したがって、中世から近代初頭まで、実は、subiectumのほうが、それ自体で存在する客観的存在者を意味し、obiectumのほうが主観的表象を意味していたのであったのだが[2]、これがカントのころから意味が逆転し[2]、ラテン語のsubiectumがobiectumがドイツ語に訳されたSubjektやObjektが、カントあたりでそれぞれ(現在のような)「主観」と「客観」を意味するようになり、しかもカントあたりで二つの用語・概念が対をなすように扱われるようになったのである[2]。
客観と主観は、この世界の様態を捉えるために広く用いられる、基本的な枠組みのひとつである。世界を構成するものとして、「見るもの、知るもの(主体)」と「見られるもの、知られるもの(客体)」の2種類の存在を認める。
この枠組みを肯定し、主体と客体はいずれか一方を他方に解消することができないと考える哲学的な立場を主客二元論と呼ぶ。これに対し、全ては物質的な存在やそれらが引き起こす出来事であるとする立場は唯物論と呼ばれる。また、全てが意識の産物であって、外界や物質的存在があることを認めない、あるいは強く疑う立場は独我論、唯我論などと呼ばれる。ヴェーダの宗教などでは、主体と客体の分離が消失する場合があるとし、それを重視する考え方もある。「主客一体」「梵我一如」などと呼ばれる。いずれの立場も、他の2者を意識しつつ構築されることが多く、主体と客体という分類枠組みは、肯定されるにせよ否定されるにせよ、ある程度理解、共有されている。(しかし仏教、特に中観派においては、主体と客体というような二項対立的な見方を謬見として徹底的に斥ける。この延長線上で実践したのが中国唐代の禅であり、彼らの目標は「主と客」という意識(念)の起きる以前の意識の探求であった。またヨーロッパにおける脱近代の思潮にもこのような見方があることも特筆しなければならない。)
また、カントのように人間は特定の形式(時間と空間)に沿ってしか現象を認識できず、ありのままの事物(物自体 Dinge an sich)を知ることは不可能である、と考えることは現代においても比較的広く受け入れられている発想である。以上より引用
まさにこのやうにカント以降主観と客観の区別が対概念として生じ近代的認識が可能とされた訳で、ですから近代世界での思考の枠組みはとりあえず主客二元での捉え方で為されなければなりません。
其の分離が悪いかどうかはさておき、近代世界はそうした二元的な世界の解釈を元に成り立って居り其れ以外に認識の対象となる世界を持ち得ないと云うこととなる。
ですから意識ー主体ーがあれば事物つまり客体がある。
或いは我あらば君が居る。
寝て居て又は死んで居て我が無いと君もまた無くどんな物も無い。
ですので世界はわたくしのものです。
元々わたくしのものなのでわたくしのものではないと考える方がそもおかしい。
と云う事は考えたー意識で捉えたー世界は全部わたくしのものだと云う事なのやもしれぬ。
でも考えない世界はあるかと問われればどう考えても其れは無くどだい寝て居らずかつ死んで居ない今はどう考えても矢張り考えた上でのー意識で捉えたー世界である。
一方で世界はわたくしのものではなくたとへば神様のものであると云う考えは前近代と言いますか未開の文化に於いて顕著にみられるものであった。
ですが未開だとデカい欲が成就されなくなります。
第一金も無いし車も無いし飛行機もありません。
それに病院も無いしピンサロも無いしましてやPCも無い。
まあ其の方がほんたうは遥かに幸せでしょうが兎に角主客に分離した世界観を生きることが近代人の常ですので反文明とか言いながらアマゾンのジャングルだの何だのへ移住する輩は近代人だとは言えない。
近代人は少なくとも都会のある国に住み、其れでもってピンサロも病院もPCも頻繁に利用し其の上で金があれば無論のこと女にも手を出しさらにフェラーリやマセラッティ、或いは戦闘機にも乗る位のことが出来なくてはなりません。
このやうに近代人は強欲でしかもバカ、其れも主客に分かたれたバカでもってして常に人を疑ひおお、これぞ自分だ、我だ、我先にだ、と其のやうに自意識過剰の体でなくては生き抜いてなんぞいけません。
尚近代には近代に至る必然としての精神の流れがあり其れは良し悪しでもって論じられるものではない。
近代の営為が須らく悪魔化して滅ぶのだとしてもあくまで其れは良いとも悪いとも言い切れない縁起の上での所為所産である。
さて、此の主体と客体の問題がどうにも個人的に分からない。
主体と客体、即ち意識と事物との関係性がいまひとつハッキリして来ない。
ですが現象としての分離過程に於いてそう分離して居るのだとまずは捉えておくべきでしょう。
ただし自然に於ける其の分離度は明らかに低い。
そしてより自然に近い未開の文化に於いて其の分離度は明らかに低い。
と云う事は文明の今こそ其の分離度が最高値を取って居ることだろう。
近代的な構築の末期としての現在が主客の分離を大いに促進させて居ることだろう。
と云うことで私の場合はそうして全てが社会の問題だ、社会が悪いから主客の分離を加速させ人間の心を利己主義化して居る、とさう考えます。
なので牢屋へ入るべきは其の悪い社会としての心であり我我人間の悪い心ではありません。
「存在」が分離されると現象が生じ二元的対立の世界が生ずる。
神の國乃至は神の園或は仏の世界に二元的対立は存在しないが現象すると必然として対立が生じかつ欲に捉えられる。
だから其の欲は女が居るからそうなる。
欲深い女共が其の辺にウジャウジャ居るのである。
また生きる為に飯を食うと云うこれまた実に面倒な矛盾、理解し難い非観念的行為をも受け容れなければならぬ。
