年孤独に陥りまさに火が消え入るが如くに亡くなったのであるがまさに近代そのものを築くに至った大思想家である。



尚彼は元々社会が嫌ひだった可能性が高い。

生まれてすぐに母を亡くし多難な少年時代を送った。

マゾヒストになったのも其の辺りの経緯が絡んで居たことだらう。


彼は社会組織などよりも自然状態であることを本来ならば理想に置いて居た。

不自然な不平等が必然として生じざるを得ない社会生活を元々悪として捉へて居たのである。





やがて、こうした状況への対処として争いで人間が滅亡しないように「欺瞞の社会契約」がなされる。その結果、富の私有を公認する私有財産制が法になり、国家によって財産が守られるようになる。かくして不平等が制度化され、現在の社会状態へと移行したのだと結論付けた[63]。富の格差とこれを肯定する法が強者による弱者への搾取と支配を擁護し、専制に基づく政治体制が成立する。「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」に基づく桎梏に人々を閉ざし、不平等という弊害が拡大していくにつれて悪が社会に蔓延していくのだと述べた[64]。ルソーはこうした仮説に基づいて、文明化によって人民が本源的な自由を失い、社会的不平等に陥った過程を追究、現存社会の不法を批判した[65]
不平等によって人間にとっての自然が破壊され、やがて道徳的な退廃に至るという倫理的メッセージを含んだ迫力は人々のこころに恐怖感を煽るほどの強烈な衝撃となった。その後この書はヴォルテールなど進歩的知識人の反発を強めさせ、進歩の背後に堕落という負の側面を指摘する犬儒性の故に「世紀の奇書」とも評された[66]。以上より引用




文明化により人間の自由が奪い去られることは自明である。

特に専制政治による人間への圧迫は如何ともし難ひ大きな圧力として当時の人々にのしかかって居たことだらう。

ただし圧迫其れ自体は民主制に移り変わった今でも大きく変わっては居ない。

ただ其の度合いが過去よりも弱くなっただけのことだ。


しかも他のことで余計に圧迫されたりもして来て居る。

即ち過度の自由主義や科学技術による自然の破壊によりかってより大幅に生活環境は悪化して居らう。



さて「不平等によって人間にとっての自然が破壊され、やがて道徳的な退廃に至るという倫理的メッセージを含む」と云う件などはまさに卓見である。

尤も現代の破壊の様とも其れはまた少し違うが最終的には精神的に破壊されると述べて居る辺りなど流石である。



かように人間の理想的な状態や幸福を自然の中に見い出し文明乃至は社会による堕落から人間をいかに回復させていくのかと云う事をまさにルソーは考えた訳だ。

其の意味ではまさに社会と云う悪からの回復を目指したのである。


即ち個人の私的利益を追求する意思(特殊意思)・特殊意思の総和である全体意思は不平等であり、各人が公共の利益を求める意思(一般意思)は、自由と平等を保障するために全員がそれに従うことによって自由が保障されると考え、それにより、特殊意思・全体意思をも満たすことになる。


つまりはコレが近代的な平等主義思想の端緒に当たるものだ。

結果としてあくまでコレは正しいものだ。

確かにコレ以外に近代的な社会的自由など達成され得ぬ。


だが其の故に何かが圧迫されることになったのだらうか。

其処で一体何が圧迫されたと云うのであらうか。

ひとつには其の後近代主義は信じ込まれ謂わば其れがひとつの信仰の域に近づいていったことにこそ問題がある。

即ち近代主義による普遍化が逆に自然状態に於ける多様性を奪い去って仕舞ふ。


同時に近代主義による人間の管理は国民国家単位で進みむしろ専制政治以上に大きな単位で人間を縛るに至る。

また民主制と言っても所詮は代議制であり其の意味では無論ストレートな意味での民意の反映ではない。



かの社会契約論では近代民主主義の古典としての人民主権の概念が掲げられるのであるが其処では常に人民の意志を建前に圧政が布かれる可能性があるともされる。

事実ナチス政権に於いては人民主権の概念の元にかのヒトラーによる全体主義としての圧政が布かれていったのだった。

またひとつの視点として近代民主制はむしろ欲望の制限を解除していく働きを持つのではなかろうか。

近代民主制に於ける最大の問題点が其の制限の解除の問題である。


同時に近代主義並びに資本主義の蔓延も其の欲望の制限の解除としての性質を本質的には帯びて居る。

従って近代とは限定の解除そのものの働きのことだ。



限定を解除するので誰もが欲望に捉へられて仕舞ふ。


だが先に述べた如くに「人間の理想的な状態や幸福を自然の中に見い出し文明乃至は社会による堕落から人間をいかに回復させていくのか」と云う事を近代思想は目指した筈だった。

また「不平等によって人間にとっての自然が破壊され、やがて道徳的な退廃に至る」という倫理的破壊律による精神の破壊へと必然的に至る一種の地獄としての社会の運命、其の定めのやうなものに彼ルソーはとうに気付いて居たのである。


さてでは近代と云う社会構造を如何にしてまともなものにしていくかと云う問題であるが基本的にもはや其れは如何ともし難ひものだとわたくしは捉えて来て居る。

かの原始共産制的な理想世界=エデンの園へと人類はもはや舞い戻る訳にはいかない。


むしろ其のエデンの園は限りなく遠のきつつあり、其ればかりか精神的な退廃の影がしつこく現代人には纏わりついて来て居やう。

限りない社会化の波が文明に於けるあらゆる領域を欲望に染め上げつつある。



そんな折に出来るのは矢張り逃げることじゃないのか。

サア今だ逃げるぞ、まさに其の酒池肉林の欲から遁走せよ!

