目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

禅即行動にもの申す


禅即行動という言葉があり、其処には多分に考えてばかり居ては何も進まないので兎に角観念を滅して行動に移すべきであるという禅に於ける教えがあります。

然しながら、わたくしは今この観念の虚脱化に対し疑問を呈して来て居ります。

何故なら考えないで行われる行為は本能と結びつき易いからなのであります。


事実今現代社会ではこの考えずに行われて仕舞う行為、観念化される以前に衝動的に行われる行為が余りにも多い。

勿論禅に於ける行動化は元よりそうした低次元のものを指して居るのではないことだろう。

勿論禅に於ける行動とは須らく善趣に沿ったものであるからこそそうしたことが云い得ることかと思われる。

されど、低級な次元に於ける行動は其処でむしろ破壊を生み出すだけです。



従ってまずこの低級な考え、其の低級な観念の世界を克服すべくむしろ考えに考え、そして行動というひとつの吐き出しを抑えるべくしていくこともひとつの重要な修行なのではないか。

現代人の心の上での衝動化は余裕の無い世界を自ら創り出して来たところでの社会的自我の誤りであり失敗なのです。

ですのでこの社会ではどんなに聖人振って居ても其の実は低級な欲に捉われて仕舞って居ることが多い。


ゆえに仏教の世界に於いてもこの悪趣が深く食い込んで居ると見ておいた方が良い事だろう。

たとへば金儲けや寺の世襲のことばかりを考え、はたまた酒色にさえまみれし大乗の寺や僧こそは反省すべきなのではないでしょうか。



どだいどんなに立派なことを言って居るにせよ、そうした悪趣に嵌り込んで居るうちは仏の世界など縁遠いものであるに過ぎないのです。

ですので真の観念とはまず自省の心を呼び覚ますものであるとそう申し上げておきませう。

そして言うまでも無く自省とは自制であり諸の欲に歯止めをかけるということなのです。




さて行動は沈思黙考することよりも良いことだなんて一体誰が言いだしたことなのでしょうか。

わたくしは行動は沈思黙考することを妨げる面もあると見ており、その意味でたとへば近代が得意な兎に角やっちゃえ主義は取り返しのつかない破壊を齎す可能性が高い。

第一産業革命、これは其の是非について本来ならば百年位皆が考え悩み込む必要があったのではなかろうか。



ところが近代はやっちゃえ主義でつまるところは其の行動にて全てを変えようとして来た訳です。

然し、此処で大乗としての禅よりも原始仏教のことを考えてみます。

釈迦自身は、とりあえずかなりに否定的な、或は悲観的な物事の見方をする人でした。



たとへば自殺を否定はして居ないんですね。
大乗では即否定するのだと思われますが、原始仏教では其れは否定されないのです。


何故でしょうか?

釈迦は必ずしも生に意欲的ではなかったからです。

むしろ明らかに否定的です。

否定的だからこそ、此の世から脱出することを真理として見定め、かつ真理を実践する為の法を説かれたのでありましょう。



なので、本来ならば仏教なんて世襲も金儲けも寺もクソも無く、あくまで此の悪趣の世界からどう脱出するかという方法だけを説いたものなのです。

だから其処には俗情など微塵も無く、ましてや温情も無く愛も無くどんな積極性も無い。

積極性があるのだとしたら此の世を離れることに対して積極的なだけなのです。



でもこういうのは、所謂まともなー本能に突き動かされし健全なるー人間には到底理解がかなわぬものですから釈尊自身も当初はこんな思想を世に広めようとはされて居なかった。

誰も分からない考えを述べ立てても意味はないということ位はあれだけ頭脳明晰な方ですので当然お分かりになられて居た筈です。

でも凡夫というバカの為には法を説くしかないと最終的にはそう決断されたのです。



そんな教えですので、其れは大乗仏教の教義とは可成に隔たりがあります。

釈迦は幼少のみぎりより沈思黙考型の少年で兎に角何かというと物思いに沈み込む即ち明るいタイプの性格の人ではありませんでした。

でもそうした熟慮に熟慮を重ねるタイプであったからこそ悟りをひらくことが可能でした。



わたくしが今社会を論ずるに思う事とは、何故こうした深い思索、思弁の世界が現代から失われていったのだろうということに関してです。

其れで、かって色々と考えた揚句に出した結論とは、現代社会は思考することを自ら放棄しつつあるのではないかということでした。

平たく言えば謂わば欲ボケ、幸せボケでもって思考そのものが次第に圧迫されて居る、其れも本能領域に圧迫されて居る可能性が高い。

というものでした。



人間というものは衣食住足りて、おまけに妻や家族や知己からの愛を得られてもそれだけでは真の幸福には至れないことだろう不文律を抱え持った生き物です。

ゆえに現代人は今決して幸せな状態には無いのであります。

むしろ強固に組み上がりし自己矛盾性、虚の体制ー近代主義というーにより己を雁字搦めにされそればかりか未来をさえ奪われかかって居ります。



そんな時に、観念を滅却し行動へ至ることが真理へ至る道だと果たして言えることだろうか。

そうではなくむしろ立ち止まり考える事、進むのを止め自己を反省してみることこそが其処に求められて居るのではなかろうか。

それゆえ、今まさに原始仏教として成立する釈迦の思想を学ぶべき時が到来していることだろう。



所謂伝統では無く、世襲でもなく、僧でもなく、いわんや墓でもない、元より墓など取るに足りぬもの、そんなものは在るというだけで実にはた迷惑な存在だ。

墓になど入ろうと思うな、死ねばみな宇宙に元素がばらまかれるだけである。

それなのに何故そんなものに拘る必要がある。

第一その辺の野っ原で死んだ方が自然の役にはずっと立つ。

蛇や蛙に突つかれて或は虫や細菌の類に分解されやがては土へと戻る。



かって釈迦が何と仰せであったか?