さらに人間は言葉を仕込む。
言葉にて常に何かを考えると云うとんでもない業を背負い込んで居る。
其の考えると云うのは近代以降の人間の場合主客の立場を考えた上で考える。
また猫や犬も考える。猫や犬は結構人間に近い。
でもナメクジや虫は一体何を考えて居るのか、おそらくは主客の対立を生じる以前の段階での何かを感じて居ることだろう。
とりあえず、分離はされて居るのだと思う。
主客の分離はある。
男女の分離があるやうに其れはある。
然し、認識の対象として其れを形式化して居るのはあくまで自分である。
自分=己=我。
「対象というものは、主観に与えられたか主観に本有的に備わっている観念を材料や形式として主観の働きによって構築される現象である」
対象=事物=客体を生み出して居るのがおそらくは意識の流れである。
ところが意識には顕在化され得ない領域がある。
謂わば其れが無意識の流れである。
此の無意識の流れの方が怖いと最近私は感じて居る。
論理とかそういうことではなく感じる。
尚私は論理と感覚がどちらもいける人間である。
だから所謂女の勘のやうなものにさえ恵まれて居るんだ、実は。
そうこうして居ると、どうも色んなことが心の底の方で繋がって居るやうに思えて来た。
實人生上色んなことが毎日起こるが、どうも事象毎に符号があり其れ等が自分の思いと無関係ではないのだ。
そうあくまで思いの方。
考えではないのである。
考えと云うのは論理なのでむしろ事象とは無関係で、其の感覚上の直感みたいなもののみが相互に影響を及ぼしあって居るのである。
考えの方はあくまで考えの方、即ち自縄自縛での観念の所産のことだから現象を揺るがすやうな大きな意味合いは無いのである。
そうした論理以外の領域で無意識的に展開される観念への負のフィードバックのやうなものの方が私にとっての打撃が大きい。
要するにこのバカ、ハゲとかもし好きな女に言われたらもはやわたくしは立ち直れない。
いや、其れは誰しもそうなのであろうが。
其処からしても対象は意識の流れから生ずるのだとしても其の意識には色んなものが入って居り必ずしも論理的な展開とはならないのが此の世の常である。
だとすると、自己の中の非自己としての要素こそが往往にして此の現実には出て来ると考えられなくもない。
あんな奴が居るともう生きていけない、などと考えて居る真面目な君に限ってそんな奴が仕事上のパートナーとして出て来たりするものだ。
さらに離婚だけはしたくない、其れだけは勘弁して下さいと泣いて謝ったにも関わらず愛する妻は私の元を去っていった。
ところがどう考えてもあり得ない幸運が舞い込むことさえあるのが此の世の常だ。
事実俺はもうダメだ、もうこんな仕事ばかりして居るのは耐えられない、パートの仕事をかけもちで夜九時まで毎日働く毎日だ。
といつも嘆いてばかり居たOさんー元塾の経営者ーは準教授の女に突然ホレられ二年前に結婚し同時期に新たな仕事もみつかった。
だから人生は何があるかまるで分からないものである。
もっともダメなものはダメになり易い。だからそのままでは矢張りダメだ。
だが彼の其の意識、其のあがきの意識が、現状をどうしても変えたいといふあがきの意識こそが其の玉の輿としての女を生んだのであらう。
でも私は前々から言って居た。いや、君の場合はズバリ女といふ手があらう。
君はみたところも体格が立派だしゴルフの方もまずまず上手い。
其れに我我のやうにコレクターではない。
言うまでもなくコレクターでは家庭は持てない。
コレクターにはならず女を否定することがなかったO氏はさうして助教授の女の元へ嫁いだ、否、婿として入った。
二年前に練習場へ行くと新婚のO氏が女から買って貰ったと云う真新しいドライヴァーにて良い当たりを連発して居た。
此処からしても感覚上の前向きのものが対象としての幸福にどうも繋がり易い。
然し暗い観念が即対象としての地獄に連なるとは言い切れない。
観念つまり思想は別に暗くても良いが少なくとも女に嫌われない位の明るさ、前向きな気持ちを失わず生きて居れば必ずや家庭を築くことが出来やう。
無意識、其の無意識のレヴェルでの共有された女たらしの感覚こそが認識の対象としての女を生み彼をして孤独地獄から救ったのだ。
だから、其の思ひ、其れだけは容易に阿頼耶識に共有される。
なので実は皆見透かされて居る。
有情としての客体には君の心のありやうが既に通じて仕舞って居る。
で、どちらかと云うと女の方が其れに共感、共鳴し易い。
まあ騙され易いと云うか、本質が見抜けないと云うか、表面上だけ妙に敏感だとでも云うか、まさに子宮だけで反応して居ると云うか、まさにそんなところである。
だから無意識に共有されるやうな表面的な心の上での整備こそが生きる上で最も大事なことだ。
論理以外の領域で無意識的に展開される観念への負のフィードバックのやうなものとは、まさに其の部分の不備を突いて来て論理的構築力其れ自体を崩壊させるに足る原始的な破壊力を備えて居やう。
だから近代を生きることとは突き詰めると畢竟観念論なのだが現象としては謂わば無意識的に客体を包括する主体としての認識作用であり其の認識作用が女を仕事をフェラーリを生むのである。
対象を生むのが其のやうな近代的主客の論理であり、ですが常に客観は無意識領域に吸収されあくまで表層の意識の流れとしての主観と混じり合う。
要するに客体とは其のやうな認識上の流れでのことなので大いに自分とは関係がありだから人間は孤独などではあり得ずむしろいつも衆人監視の元にこそある。
逆に孤独になりたい人は良く寝るか、或いは早逝するか、其のどちらかしか人間には孤独なんぞは許されて居ないとみるべきだろう。