逃げて何処へ行こうと云うのだ。

もはや何処にも逃げ場はないぞよ。


さうもはや何処にも逃げ場などない。



だがかのジャン=ジャック・ルソーの「社会契約論」の前段階としての「人間不平等起源論」を見る限りはむしろ彼は其の逃げ場のないことをハッキリと其処に悟って居たのだと言える。

従ってジャン=ジャック・ルソーの社会論はむしろ其の否定と云うか悲観そのものから発したものだった。


謂わば絶望と云うか諦めと云うか人間社会の持つ本質的矛盾、救われ難さを見切った上で彼は社会契約としての意義を問い直していくのだ。


だからある意味では近代思想そのものがそんな絶望の淵から紡ぎ出された思想でもってかろうじて成り立つ社会制度上の綱渡りのやうなものであったのやもしれぬ。

近代的原理は必然として破滅を齎すが其れが何故破滅へ至らざるを得ない思想とならざるを得ないのか。


其れは或は思想の誤りと云うよりは人間存在の心性としての質の問題に還元し得るのかもしれない。

事実むしろ近代思想は今も近代人をかろうじて成り立たさせて来て居るのだ。



近代人など本来ならばコノ地球上にまさか立っては居られないものなのである。

が、事実近代人は地球の表面上を覆うに至る。

近代思想はむしろ其の離れ業をやってのけたのだと言えやう。


同時に近代医学はさうして近代科学は人間を質的に自然から解放するに至った。

然し其の解放には欲望に対する限定性の解除と云う性質がしつこく付きまとう。

其の性質こそが実は悪魔の働きであらうが悪魔を受け容れることでのみむしろ近代が完遂され得る。



つまるところ近代とは人間にとっての悪魔化の過程である。

自ら悪魔と化すことで精神の破壊を前提としつつもあへて限定の解除=欲望の追求へと走り続ける立場をこそ近代と言う。



だから君等は近現代人が善だと思って居やうが其れは誤りで正しくは近現代人こそがまさに極悪人なのだ。

極悪人であるホモ・サピエンスは本来ならば獄に繋がれて居なければならぬ。

無論のこと其処で其の悪魔としての本性を懺悔しつつ生きて行かねばならぬ。


或いは仏に向き合い生きていかねばならぬ。

が、君等現代人は逆に酒池肉林に至る夢ばかりを抱いておる。

左様な腐った夢などたとへばエデンの園では誰も抱き得ぬ。


だが腐った夢は腐った社会に於いてのみ其れが成就するのじゃ。

さうして今我我の夢はつひに叶ひつつあるのだ!

即ち自由と平等の名の元にあらゆる限定性は葬り去られまさに酒池肉林の様が今繰り広げられつつある。



おお何と言う醜さよ。

まるでかの獣共のやうな放埓でかつ淫蕩な様。




神仏をも畏れず自由淫売と自由搾取と自由な金まみれとに走っていく。

しかれども酒池肉林の日々が、其の黄金の日々がさてもいつまで続くことであらうや。



遥か昔にエデンの園で、女が蛇に唆され善悪を分別する実を食べ男にも其れを勧めた。

かように大昔から男は女の言いなりになるものと相場は決まって居る。

元より女の裸は常に男性の生殖器を刺激してやまぬ。


此処からも分かるやうに其の酒池肉林の様は実は女が用意したものである。

まさに女は腐ったやうなもので其はまさにかのパンドーラ―の箱そのもののことだ。

即ちパンドーラ―の箱そのものが女だった。



女のオッパイは左様に乳を撒き散らし此の世の乳飲み子共の全てを育て上げる。

女のアソコは実にヤバいことにすでに70億人もの人間を此の世に撒き散らしておる。



しかも其の70億もの人間様は皆偉いとされておる。
然しどう考えても其れはおかしく実際には人間が十人も集まればそのうちの五人は役立たずで後の二人はキチ外で残りの三人は大悪人である。


大悪人は人が見て居ない所で必ずや悪さをしやう。

殺人、レイプ、銃の乱射、スピード違反、大食い、其の他諸の悪事を必ずや働かう。



特に仕事中に居眠りをしてはいけない。

さうして仕事中にエロ本や漫画を読んで居てはいけない。

また仕事中にガムを噛みポケットに手を入れて居てはいけない。

仕事中に女に飛びつくのはもっといけない。



尚ジャン=ジャック・ルソーは異常者で若い頃村の娘に屡自らの生殖器を露出させ見せて御座ったさうだ。


「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」に基づく桎梏に人々を閉ざし、不平等という弊害が拡大していくにつれて悪が社会に蔓延していく社会構造をルソーは見切って居た。
文明化によって人民が本源的な自由を失い、社会的不平等に陥った過程を追究し現存社会の不法をすでに見切って居た。

社会的不平等こそが人間にとっての自然を破壊に至らしめやがては道徳的な退廃を齎す元凶であるとさう断じて居たのである。

であるからこそ近代思想の根っこには其の不平等の撤廃、放逐と云う理念がまず掲げられることとなる。



だが遥か昔に此処まで考え抜かれまさに綱渡り的に布かれるに至った近代主義としての人権思想の意義そのものが今問われて居る。

何故なら有限の枠の中へ70億もの人権を詰め込むことが元々不可能に近いことだからなのだ。

おまけに誰しも権利は欲しく義務は無視しておいて文句だけをタラタラ述べて居たひ。


即ちモンスターな、限りなくモンスターな悪魔人間共が多分十人中五人は発生して居るのだと考えておく方が良い。
其の悪魔人間の特徴とは、決して自らを悪魔だとは云わないところにこそ存して居る。

ですがわたくしは自分が悪魔だといつもさう言うて居らう。

自分が悪魔だと言うことの出来る人間は実はほんたうの悪魔ではない。