目覚めよ!

文明批判と心の探求と

人文系のインテリの君に今出来ること


文明とは精神そのものの搾取形態のことであり同時に欲望の暴走としての歴史過程のことでもある。

故に文明が進めば進む程にまた時代が移り変われば移り変わる程に世の精神は乱れ欲望は噴出し社会は収拾のつかない羽目に陥ることだろう。

其の根本矛盾とは生の矛盾のことであり死の矛盾のことなのではない。



死に矛盾はないが生に矛盾が生ずるのはなぜか。

精神が低級なるが故に自己のステージへと世界を引き摺り込んで仕舞うからである。

認識が世界を成立させる根本である故其の認識が曇って居ると曇った世界そのものが生じ其処へ閉じ込められて仕舞う。



釈迦はそうした様をかって四つの顛倒の様として説いた。

我我の精神が低級なのはそうした正しい認識によらず誤った考えに傾くからだ。




「凡夫の四顚倒と二乗の四顚倒とがある。前者は、真の仏智からみれば無常・無楽・無我・無浄が世間の実相であるのに、それを常・楽・我・浄と誤って考えるもの。後者は、常・楽・我・浄が涅槃の実相であるのに、それを無常・無楽・無我・無浄と誤って考えるもの。 」以上より


1.無常・無楽・無我・無浄が世間の実相であるのに、それを常・楽・我・浄と誤って考えることの例

其の対象者ー現代文明と大衆


2.常・楽・我・浄が涅槃の実相であるのに、それを無常・無楽・無我・無浄と誤って考えるもの。
   
其の対象者ー二乗つまりインテリ層



即ち大衆はバカだから考える力がなく据え膳には常に飛びつき嗚呼キレイだ、極楽だ、嗚呼旨いまたはうみゃあ極楽だ、嗚呼痛い、苦しい、地獄だ、と云う其の場での苦楽に拘泥しかつ其れ以外に何も無くむしろ其れのみを生きる為に此の世に存在しておる。


ところが頭で考えることの出来るインテリも實は其れに輪をかけてバカである。

しかしながらインテリの馬鹿は少々込み入って居り、たとへば戦争が起こり得ると云うのに軍備反対、戦争反対と声高に叫び回るかの如くに正しいと云えば正しいことなのにどう考えてもおかしい、頭がおかしいと云うレヴェルでの馬鹿であり誤りなのである。


それに學者バカと云う者が実は居り、わたくしもこれまでに数名の方々と遭遇して来て居るが其のうちの一人などは難しい経済学の本を書いた元助教授とのことであるが駅から新しい職場までの来方が分からず結果上司であるわたくしが駅まで迎えにいく羽目となった。

のみならずカンタンな書類のチェックが出来ずつまりそいつが確認した書類は皆間違いが正されて居らず其れでわたくしが全部チェックし直す羽目ともなった。


こんな奴はどうのこうのではなくつまりは女も口説けず其れ以前に兎に角人間としての生活さえままならずまさに人間以下の輩である。


ですが大衆の欲の出し放題、食い放題、不倫し放題、のべつまくなしの欲の巣窟状態に比せばまだしも欲は抑えられて居るのやもしれぬ。

頭がおかしくはなって居るがまだ罪は少ないとも考えられやう。



現代文明は利口そうに見せかけて平気で馬鹿をやるつまりは欲望バカである。

現代文明は利口バカかとも当初は考えて居たが其処でよーく考えてみたところ欲望の発現が実にストレートなのであえて大衆バカ、ストレートなバカの方へと組み入れることとしてみた。



インテリのバカはつまりは屈折バカのことで何せ根が利口なのでつひ無常・無楽・無我・無浄の理を悟り世を儚み楽を厭い我を去って浄机の世界へと逃避して仕舞うのであるが実は其処が分別による檻の場のことで真理の場のことでは元よりないことに気付けない。



尚仏教ではインテリは成仏出来ないとされて居り其処で頻りと分別智を去り無分別智に生きよとかそう諭されるのではありますがむしろわたくしの場合には開き直ってインテリはインテリと云う今を生きるべきだとそう申して来て居ります。



