今回掃除をして居て気付いたのは自らの潔癖さに就ひてである。
昔新聞の記事などを切り抜き所謂スクラップ帖にして居たのである。
其れが余りにも几帳面にしてあるので流石は彼だなとさう感じたのだった。
中でもとりわけ多かったのが梅原 猛先生の「思うままに」と云う地元紙への連載記事だ。
其処でトランプ政権のことに就いても述べて居られるがトランプ政権が単なるポピュリズムより発したものではないことは明らかだ。
日本全土が反トランプを叫んで居た其の真っ最中にむしろわたくしはトランプ政権支持を此処で表明して居た筈だ。
何故さうなのか?
確かにトランプ政権はポピュリズム的な基盤を持つ。
むしろ知識層にとり其れが理性的なものではないやうに見えることだらう。
然し其処でもう少し良く考へてみやう。
そも何故トランプ政権が発足しなければならなかったのか?
より大元を辿れば、其れは近代主義の非限定性が齎す破壊の阻止である。
さらにグローバルなさうしてより自由な経済活動に於ける限定=歯止めであらう。
不法移民などに仕事を奪われ、さらに日本車などにも競争で負けただでさへ生きにくい白人低所得層は、では一体何の為に母国で生き抜いていくのだらうか。
少なくとも其れは家族の為であり自分の為にだ。
誰がイヤな仕事を這いつくばってまでするものか。
仕合せにならうとして其のイヤな仕事を我慢してやってるんだらう。
では何が悪ひのか?
何が悪くて米国の第三次産業は凋落しIT産業や金融経済以外では金が儲からなくなったのか。
さらに言へば仏蘭西革命そのものが誤りだ。
自由や平等や他者への愛はそも政治的レヴェルで実現し得るものではない。
自由や平等や他者への愛は確実に宗教の世界のものである。
即ち近代主義が掲げる理想主義はむしろ矛盾を拡大させそれどころか破壊を齎す悪魔の思想なのだ。
が、自由や平等を我我近代人はさも良いことのやうに思い込んで居る。
其れは学校で其のやうに叩き込まれて居るからだ、其の近代の常識としての近代主義を。
だが社会科をもっと根本より学んでみ給へ。
前近代の段階にも自由や平等はありただ其れが限定されて居ただけのことなのだと其処で即座に了解されやう。
ところが革命は、さうして近代は、あらうことか其の限定性を破壊して仕舞ったのだ。
すると人間は急に妙に偉い者として祀り上げられて仕舞ふ。
近代主義曰く、
人間は偉い、誰しも人権を持つ。
偉いから尊重しやう。
君も偉い、アイツも偉い、勿論ワタシも偉い。
では偉くないものは一体何処へ行ったのでせう?
さうして偉いのは良いのだが、地球は一つで、しかも国も本来ならひとつ、町内会もひとつで、また妻も一人。
本来ならさうして全部が限定されておりますわな。
なのに無制限に自由、無制限に平等、無制限に愛、では一体ダレが其の不利益を受け持つのでせう?
