元より主体による認識が対象を生じせしめる。
主客はむしろ不離即の関係にあり、特に無意識レヴェルに於いては時間的空間的に相互作用を繰り返す。
主体と客体を観念的に分離せしめることで物質的繁栄を齎した近代的認識、自我の働きが人間の欲を充たすに至る。
実はコレこそが皮肉な結末です。
近代とはそうした自我の分離ー分裂ー過程です。
わたしであるわたしがあなたであるあなたをどこまでも執拗に区別していく歴史過程です。
必然として自他対立に至る虚構の認識に対する飽くなき追求が近代的な豊かさを実現して来ました。
逆に言うと自他対立されない世界観に於いて人間の欲を成就させるに至るどんな方策もまた無かった訳です。
欲の成就は主客の分離を促したが元々人間の心には自他を分けて捉え易い性質があった。
尚コレは本能として誰しも持ち合わせて居る性質でありだからこそ自然界では日々自他の間での闘争世界即ち畜生界での闘争が繰り広げられてもいやう。
つまり人間は元々動物なのであり理性と言ったって何処までが理性で何処までも獣欲なのかまるで知れたものじゃない。
ですがとりあえず西欧近代は其処を敢えて理性化ー合理化ーしてみたのでありました。
其の理性化により客体を力ずくで捩じ伏せ金だの女だの、はたまた車だの飛行機だの、さらに原爆だのロケットだのに変え物質的繁栄の道を築いて来た。
いつもとはまるで反対のことを述べるやうですが、其れは其れでひとつの魔法であり素の人間ー動物としての人間ーにとってのひとつの連続的な価値観です。
其の素の人間が良いか悪いかと言えば多分悪いことでしょうがあくまでそうしたこととなる。
科学技術が其の魔法であり性の合理化が、はたまた宗教の合理化ー儀式化ー、教育や官僚組織に於ける画一化、また近代主義に於ける普遍化つまり全体主義化が全て其の魔法瓶のさ中でのことであった。
事実我我は今其の魔法瓶の中に居る。
魔法瓶じゃなく魔法陣だろうか。
まあ其処は何でも良い。
所詮はそんな合理化のことだ、魔法瓶としての合理化のことだ。
ですから、其れが悪いとは一言も述べて居ない。
いや、悪いがそうなって仕舞って居ること自体はどうしようも無くむしろ悪いのは現代人の頭の出来の方である。
だから私は其の馬鹿を治そうと述べて居るだけのことなのでしてね。
バカは死んでも治らないのでむしろバカ撲滅を至上の命題として現代人の心の中に是非据えておくべきだ。
然し現代人はすでに悪魔化されつつあり認識の方も次第に人間じゃないものにされて仕舞って居る可能性が高い。
様々な面で抑制が効かない社会になりつつあること、それこそ不寛容で利己的な世界観の構築が横行して居ることからしてもさう捉えて行かざるを得ないことだらう。
近代と其の齎す恩恵と。
こうして何でも食え、しかもあらゆる病気を治して呉れさえする、綺麗な姉ちゃんたちも其処かしこに居る、おお、あんなところにフェラーリがまたベンツが走って居るぞよ。
しかも我が子は皆利口で學士様修士様博士様ばかりだ。
ちなみに今ではバカでも大學へ入れるそうで、事実我我の頃は大學へ行く奴は四人に一人だったのだが今では二人に一人なのだそうな。
然し十年位前から屡言われるやうになったのが、理系の大學生でもって中学校程度の単純な方程式が解けない奴が居るだの、或いは文系の大學生でもって中学校程度の漢字が書けない奴が居るだの、兎に角もうひどい学力低下で、そこからして今の大學生は其の知力を額面通りに受け取って居てはいけない。
中にはもうとんでもない馬鹿が確実に居やう。
其れに近代は女をキレイに見せることだけには長けて居やう。
では早速其の辺を歩いて見給へ。
うわお、あの姉ちゃんは綺麗だ、其れにデカい。
しかしながら何故あんなにデカいのだ。
兎に角最近はデカい女が増えわたくしなどは道を歩いて居るだけで何だか怖い。