ですからどだい人間は成仏など出来ない相談なのです。

本職の僧侶の方々にしてからもが成仏出来ないものがインテリ層に成仏しろと云う方が無理といふものです。

況や大衆に於いてもまた然り。



ですからわたくしは小乗仏教の考え方の方が正しいとそう判断して来て居ります。

そう小乗ヒエラルキーでの修行のあり方の方がまだしもずっとまともなものだ。


大衆つまりは欲望の権化が近代大衆社会に於いて社会化されふしだらな社会、節操なき非精神的次元に生きる社会を現出せしめて居るが言うまでもなく其れこそが大問題だ。

打たれ強い大衆としての不屈の欲への貪りが近代的価値と一致した時点で諸の破壊が引き起こされる。

ですので現在の破壊の現在とは全てが必然の出来事である。

そして必然的に近代は矛盾的に自己破壊し崩れ去っていく。



わたくしは其の道理につき述べて居るだけのことなのでしてね。

実は社会が良い、悪いの問題なのでもなく其の破壊の道程だけ、其の意味だけが問題なのであり其れを理性にて何とかせよと世に訴えて居るだけなのでしてね。

理性と云うものは本来ならばそうしたことの為にのみあるべきものなのだ。



人間が長生きすることの為にとか、より豊かになる為にだとか、より繁栄する為にであるとか、そうしたことの為に本来使うべきものではない。

人間の生きる意味を問いまたは探り其処から最適解を導き出しより良い社会、正しい認識に達することの為に使うべきなのであり据え膳をまさにパクパク食うやうなそんな下品な理性の使い方などわたくしには認められない、まさに愚の骨頂である。



ですから何でもっとちゃんと頭を使う事が出来ないのだ。

逆に変なところに頭を使い過ぎて居る。

これ以上速くしなくても良いものを速くし要らないものばかりを造り訳の分からぬものばかりに大事な人の命や大事な人間の心つまりは精神を寄りかからせて居るが其れは全て誤りだ。