かように西洋起源の近代文明の泣き所としての非限定性=拡張主義により近代文明の推進者である米国のそして英国の制度的崩壊が加速して居たのだ。
其れは近代文明が元々思想的矛盾を抱へて居たと云ふことだ。
其の観点から見ればトランプ政権の政策的主張は至極まともなものばかりだ。
ただ政治評論家を含めて其処まで大きく見通せて居る人が居なかっただけのこと。
左様に近代そのものが行き詰まって居り謂わば不安要素に満ちて居らうが大衆は唯々諾々とこれまでに敷かれたレールを歩き続けて居るばかり。
だが其れは仕方ない。
適当な楽しみを与えられ生かさず殺さずでもってさうして社会は偉いなどと大風呂敷を拡げむしろ其の中に大衆を包んで仕舞ふ。
確かにバカと言へばおバカさんの大衆。
だが大衆の中には詩人も居れば反骨の學者もおる。
即ちほんたうに悪ひのは社会の方だ。
其れも近代知識層の頭の中身がもうほんたうにお粗末そのもの。
其の限定と非限定との差異、まさにコレが質的に大きく段違いだ。
左様に限定しない近代思想はよりデカい矛盾を生み出す。
然し徳川幕藩体制の頃は皆が幸せにしかもそこそこに豊かに、また労働などは昼過ぎには仕事が終わり後は花見見物やら、はたまた秘められた情事やら、そればかりかお伊勢参りも許されて居りまさに今よりは遥かに自由な暮らしぶりであった。
のみならず安い鮨をたらふく食へた。
時には武士に逆らい喧嘩することだって出来た。
なので要するに近代主義が人間を幸せにしたのでも何でもなく逆に近代と云う時代であり制度自体が人間を圧迫しそればかりか破壊しつつあるのだ。
其の破壊には実は女が絡んでおる。
母の愛、が実は絡んでおる。
母の愛、とは実は本能である。
本能は必ずや人間を持ち上げる。
人間を甘やかしベロベロに舐めて仕舞ふ。
だが其処には父ちゃんのスパルタ式の教育が是非必要なのだ!
父ちゃんの筋力、其の鉄拳の力、おおこわ、流石に目の前でちゃぶ台をひっくり返されると怖い。
其の巌とした武力、ブチ壊しの破壊力、アアだがまさに其れこそが人間を根本から鍛へ強く育て上げる暴力なのだった。
暴力反対!
左翼のバカ。
愛と暴力は表裏一体ぞ。
人間である限り其の両極からは逃れられぬ。
梅原先生は縄文文化の滅亡に其の原因を求めて居られる。
わたくしの場合は、近代の抱へる自己矛盾性に其れをなすりつけていく。
当たり前のことだが近代は近代人には支持されて居る。
近代人でもって近代を止めろと言って居る人はわたくし以外にはまず居ない。
然し理性的に、極めて理性的に近代の抱へる自己矛盾を追求すればする程近代そのものの持つ構造的欠陥に突き当たり行き詰まって仕舞ふ。
先生はさらにカントの哲學に就いて述べて居られる。
三冊の批判書を遺したカントが重視したのは実践理性である。
「全ての人格の中にある人間性を常に同時に目的として扱い、決して単に手段として扱わないように行為せよ。」
と命じる理性こそが其の実践理性である。
ただし此の命題に於いては注意が必要だ。
自由や平等の実現の為に其の自由や平等が目的化されて仕舞ふ場合の危険さに就いては以前にわたくしも此処で述べて居る。
まさに潔癖な理性の持ち主であったカントは理性が道徳的に振る舞うことの必然性を説いたのだった。
然し現実として近代から戦争や大量殺戮が無くなることはない。
左翼が幾ら反対!と叫ぼうがもっと根本のところに因があるゆえ其れは無くなりはしないのだ。
其の欲望の根本因につき考えねばならぬ。
すると其れは哲學や政治の問題を飛び越し宗教の領域へと舞い戻っていくのだ。
真に理性的であったカントは人類の永遠平和を願ったが其れにつきこんな皮肉な結論まで述べて居た。
「永遠平和は人類の巨大な墓地の上にのみ築かれることになろう」
人間が居るとして果たして其れが幸せなのか、むしろ居ない方がより幸せなのではないか。
むしろ自然にとってまた人間にとってもさうなのではないだらうか。
此の命題に対し回答したのは釈迦とキリストのみだ。
釈迦ー人間は居ない方が良い。だからこそ成仏しやう、出来るだけ速やかに此の世を去らう。
キリストー人間は神の元へ召されるべきだ。だからこそ神を信ずるのだ。信じて死んだら神と共に永遠に生きられるのだ。
かように罪深き人間は今と云う矛盾を生きていかざるを得ない。
勘の鋭い一握りの覚者は生の真相を覚り欲望からは永遠に離れていく。
対する鈍感な者共は永遠に欲望に振り回されていく。
生を美化し己につき従ひ日々の欲望を構築していく。
其の欲望の羅列こそが罪の羅列なのだとも知らないで。