ふと振り返ると180センチくらいは背がありそうな女が居たりして其処がつまりは本能的に怖い。
其れに何やら女共が威張り腐って居るので余計に彼等がデカく見えて仕方が無いのである。
かように近代としての魔法の合理化が近代人の夢と希望を形作って来た。
だからもはや近代は変えようがない。
それに脱近代革命などは成らん。
近代人は近代人として悪魔をやり抜き真理とはほど遠い心の道を往くのみだ。
そして気晴らしにせいぜい綺麗な姉ちゃんと付き合うことを心の支えとして生きていくのみだ。
だからバカ官僚としてのかの財務次官もバカ知事としての新潟県の知事も淫行校長としての校長も皆女で失敗し叩かれるのである。
しかもコレが皆五十代である。
左様に人間の欲は近代とは無関係ではない。
むしろ近代化が人間の欲を画一的に規定するのだ。
食う、寝る、遊ぶが充ち足りればもう其の先はズバリ女しかない。
でも女は凄く怖い。
何せ女=悪魔なので怖い。
だから女は母である方がより望ましい。
聖母様としての母ちゃんであることこそが女としてのあるべき道だらう。
さて、仏法で云うところでの唯識とは何か。
一切不離識、唯識無境
「すべては心の中にある、心を離れてはものは存在しない、心の外にはものはない。」
尚仏法はあくまで真理であり現実としての今を規定するやうなものではない。
我我にとっての現実とはあくまで近代的現実である。
我我を規定して居るものは近代であり仏法つまり真理ではない。
つまるところ真理は現実を覆せないのである。
だから戦争反対、原発反対、乃至原水爆の削減を実現せよ、と幾ら声高に叫んだところで事実としての現実はかう現象化して居り勿論戦争は無くならないし原子力も無くならないのだし大国間の覇権争いも無くなりはしない。
ですのでわたくしの立場は今真理を相対化する段階ー位相ーにある。
相対化とは現実化と云う事であり同時に其処で問題を社会化すると云う事だ。
無論仏法を始めとする真理は全てが人間の心の内側に問題があると見て居やう。
たとへば唯識無境とは外界の事物は存在せず、其れ等は全て心的に構築されし虚構であり現象するのは心のみだとの仰せである。
また先に述べたやうに観念論に於いても其の種の法則性が見いだされて居たのだった。
然し果たしてほんたうにそうなのか。
どうも私は、其処に社会的に巣食うことだろう無意識レヴェルでの要素が欠けて居るやうにも思われてならない。
其の要素を加味し考えることは外側つまり客体としての要素をあえて設定することで近代として抱える諸問題を認識し易くする為の現実的な妥協点である。
つまるところ仏法に於いては元々主客の対立は無い。
主客の対立が無いやうに認識の方を整えていくと見るべきだ。
然しそうこうするうち認識すること自体の滅却、即ち観念の滅却に絶対性が付与されがちである。
確かに近代の超克は観念性の解体にこそある。
対して観念性の構築者としての観念論の格闘はまさに其の虚構から物質的な豊かさを力ずくで奪い取ることこそにあった。
謂わば心的領域の錯誤を手玉に取り逆に近代を開闢させ駆動させるエネルギーとなしたのだ。
西欧近代が齎した物質化=合理化の過程は真理を相対化させることでこそ成り立った。
無論其の対象となる心的過程はキリスト教のものであったが、結果的に人間の心を対象とする宗教としての普遍性からしても実は仏法に対してこそ其のことが突き付けられて居たのである。
其処からしても近代とは東洋思想領域に突きつけられし相対化の領域だった。
何故なら近代に於いては主客が対立しない心の段階を目指すのではなく主客が対立せざるを得ない心の段階で如何に其の主客の対立を抑えていくかと云う課題が生じる。
近代の超克はまさに其処に尽きて居るのであり其れは真理領域の話では無く其処に遥かに届かない原始的な領域ーもうまるで理性的ですらないーでの話であり問題である。