目覚めよ!

文明批判と美と心の探求と

ニヒリスティックな現在


現代社会に於いては人間存在が元来持ち合わせて居たところでの限定性が限りなく撤廃されていきます。


其処では限定を解除して何でも出来る存在にしていくんですね。


だから今や女性でも性的マイノリティーでも或は障碍者でも何でも出来る存在になって居る訳です。



ところが実は自然的物理的な全体としての権利関係の枠は以前と変わって居ない訳です。


または社会的な意味での権利の限定性は変わって居ない。


だから逆に其の権利の拡張により圧迫される部分が必然的に出て来る。



わたくしは其れが男性と云う性であろうと述べて居るんです。


やがて極度に男性が圧迫され役立たずになりやしないかとさう心配して居るのであります。



何せ男性は元々弱いですから。


男性は硝子製の心なのでほんたうは常に優しく包んであげなくてはならない。



女共は其の原理がまるで分かって居ない訳です。


逆に頼もしいもの、イザと云う時に踏ん張って呉れるものとさうカン違いして見られて居やう。


まあ然しさう云うのは求めない方が良いのではないでせうか。



逆に女の方にこそ踏ん張って頂きたいものです。


おそらくは倍程も女の方が鈍感で強い筈ですから。



もう我などは常にガラス製のショパンで実は藝術だけに生きたいと願って居りますが昔子供等を教えて居た因縁上どうしてもバカ社会を批判してみたくこんなやりたくもないことをやって居ざるを得ない。



此の悪魔的な限度撤廃の力は間違いなく人間の持つ業の部分から噴出して居ることでせう。



でも限度を弁えず一体何者になりたいんでしょうか。


多分神になりたいんでしょうね、西欧近代からの帰結としては。



然し神にはなりやうがありませんぞ。


せいぜいウソの神、虚の神になれる位のことがオチだ。


ところが其の虚の神となった途端に深くニヒリズムに蝕まれて仕舞う。



性の合理化、宗教の合理化、即ち人間そのものの合理化はそのやうに必然としてのニヒリズムを招こう。




どだい合理化されし欲望程恐ろしいものはない。


自由及び平等及び豊かさの達成と云う近代の掲げる概念こそが其の合理化されし欲望である。


自由は蔓延すればする程不自由の領域を拡大させていく。

つまるところ自由の希求=全的な自由の実現とはなろうべくもない。


平等は蔓延すればする程不平等の領域を拡大させていく。

つまるところ平等の希求=全的な平等の実現とはなろうべくもない。


豊かさは蔓延すればする程貧しさの領域を拡大させていく。

つまるところ豊かさの希求=全的な豊かさの実現とはなろうべくもない。




第一速い、と云う事は遅いと云う事に対して優れて居る価値ではない。


よって何でも速くすれば良いと云うものではなく身の丈に見合った速度を歩むことこそが最も大事なことだ。


また相対化された真理は必然としてニヒリズムの領域を拡大させていく。

現代の性を巡る問題も畢竟其のニヒリスティックな結末となることだろう。



もしも道徳律や倫理観が人間の行動の目的性を阻害するのだとすればまさに今我我はニヒリズムの世界を生きて居ることとなる。

道徳律や倫理観がもしも現代の女子生徒の主体的な自由を脅かすのであればそうした規定こそが近代的自由にとっては仇敵となるのだ。


現代社会が人間の行動の目的と統一を失う時、其処に虚無の領域が出現し其処でまさにジリジリと様々なものを破壊せしめていく。




かってニーチェニヒリズムを定義してこう述べて居る。

活動の目的の崩壊

世界と云う統一の崩壊

真理と云う観念の崩壊

である。




人間の行動の目的としての近代的自由を奉ずる限り、常に其の自由の為の自由に踊らされ人間の活動の真の目的自体が崩壊して仕舞うこととなる。

また主観的でかつ相対的な活動の目的が設定されると、統一された世界観の共有がならず世界観自体が崩壊して仕舞うこととなる。


さらに真理領域が崩壊していく。

即ち神、佛と云った至上の価値が崩壊するに至る。



が、至上の価値が崩壊するからこそ目的としての自由が平等がそして豊かさが実現されていくのである。



元来手段でしかなかった筈の自由が平等がそして豊かさが目的にすり替えられ巨大化していく。

逆に巨大な存在であった筈の至上としての価値が矮小化されていく。

そして主観的に追及される自由の結果援助交際は、また売春は容認されていくのみだ。



尚是等の事実から導き出される結果は精神の領域での崩壊である。

即ち人間は自由だから平等だから何をしても良いと云う論理つまりは近代的な合理性に導かれし論理でもって援助交際が、また売春が容認されるのであれば其処では道徳律や倫理観は置き去りにされのみならず神仏による真理領域による規定もまるで意味を成さなくなる。



また人間は豊かさを求めて生きるべきだ、即ち資本主義と云う物質的倒錯の論理でもって自然を客体物として切り刻み儲けの追求と云う手段の目的化に走るばかりに母なる大自然を蹂躙しつひには破壊に至らしめる。

其のやうに全ては密接に絡み合い必然としての破壊へと帰結していく。


最終的には何処に帰結するかと云えば精神の破壊、精神の死に向かって決着する。


人間が観念にて強く生を欲する限り此の悪夢の循環を止める手立てはない。




今一度言う。


自由は蔓延すればする程不自由の領域を拡大させていく。

つまるところ自由の希求=全的な自由の実現とはなろうべくもない。


平等は蔓延すればする程不平等の領域を拡大させていく。

つまるところ平等の希求=全的な平等の実現とはなろうべくもない。


豊かさは蔓延すればする程貧しさの領域を拡大させていく。

つまるところ豊かさの希求=全的な豊かさの実現とはなろうべくもない。




自由には限度があり、其の限度は現代人の常識とはかけ離れて居る程に狭い。

また平等には限度があり、其の限度は現代人の常識とはかけ離れて居る程に狭い。

豊かさには限度があり、其の限度は現代人の常識とはかけ離れて居る程に小さい。




合理性の追求の必然として現代社会はニヒリズムにより悪魔的に染め上げられていく。

つまりは性の破壊にとどまらずあらゆる領域で同時進行的にニヒリスティックな破壊が引き起こされていく。



よって21世紀はまさに破壊の為の破壊の時代である。

其れも善なる自由、平等、豊かさの希求による最大級の悪としての破壊が履行されつつあるのだ。



さう善なる悪魔による社会化されたー文明規模でのー破壊があらゆる領域に及んで行われつつある。

ただこうした悪夢の只中に自然程美しく見えかつ精神にとっての安らぎを与えて呉れる存在はない。



木々の緑、咲き乱れる花々、寡黙でそして常に遠くで息づいて居るものたち。

さうしたたたずまいこそがかの合理性に貫かれし現代の大矛盾を優しく諌めて呉れて居るのやもしれぬ。


さう元より自然界に無理な欲望など無い。

対して人間の欲望はどこまでも大きく貪欲そのものだ。


生存の神秘の体現者達は今日もかうして人間界の過ちをただ見詰め続けて居る。

或いはただ押し黙ることで其の行ひを強く諌めて居るのやもしれぬ。