大掃除するのは大体十年振りだ。
掃除中は、決まって音楽をかける。
音楽は何でもかける。
お気に入りと云うか定番なのはベートーヴェンと久保田 早紀である。
CD盤を整理して居たら、忘れてはならぬ重要なものを忘れて居たことに気付く。
ETHNIC SOUND SELECTION VOL.1
其れがコレだ。
わたくしがこれまでに買ったCDの中ではまさしくコレが最高傑作じゃった。
何処が最高傑作なのかと云うに、まさにコレぞ脱近代の音源が網羅されたところでのものであり商業ベースに乗らぬ生の人間の叫びであり言葉の律動でありまさしく音として表現されしタマシヒの叫びなのだ。
反面少し世界民族博覧会的になって仕舞ふ嫌いはある。
即ち多分にリトルワールド的な世界観なのだ。
ただ、何でまた阿川 佐和子氏が村長なのかまるで分からぬ。
大正村もまた悪くはない。日本大正村村内マップ
大正村の近辺は自然が豊かで兎に角空気が良い。
リトルワールドの世界はかの兼高かおる世界の旅の世界そのもので世界がまだ現在のやうに合理化されておらず様々な面で余裕のあった頃の世界を写し取ったものだと言へる。
世界が合理化されかように殺伐としたものにした責任は全て近代知識層の頭の中身のお粗末さにあり。
即ち動禅じゃ、動禅。
掃除とは即ち禅ぞ。
つまるところクラシックでもなく歌謡曲でもない非商業ベースとしての音楽が其処に展開されて居るのだ。
其れは民族としての歴史が必然として与える音なのであり部族としての魂が必然として其処に込められた音なのだ。
まさに魂の叫び。
まさにそんな感じがして心の奥深いところを揺さぶられる。
商業ベースとしての音楽ではない地上での音楽が其のままに其処に奏でられて居る。
印度やら中近東、さらに中国のものまで網羅してある。
むしろ無いのは日本のものばかりなり。
かうして細野 晴臣は音楽の本質を探り音源の過去に遡ることでむしろ商業音楽の不純性=作為性、必然として存在しない音源のウソ臭さ、を其処に炙り出したのだった。
逆に言へば、此の8巻にも及ぶ地球の内部の音楽を聴くうちに何かが心の内側で蠢き始める。
其れは生命として畳み込まれたー正統なー人間の歴史であり生活の息吹である。
其れは脈々として連なる命の循環であり躍動だ。
其の純粋なる生の喜びだけが其処に込められて居る。
だから心は其処から安心を汲み取ることが出来る。
安らかな気分になれ、立憲君主制だの革命だの、宗教戦争だの、技術革新だの、国家だの、学校だの、会社だの、家の存続だの、さうした一種のバカバカしい価値観から解放されもうほんたうに君は一人の土人に戻るのだ。
其処でようやく気付く。
かように世界はバカバカしい言葉=価値観に毒されておる。
でもほんたうの価値とはさうじゃない。
ほんたうの言葉でもって素直に語られる音楽こそが人間の生の喜びを奏でていくのだ。
つまり我我の生は音楽なのだ。
我我の生自体が音楽でなければならぬ。
なのに一体何をやっているんだ、第一最近はもう流行歌が無いではないか。
世界にひとつだけの花、以降に流行歌が無い。
コレはゆゆしきことぞ。
つまるところ合理化が極度に進み歌など歌ってるヒマが無い。
そんな合理化社会など止めちまえ。
おそらく現代人は何かに捉われ過ぎ其れでもって盲目となって居るのだ。
其の何かとは文化的な必然としての余裕を奪ふ欲望の追求=成果、利益至上主義のことだ。
欲望を追求すればする程に社会はさうして人間は幸せになると誰もがさう考へやうがそも其れが誤りだ。
正しくはもっと泰然として全てを捉へる。
必然として与えられし民族の歴史と自然からの恩恵と其処から齎されし生の躍動とを。
其処にこそ真の意味での生の豊かさは拡がっており観念的にこねくり回した妄想願望の方になど真の豊かさなどは無い。
むしろ其れは首を絞める、おのが首を確実に締め続けていくのだ。
さらに昔アマゾンで買ったアンサンブル・プラネタのCDが二枚出て来て其れを交互にかけつつさらに掃除する。
アンサンブル・プラネタはかって屡聴き込んで居た女性のみのアカペラグループだ。
現在はメンバーも入れ替わり日本の歌も歌うなどして様変わりして居るやうだが基本的な癒し度の高さはおそらく変わっては居ないことだらう。
アンサンブル・プラネタの方はあくまで其の音楽性の方で勝負しており別に文明批判をなしている訳でも何でもない。
本来其れは歌そのもののものなのでありタダ商業ベースによらずに其の生の歌をそのままに収録して居るだけのこと。
其れでも結果的に其の生の音楽こそが最も強烈な文明批判に繋がって居る。
ある種毒された音としての文明の本質を見事に其処に描き切って居るのだと言へやう。