何故其の誤りが分からないのだ、何故そんなにバカなのだ、お前等近代文明人は。

全くもうバカに付ける薬は無い。




が、インテリの馬鹿は其の馬鹿なりに実は価値のあるバカである。

バカだから考える。

考えれば分かることもある。

でも究極的には何も分からない。



即ち二元的対立を分別智にて超克することは出来ない。

だから無分別智による二元の解体が必要とされるが其の無分別智自体に智慧が含まれて居る訳では無論のことない。

無分別智というのはむしろ知の放棄でありあらゆる価値ヒエラルキーの解体のことである。



言語化される概念には無分別智は含まれない。

されど概念とはあくまで言語と言語以前の領域への分離、分解のことであり其れ自体に全的な真理としての過程が見えて居る訳ではない。



概念どころか存在自体に真理は含まれて居ないのである。

よって人間つまり社会にとっての真理は気付くものではなく創り上げるものである。



二元に分かたれる此の世の事象は全て不完全かつ一方通行のものである。

物質も観念もまたそれ以外の力のあり方も全てが不完全かつ一方通行のものである。


そうした場に常・楽・我・浄であろうとする文明を築き上げること自体がそもそも誤りだ。


文明を築き上げるのであればまずは其の逆としての無常・無楽・無我・無浄であることの側面をつまるところは否定的な側面を前提として捉えておくべき。



無常・無楽・無我・無浄である世界に築き上げようとする常・楽・我・浄としてのあらゆる価値観が矛盾化し諸の近代以降の大問題を生み出して居る。

文明はまず其処にこそ気付くべきだ。



実際今の社会の悪さ、其の悪逆振り、此の犯罪者の巣窟としての現代社会のあり様は其の認識に於ける誤謬そのものであり顛倒としての精神の問題そのものだ。


社会レヴェルでの認識がまずいから、社会が悪くなり人心も惑う。

対しての個人レヴェルでの認識がまずいから、個々の精神のあり方が悪くなり同時に社会も悪くなる。

そのやうに互いに補完し合う悪循環が続いていく。



尚認識は真理とは無関係に存在する。

真理は必ずしも正しい認識から導かれるものではない。

むしろ認識の放棄こそが真理を直に攫む作業に相当する。




死は一時的に矛盾を放棄する。

しかれども生を繰り返す死は矛盾の温床ともなり得よう。


無常・無楽・無我・無浄である精神は矛盾の中に埋没することはない。

だがまさに無常・無楽・無我・無浄であることの為の精神に埋没する。


矛盾の中に埋没する精神と矛盾を厭う精神とでは其のどちらに社会的な価値があると云うのか。

矛盾を厭う精神こそが精神としての精神の課題であり役割だ。



精神は真理を希求するかそれともしないのか。

精神は真理を求めない、故に精神は矛盾を嫌う。

矛盾を嫌う、矛盾に充ちた其の悪い世の中を嫌う。


矛盾を嫌う精神は真理に達することがない、其れが出来ない。

然し矛盾を嫌う精神は現在を変化させることが可能だ。

動じない現在を根こそぎ動かすことさえ可能だ。


ルネサンス仏蘭西革命もそして左翼思想もそうして世に齎されたものだった。



なので其れが精神の力であり理性の力だ。

よって精神並びに理性は真理には非ず。



精神並びに理性は釈迦ではなくキリストでもない何らかの力のことだ。

何らかの力は二乗の愚つまりはインテリバカを生み出すが社会を否定し変革する力になる。

確かに常・楽・我・浄が涅槃の実相であるのに、それを無常・無楽・無我・無浄と誤って考えるもの、其れが二乗の愚である。



だが二乗の愚が生み出す罪は大乗仏教が近代社会を放任して来たことにより生じる罪よりも軽い。

かって大乗は小乗を批判したが、其の小乗の論理性を批判した大乗の非論理性は仏教の堕落を招いた。

まさに欲望の追求を是とする現代社会を諫められないようでは仏教としての大乗の存在意義など取るに足らぬものだ。



謂わば其処にある意味がない。

寺の存続、世襲、伝統の継続、仏教としての形式の踏襲、まさにそればかりで真理などどこ吹く風である。

そんな腐った仏教などおそらく釈尊は認められて居ないことだろう。



ですのでインテリが考えに考えて出した結論でもって社会変革を志すことの方が何もしようとしない大乗仏教よりも余程に偉い。

このやうにインテリは真理を捨て社会変革を目指すべきである。

ゆえにインテリは闘う。闘わずしてどうする。

ちゃんと頭を使い闘え。折角の良い頭がそれでは持ち腐れだ。



君のすべてを懸けて社会と闘え。

この腐れ近代と闘え。

あの三島先生のやうに闘え。

そしてわたくしのやうに闘え。

もう女になどかまけている暇は無い。

君の家族などいつどう滅んでも構わない。



兎に角現代と闘え。

早う理論を出せ、君の結論を。

人文の徒として闘え、合理主義と闘い差し違えよ。


今すぐに闘え、決して欲望に走るな。

今日はどうも体調が悪いので闘いは止めよう。

そんな風にすぐに心が折れるのがインテリの悪い癖だ。

そうではなく刻々を全部戦闘せよ。



インテリは合理性ともトコトン闘う。

そして真理とも闘う。

仏教並びにキリスト教とも場合により差し違えても良い。



さあ早く君の生徒を、君の教えて居る学生たちを洗脳せよ。

「目覚めよ!」の精神に洗脳せよ。


ちなみに 「目覚めよ!」の精神は宗教の精神につき述べたものではない。


其れは人文系のインテリに対し投げかけた知的な鼓舞のことである。

今人文系のインテリが立たないから世の中が腐りかけて居る。

世界が合理主義に毒され破壊されていくのを黙って見て居るだけなのか、君は?



即刻破壊を止め世直しをしよう、此の我と共に。

でも大衆や宗教の奴等は決まって笑うことであらう。


だが笑われてもバカにされても構わない。

かって学校でどんな教科でも良いから一番を取ったことのある人文系のインテリ共よ、今こそ立て。

此の腐った今こそ是非社会を糾弾しておかねばなるまい。



「常・楽・我・浄が涅槃の実相であるのに、それを無常・無楽・無我・無浄と誤って考えるもの。
   
其の対象者ー二乗つまりインテリ層」

ただし社会と闘うインテリバカは普通少ない。普通インテリは矛盾に充ちたー腐ったー世の中に対し冷笑を投げかけ逆に保身を図るばかりなのだ。だから当たり障りのないことを言い死ぬまでは楽しく生きようと考えて居るが其れは誤りだ。

君が利口なのを兎に角世直しの為に使わなければ其の君の利口に意味などない。

だから教師は率先して闘え。そして革命を目指そう。

とは云え共産革命ではなくまた近代革命でもなく脱近代革命を目指すべきだ。

ズバリ脱近代革命の成否こそが今後に於ける人類存続の鍵を握っていやう。