我が死した後に其の死した肉体に決して拘るなとそう仰せであった。

然し俗情に充ちし弟子たちは火葬に付された其の釈迦の遺骨を大事に扱ったのだ。

まあ当たり前のことと言えば其れは当たり前のことである。

然し其処にこそ聖俗の閾、真理と現実とのギャップが存して居たのだ。



云うまでも無く釈迦は生きたままで此の世界を脱出された唯一の人間である。
ー生きたままで神の眷属となられしイエスス様もある意味では此の世を脱出されたと申すべきなのかも。-

だからもう二度と此の世には戻って来られない。


対してわたくしたちはいつまでもどこまでも此の苦の世界から逃れられない。

死ねば良いというのは、其れは誤りで、其の状態で死ねばまた同じような苦を味わう為にどこかへ生まれ直す羽目に陥る。

だから生きて地獄、死んで地獄が此の世での実相。

そう此の世は地獄なのである。

だからこそ仏の世界や天国が是非必要となるのだ。



しかれども究極的には、禅の説くが如きに観念の世界に捉われるべきではない。

なんとなれば観念は真理を志向し得ないからなのであります。

観念は牢獄なので閉じ易く、しかも飛躍し易く、今に満足することがない。

されど方便としての観念の世界を、まさに今現代社会は思考すべきなのです。

此の余りにも現在化されし今を、そして余りにも金銭化、数値化されし欲望の今を、其の決して理性の届くことのない闇の領域を照らし出すことが可能なのは思考のみです。




衝動と思考は違います。

釈迦は衝動せず、まず思考し、ついには其の思考を滅し、成道に至られた。

対して現代社会は衝動でのみ動いて居ります。



嗚呼、スマフォが今見たい、嗚呼、今すぐにJKに触りたい、嗚呼、今すぐに墓を用意したい。


実際其の為には何だってやるぞ。

どんなことをしてもやり遂げてみせようぞ。

するとつひ死亡事故を起こして仕舞った。

つひ淫行で逮捕された。

またつひ謗法で地獄へ堕ちた。



等々、現代社会には今多々の欲望の落とし穴が待ち受けておりまする。

ゆえに其処で少しだけ立ち止まり考える。

確かに禅宗はつまり真理は観念の虚脱化としての禅即行動を説いて居られるが其れは現代社会に於いては誤解されかねぬ教えだ!


つまりは考えずにJKに触る、つまりは考えずにスマフォをやる、またつまりは考えずに墓に入りたがるのはもう至極危ない。



つまるところ、今の我我に必要なのは真理領域などではなくタダの規制であり規定である。

規制乃至は規定は観念領域から紡ぎ出される。

こんな風に理性の働きは現実を規制し、そして規定する。


しかる後に真理を目指していくべきなのだ。

だから禅宗の説く観念不要論は少なくとも現代の大衆を混乱させる元である。

第一禅宗なんて、実は物凄く観念的な教義でしかも威張って居り其処は権威主義的ですらある。

第一葬式代が異様に高い。


そんな高いものは庶民にはもうやれやしないんだ。

そういうところがまず分かって居ない。



でもわたくしは何かと禅宗とは縁が深い。

つい先日もこんな素晴らしい寺へ出向きましたのです。


日泰寺及び日泰寺の釋尊御眞骨奉安塔を初めて訪れ、其の仏舎利なるものに祈って参りました。


日泰寺専門僧堂
     
ブッダの隣で眠りたい・覚王山日泰寺編~
 http://gonsyo.blog.fc2.com/blog-entry-61.html

     


元より釈迦の骨を拝むまたは骨に祈るということはあくまで仏法上は笑止千万ということとなりましょうが、そこは方便ということで自分の心を落ち着かせる為にひとまずそうして来ましたのです。

してみるとその後にさらに欲が出てこれからは一か月に一度位は祈りに行きたいとそう強く思うようになりました。


自転車で三十分位で行けますのでもう女のことなど忘れて本当にそうしようかとそう思うのです。

快晴の下他に誰もいない中釈尊に語り掛けたという経験はそれなりに素晴らしいものでした。




ーホレホレ、骨だ、釈迦の骨だ、
生きてゐた時の苦悩にみちた、
さうしてつひには其の苦の全てを乗り越えられし、
其の骨こそが今わたくしの目の前にある、
嗚呼、仏よ、来たよー、つひに来ましたよー、
となりゃもう自然と合掌だよね。ー



実際には釈迦の真骨は当然ながら分骨されて居りますゆえ、或は物凄く時を経たものゆえバラバラになっているものかとも思われますが其処は矢張り仏舎利仏舎利で、実際合掌した途端にビビビと来たものがあり、なる程コレがコレこそが釈迦の波動なのかとそう妙に納得させられました次第で御座います。


尚、個人的には禅宗のことを尊敬致しては居ります。

然しながら其の尊敬と思想の上での相違の部分とはまた別の話となります。

でも次回はもっとちゃんと禅宗の教義を読み解いていくつもりで居ります。






ー参考資料ー





ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと雨に洗はれ、
ヌックと出た、骨の尖 。

それは光沢もない、
ただいたづらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。

生きてゐた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐つてゐたこともある、
みつばのおしたしを食つたこともある、
と思へばなんとも 可笑しい。

ホラホラ、これが僕の骨――
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?

故郷 の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立つて、
見てゐるのは、――僕?
恰度 立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがつてゐる。